美しき家

雨宮吾子

01

 朝、電車に乗る。いつもの時間にいつもの車両、そしていつもの席。私が利用するのは始点に近い駅だし、早めの電車に乗るから大抵は思惑通りにいく。そして徐々に乗客の増えていく車内で読書をする。がたん、といつも同じ場所で同じ揺れが起こる。それが合図だ。私は伏せていた視線を持ち上げて、向かい側の窓の外を見つめる。その先には小高い丘があって、住宅が立ち並んでいる。どれもが没個性的な日本風家屋なのだけれど、その頂上に一軒だけ、西洋風の家がある。青、というよりは水色の外壁のその家には、母屋とは別に小さな温室があって、その中に繁茂する緑がささやかな自己主張をしている。水色の母屋から緑に溢れた温室に視線を移したとき、私の心にはぱっと鮮やかな気持ちが生まれる。その気持ちの色を確かめるよりも早く、またその家の細部に目を凝らそうとするよりも早く、電車は向きを変えてその丘の方から離れ去ってしまうのだった。

 ふう、と一息つく。何をしたというわけでもないというのに妙な達成感がある。その十秒にも満たない時間の濃密さは、他に例えようもない。もしそれ以上のものを描けるような人がいたなら、私はきっとその人と恋に落ちてしまうだろう。ふと斜め前に座っている黒い学生服の男の子と目が合った。偶然だろう、きっと。恋のことなんて考えていたから、きっとその考えが表情に浮かんで、その男の子を引き寄せてしまったのかもしれない。十六歳の私には、まだ恋は早いのかもしれなかった。恋に落ちるなら、誰かに突き落としてもらわないと。




 朝にはそんな素敵な体験をできるというのに、学校へ行くのは少しばかり憂鬱だった。勉強が嫌いというわけでもなければ友達がいないというわけでもないのだけど、でも、そう、はっきりと言ってしまえばいじめが起こっているのだ。私はもちろんいじめには参加していないし、ましてやいじめを受けているわけでもない。それにいじめと言っても些細なことが多くて、まあそれは陰湿とも言えるのだけれど、とにかく私はその出来事には関わりたくない。それだって風邪の流行のような一時的なものかもしれない。だって、私たちはまだ高校に入って三ヶ月も経っていないのだ。中学から高校に上がると世界は変わる。でもまだできることよりもできないこと、つまりさせてもらえることよりもさせてもらえないことの方が多い。だから、今はまだ意識のバランスが整っていないといえるのだ。

 私に言わせてもらえれば、親や先生だって悪い。そんな状況なのに、与えてくれるものは少ないのに、私達にはたくさんのことを求めてくる。まだ高校生なのにと言ったその口で、もう高校生なんだからどうこうと言うのだ。舌の根も乾かないうちに、ということ。だから私は、私たちは混乱しているのだろう。

 私の親は私のために色々なことを考えてくれる。でも考えすぎることもある。環境の変化に馴染みにくい私の傾向は知っているから、気を遣って女子校を勧めてきた。そういう気遣いはありがたいし、多分同級生も同じような理由で入学した子が少なくないはずだ。でも、とやっぱり私は反抗してしまう。災いをもたらすのが男の子だけというのは間違いで、同性の子だって災いを運んでくる。現に今も憂鬱になる原因の一つに、彼女たちのいじめがある。それに私ももう子供じゃないから、大人の男女の恋がどこに行き着くかも知っている。大人じゃないからってそんな映画の中で見たようなことの真似事をしちゃいけないなんて、そんな法はないはずだ。そもそも、子供って何なのだろう。

 私は、そんなあれこれでもういっぱいいっぱいだった。そんな悩みが吹き飛んでしまうような烈風が流れ込んできたのは、夏の一歩手前のことだった。






 彼女の名は、ナオミといった。

 不思議な雰囲気の、けれど学年に一人はいる友達の全くいないタイプの子。同じクラスじゃなければ存在に気付かなかったかもしれないくらいの子。私は建築物に憧れを持つことはあった。でも、人に、それも同性に興味を惹かれることはほとんどなかった。どうして彼女に惹かれたのかといえば、それは単純に綺麗な顔立ちの子だったから。でも、だからというべきか、彼女は路傍の石のような扱いだった。その出来事が起こるまでは。

