不香の花
蒼飴空
第1話
彼女に出会ったのは、冬の最も寒い日でした。
山には濃い雪が降り積もり、麓にある私の住んでいる村にも、雪は降り積もりました。とはいえ、生活が劇的に変わった訳ではなく。私は何時ものように川へ水を汲みに行きます。雪のせいで普段よりも足場の悪い道を何とか登り、辿り着けば、綺麗な女性が川の直ぐ脇に佇んでいました。
白い着物と白く長い髪が、開けた川の上空から射し込む日の光で雪のように煌めいて。振り返ったその人は、肌も目も真白でした。直ぐに、人では無いと分かったのですが、どうにも恐ろしい雰囲気では無かったので声を掛けてみたのです。
「あの、そこで何をしているんですか」
「川を眺めていたのだが、お主こそ何用だ?」
「わ、私は水を汲みに」
「井戸でも凍ったか?ご苦労なことだ」
「そうです。冬の間は川の水にお世話になっているので」
存外、普通に話が出来るのだなと驚きながら私は女性に近付きました。よく見れば、彼女の着物には細かな雪の模様が鏤められていて、その視界の寒々しさに私は身体を震わせます。すると気付いたのか、その人は申し訳なさそうに微笑んで、その美しさに私はつい、震えたことも忘れて見