 その事件というのは、衣替えに関連して起こったものだった。私の学校のほぼ唯一の美点は校則の緩いことで、例えば冬服と夏服の衣替えに関しては各々の判断に委ねられている。かといってずっと冬服を着ているような子はいなかったのだ。けれど、そのナオミという子は蝉の鳴き声の聞こえる頃になっても頑なに衣替えを拒んだ。私の友達によく気が付く子がいて、そのときも無邪気にその賢い頭を働かせた。


「あの子、リストカットしてるんだと思う」


 誰がその推測を拡散させたのかは分からないけど、その噂は瞬く間に学年中に広まった。そしてそれがほとんど事実のように語られるようになると、あるグループが真実を暴こうと言い始めた。その運動は次第に熱を帯びて、結局、暴力的に噂の真偽が白日の下に晒された。最初は止めなさいよと言っていたような子も徐々に態度を変えていって、クラス中のほとんどが興味を抑えきれなくなっていき、彼女の手首の切り傷が晒されたとき、その興奮は頂点に達した。

 私も例外ではない。彼女の手首が白熱灯に照らされていたあの瞬間の、あの官能的なまでの快感を私は未だに覚えている。その瞬間の彼女は正しく、正しく輝いていた。

 それからの彼女は、しかし路傍の石に戻ることは許されなかった。いじめの対象としてそれ以上の存在はなかったから。そのときの安堵感、私だけでなく大勢の抱いていた安堵感もまた記憶に新しい。いじめの対象が一つに絞られたことで、私たちは結束さえできた。彼女はそのとき、悪だった。

 彼女はそのいじめをどのように受けていただろう。私は見て見ぬふりを貫いていたせいもあって、本当にそのときの彼女の様子を知らない。ただ、私の想像の中で泥水に突き飛ばされた彼女は、雨雲の間から覗いていた太陽に照らされて、きっと輝いていたことだろう。

 体育の授業のための着替えをしていたあるとき、私はいつの間にか彼女が他に混じって堂々と着替えていることに気付いた。それまではきっとトイレかどこかで着替えていたのが、一度汚されたことで却って決心がついたのかもしれない。彼女はまさに威風堂々としていて、普段は制服の下に隠された傷や痣を誇るような、そんな態度でいた。私があらかじめ見知っていた彼女に一目惚れしたのは、そのときのことだった。

 一日の中で体育の授業こそが最も苦痛だった。どこからか「偶然に」飛んできたバレーボールが彼女の顔に当たったり、何かの「弾みで」身体にぶつかったりされていた。彼女はますます傷を増やしていった。しかし告白しておかなければならない。私は悲しむのと同時に喜びさえした。

 いじめの対象になり得ないという私の安堵感はそれからしばらく続いた。相変わらず彼女はいじめを受け続けていたし、それを見て見ぬふりをするという私たちの慣習も続いた。夏休みを目前に控えて実施されたテストでは良い成績が取れたし、お母さんの作ってくれるご飯は美味しかったし、夜もぐっすりと眠れた。それが日常の当たり前だと、私は思い込んでいた。

 事情が変わったのはテスト明けのことだ。私のクラスの担任は五十代の男性で、普段は穏やかでどこか諦めたような雰囲気があって、あだ名を付けられるほどには好かれていなかった。その日の授業が終わって掃除も済み、帰り支度が進められている教室に先生は静かに入ってきた。いつものように短めの連絡が済んだなら、みんなは弾かれたようにして教室を後にするはずだった。三枚のプリントが配られ始め、淡々と時間が進んでいく。黒板に近い子たちの様子が何かおかしいと気付いた頃には、私の手元にもプリントが配られてきた。


「いじめは悪です」


 大きく強調されたその一文で始まる文章は、このクラスで静かないじめが起こっていることを間違いなく知っている人物、つまり先生が書いたものだった。先生は私たちの反応を少し高い教壇から黙って眺めていた。動揺して目配せをし合っている子、作ったような口調でお互いの無罪を確認し合っている子、私のような平静を装いながらも机の下で足を震えさせている子、反応は様々だった。私がふと教壇を見上げたとき、先生と目が合い、思わず逸らした。私はその一瞬の視線の交錯で、ほとんど自分の罪を告白したようなものだった。同時に先生の中で燻っているものが読み取れた。


「いいか、先生は今起こっていることをかなりの程度まで把握している。もし先生の認識が間違っていなければ、お前たちのほぼ全ては悪人だ。今はまだ大きなところまでは発展していないようだが、いじめはその軽重に拘らず全ていじめだ。従って、お前たちは悪人だ」


 それは物事の善悪を教える学校という場では最上級の表現だったかもしれない。私は、このときに自分が悪人だということを知った。正確には、そう気付く前からずっと悪人だった。


「残念ながら先生もまた人間だ。人が人を裁くこと以上の傲慢はない。だから、今日はお前たちに猛省を促すことしかできない。ただ一つ言っておきたいことがある。先生は性悪説を信じないし、同時に人の悪が一生ものではないと信じている。人は悪を認め、それと向き合うことでその悪から解放され得る。だから今日は、家に帰ってよく考えてほしい。自分の臓腑を喰らうようにしてよく自分の行いを振り返ってほしい」


 先生はそれだけ言うと、私たちを顧みずに教室から出て行った。私は残された苦い後味を乗り越えようとしたけれど、それは全員が受け止められるものではなかった。

 悔しいけど、結果的に私もその一人になった。友達の一人から一緒に買い物に行こうと誘われたとき、私は喜々として付いていくことにした。

 けれどもそうやって逃避した先に良いことが待っているはずもなかった。同じように買い物で鬱憤を晴らそうと考えていたいじめグループに、偶然出会ってしまったのだ。


「あのさあ、あんたが告げ口したんでしょ?」


 近くにあったファミレスの席に向かい合って座った瞬間、いじめグループの一人がそう言った。私に対してではなく、一緒に買い物に来ていた有希という子に対してだ。


「違う、私じゃない」


 そうやって抗弁する彼女の手は、テーブルの下でがくがくと震えていた。私は彼女に手を握られて、その緊張が嫌でも伝わってきた。握り返すことで彼女の気持ちを沸き立たせようとしたけれど、それでもいじめグループの攻勢は強かった。


「リサ、本当にこの子じゃないの?」


 リサ、それは私の名前だ。それまで有希に注がれていた視線が、一気に私を射抜く。猟犬のような目だ。私はそこできっぱりとこう言った。


「この子じゃないよ」


 その声は少し震えていたかもしれない。実際に有希が告げ口をしたかどうかを知らなかったし、鋭い眼差しに囲まれることで緊張していた。それでも私は何とか彼女の無実を訴えることができた。ただ、次の言葉には辟易とさせられた。


「じゃあ、あんたが言ったんでしょ」

「違う!」


 私は半ば叫んでいた。一瞬の静寂の後に、隣に座っていた有希が泣き始めた。ダムが決壊してしまったかのように、彼女は自分が告げ口をしたことを告白し始めた。暗い泥のような気持ちが私の背筋を這いずり回るような、嫌な汗が浮かんできた。

 その次の日から、いじめの対象は変わった。有希はあのナオミという子を救ったのだ。それに対して、私は有希を救うことはできなかった。






 長いようでいて短い夏休みの後、私は一週間くらい学校を休んだ。もちろん夏休みの宿題が終わらなかったからといったような理由ではなく、対象を変えて再燃したいじめのきっかけを作ってしまったことへの罪悪感と、いじめが私に飛び火してしまうことを恐れたからだ。そして密かに、心の底で有希に嫉妬もしていた。おかしな話だけれど、私は間接的にナオミを救った彼女に嫉妬していたのだ。どうしてそんな感情を抱いたのかは分からない。その醜さ愚かさをベッドの中で罵りながら、深まる秋の一日一日は暮れていった。

 一週間くらい経ったある日の夕方、家に尋ねてきたのは担任の先生だった。私は具合が悪いからと強弁して会うのを拒んだ。しばらくして母親が枕元に何かを置いていった。足音が遠のいていくのを確認してから、私は身を起こしてそこに折りたたまれていた紙片を開いた。


「明日の十二時、学校へ来るように」


 その次の日は土曜日だった。学校にいるのは部活動をしている生徒ばかりで人がいなくて、不思議な気持ちで廊下を歩いて行った。よく掃き清められたその足元の涼しさは、私にどこか快いものを感じさせた。私が苦手と感じていたのは学校という場所そのものではなくて、そこで生活を送っている同級生たちなのだということが分かった。

 職員室も人はまばらだった。失礼します、と小さく口にして先生の使っている机へ向かう。先生はいなかった。


「あら、先生とお約束? すぐに戻ってくるから、そこに座って待っていなさい」


 隣の席を使っている先生が親切にそう言ってくれた。私がその通りに座って待っていると、十分もしないうちに先生が戻ってきた。扇風機の羽の向こうに半ば隠れた先生の顔は、普段通りの穏やかな表情だった。


「ああ、すまん。ちょっと話が長引いた」


 そう言って先生は席に座ると、手にしていたフォルダを机の中に収め、再び席を立った。そしてどこかから一枚の紙を持ってくると、ペンを持って私の顔を初めて見た。


「この前のことを覚えているか?」

「私は、悪人です……」

「ふん、そうか」


 そんなことは何でもないとでも言いたげな様子で先生は頷いた。


「水原の親御さんから連絡があったよ。水原も三日前から休んでいてな」

「有希が、ですか?」

「ああ。それで、今クラスで起こっていることの事情が少し変わったのが分かった。もちろんその全てを把握したわけではないが、しかし同じ時期にお前が休み続けているから、これは何かあるなと思った。お前のお母さんも心配していたよ」

「お母さんが?」

「お前、そんな不思議そうな顔をするんじゃないよ。親というものはどうあっても親だから、心配して当たり前なんだ。お前はテストの成績が良かったから喜んでいたのが、夏休みの直前に何か嫌な出来事があったらしいと言ってな」


 私には返す言葉もなかった。


「それでお前に事情を聞こうと思ってな」

「先生は、また同じことを繰り返すんですか」

「同じことってなんだ」

「みんなの前でいじめのことを話して、それが有希に飛び火するかもしれないってことを少しでも考えたんですか」

「……」


 先生はペンを置くと、少しの間だけ沈黙した。私は先生を怒らせたかもしれないと思ったが、やがて口を開いた先生の口調からは怒りを感じなかった。


「先生もお前が生まれる前からこの職業に就いている。それなりに経験は積んできたつもりだ。それでも過ちは犯す。自分が正しいと思ってやったことも、後から考えれば失敗だったと反省することもある。今回のこともそうだ、私は自分の軽挙妄動を恥じた。だから上の先生や同僚の先生と話し合ったり、親御さんとよく連絡を取り合ってこの問題と向き合っていくつもりだ。それでも、それでもお前たちを傷つけてしまったことは変わらないと思う。すまなかった」


 私は大人からそうやって素直に謝られたことがなかったから、戸惑わずにはいられなかった。そして、先生に抱いていた印象が少し間違っていたことにも気付いた。先生の中には諦めなんかなかった。


「先生……、私、知ってることは話します。それから宿題もしっかり提出して、また来週からちゃんと学校に通います」


 私は自然に笑みをこぼしてそう言った。先生もまた、清々しい表情をしていた。


「ありがとう」


 先生は再びペンを取って私の話を書きとめようとした。と思ったら、記録しようとしていた紙を手にして、その裏面を私に見せた。


「これは裏紙だ。ここで聞いたことは私的に処理する。お前の名前が出ることは決してありえない。それで良いな?」


 私は、はっきりと頷いた。




 その次の月曜日、私は下足箱の前でちょうど登校してきた有希と顔を合わせた。


「心配してたんだから」

「それはお互い様よ」


 有希は私を責めようとはしなかった。あくまでも自分で全てを受け止めようとしているようだった。

 私たちは揃って教室へ向かった。私は久しぶりに会った同級生たちと話すことができたし、有希も自然とその輪に入った。しかし、例のいじめグループが姿を見せると、次第に私たちの周りからは人が離れていった。私は思った、ここで負けちゃいけない、と。




 夕方、私と有希は教室に残って、明るいうちに話しきれなかったあれこれを話した。有希は気を遣って私からは距離を置いていたから、遠慮なく話せる機会は放課後にしかなかった。何を話したのかも覚えていないくらいに雑多で他愛のないことを、私たちは延々と語り合った。それは久しぶりに楽しい過ごし方をしたと実感できる時間だった。

 五時半を過ぎ、そろそろ帰ろうかと話していた矢先、教室の電気がぱっと消えた。消灯の時間なのかと思ったけれど、そんなはずはなかった。再び電気が点いたとき、いじめグループの内の三人が意地の悪い笑顔を浮かべて教室になだれ込んできた。


「やっぱりグルだったんだ」


 私はぐっと唇を閉じて抵抗の意志を固めようとし、また示そうとした。傍にいる有希も背筋を伸ばしたのが分かった。それでも三人は嫌な笑顔を浮かべたままだった。緊張が高まり、それがぱっと弾けたのは、有希が私の手を掴んで教室の外に走り出そうとした瞬間だった。私は瞬時に有希の考えが分かった。

 逃げる。

 立ち向かうことが難しいのなら、逃げれば良いのだ。そうやって逃げた先に苦難が待っていたとしても、そこで終わってしまったのなら何の意味もない。私たちは必死に廊下を駆け抜けた。まるで羽が生えたかのように身体が軽く感じられたので、追いかけてくる三人を引き離したかと思ったそのとき、有希の声が廊下に響いた。


「振り返っちゃダメ!」


 しかし私は顔を背後に向けていて、すぐ後ろから体当たりをしようとしてくる相手を視界に捉えた。次の瞬間、天地がひっくり返ったかのような衝撃があった。

 冷たい無機物にぶつけた額が熱を持って喚いているのが分かったのは、どれくらい後のことだっただろう。私は恐る恐る手で触れてみたが、血が出ているという様子はなかった。ぼやけていた視界が鮮明になってくると、私はひんやりとした床に倒れていて、天井を見上げているのだということが分かった。天地は無事だったようだ。

 立ち上がり、自分が額をぶつけた物に触れた。それは階段の手すりだった。周囲を見回すと、体当たりをしてきた子が青ざめた顔をして何かを見下ろしていた。その視線に沿って目をやると、私と同じように、それでいて私よりもぐったりとして踊り場に倒れている有希の姿が目に入った、


「私……、私じゃない!」


 彼女はそう言うと他の二人を促し、今まで走ってきた廊下を遡って夕闇の中に姿を消した。嗚咽したくなるような気持ちの悪さを感じながら、私は身を起こして、それからやっと職員室に助けを求めに行くことができた。救急車が来たのは、実に三十分後のことだった。






「大した怪我じゃないよ」


 白いベッドの上で微笑む有希の表情には、それでもどこか悲痛なものがあった。私を庇って階段から落ちたのだという感覚が、後になって悪夢のように追いついてきたから、私はその表情に実際以上のものを感じていたのかもしれない。私にはできる限り謝ることしかできなかった。

 額を打撲しながらも軽い怪我で済んでしまった、そんな私を慰めたのは、有希のお見舞にたくさんの友達が来てくれたことだ。みんな、有希の怪我を心配していた。骨折した箇所を恐る恐る擦ったりしながら、有希の回復を願っていた。季節外れの雪解けを見たような思いだった。

 今回の出来事をきっかけにして、いじめの問題が少しずつ解決に向かっていた。全てがすっきりとした形で終わるわけではないだろうけれど、それでも一歩一歩前進している。そのこともまた私の心を支えてくれた。

 全ては少しずつ、少しずつだ。




 有希の退院を間近に控えたある日、意外な人物が病院に現れた。それは、ナオミだった。ナオミは先生に連れられて病室にやって来た。普段から物静かな子だったから、このときもあまり言葉を口にしなかった。私たちや先生が話しかけたことに頷いたり首を振ったりするばかりだった。そうやってわずらわしさを伴いながら進んでいく会話の中にいると、有希の退院を前にしているせいもあって、穏やかな日常が再び戻ってきているようなひとときだと私には感じられた。

 先生がナオミを促して帰ろうとしたとき、彼女はそれを拒んだ。私と、おそらく有希も先生も、ナオミの拒絶を好意的に受け取った。それで先生はナオミを残して先に帰った。

 私はクラスの子たちが持って来てくれたリンゴを切るために、一度病室から離れた。家事の手伝いなんてあまりしてこなかった私にとって、その作業はひどく困難なものだった。不器用という自覚はなかったのだけれど、自分がまだ一介の子供に過ぎないんだということを痛感させられたような気分になった。でもそれは、高校を卒業するまでに上手くなれば良いことなのだ。その頃までにきっと色々なことが起こる。様々なことを経験するうちに、私たちは、少しずつ大人になっていくのだろう。

 妙にしんみりとした気分のまま病室に戻ると、ベッドに身体を委ねて天井を見上げるでもなくぼうっとした表情をしている有希の姿が目に入った。そこにナオミはいなかった。


「どうしたの?」


 と口にするのと有希の頬に伝っていく涙に気付いたのは、ほぼ同時だった。


「どうしたの」


 二度目の問いかけは、自然と言葉の圧力が強くなっていた。有希は私の胸に顔を埋めると、抑えていたらしい感情を次第に漏らし始めた。


「同情なんかしないって」

「えっ?」

「あの子、私に同情なんかしないからって、そう、言ったの」

「……有希、待ってて」


 溢れ出す有希の嗚咽を背後に聞きながら、私は走ってはいけない廊下を早足で、二階分の階段を全力で駆け下りた。病院の正面玄関から出たところでちょうどナオミの姿が目に入った。平然としている。血が上った頭を冷ますように深呼吸をすると、私はその背中に声をかけた。


「あなた、ここに何をしに来たの」


 彼女は振り返ったけれど、それに返事をするわけでもなく、しかし僅かに上から見下ろすような目の色を示した。その表情を認識するよりも早く、私はその頬を叩いていた。実際には数秒だけ時間が飛んだような気分だった。けれど、柔らかい頬を叩いた手の感触が重く、嫌な残り方をした。


「どうして、どうしてなの」


 私は力で相手の感情をねじ伏せようとした引け目を感じて、そのせいでなお強く詰問せずにはいられなかった。ナオミの眼差しは相変わらず私を射抜いていたけれど、そこにはどこか寂しげな色があった。そしてまた、いつか担任の先生に感じたものよりもずっと強く、諦めの陰があった。


「私、誰かに助けてもらいたいなんて思ってない。押し付けがましい言い方をして私にしがらみを与えようとしないで」

「でも、有希はあなたのためにいじめのことを――」

「いじめじゃない。いじめなんて言葉を使って、私を弱者の立場に堕落させないで。あの子たちは私を傷つけようとする。でも、私とあの子たちの道はもう二度と交わらないから」

「何を言っているの?」

「私は、色々なことを学んでいかないといけない。こんな惨めな環境から、その状況から抜け出すために」

「じゃあすぐにでも辞めればいいじゃない!」


 私はほとんど叫んでいた。


「学校なんてもう辞めて、自分の好きなようにすればいい。それがあなたの自由なんだから。でも、私の友達を傷つけるようなことはしないで」

「貴女の友達を傷つけたのは、あの子たちじゃない。どうしてそんな子たちの肩を持つの?」

「あなたには分からないのね。あなたみたいな子にはきっと一生分からないわ」


 私はそれだけ言うと、そのまま振り返らずに病室に戻ろうとした。

 意外にも、後から追いかけてくる言葉があった。


「同情なんかしないわ。貴女が私に同情しないように。私たちは結局一人なんだから、強く生きていかなくちゃならないのよ」


 私は、立ち止まらなかった。






 お風呂に浸かった熱が冷めないうちにベッドに入る。風邪でも引いてしまったかのように頭が上手く働かなくて、ベッドの中に熱がこもって露出している頭部が冷たく感じられるようになってくると、急にかちりと歯車が噛み合ったかのように思考ができるようになった。

 時間を置いて、ナオミの言ったことを鮮明に思い出すことができた。私は何てことをして、何てことを言ってしまったのだろう。後になってしまえば彼女の言うことも少しは分かるし、あんなことはすべきじゃなかった。それでも、もしもう一度同じ状況になったなら、きっと私は同じことをするだろう。彼女は私たちの気持ちを踏みにじったのだから。

 静かな部屋の中で流れる音は何もない。時計はデジタルだから秒針が動く音はなく、まだ寒い季節ではないからエアコンの動く音もない。そんな静寂の中で、私はナオミのいじめが起こったきっかけを思い出した。

 彼女はどうして、リストカットなんてしたんだろう?

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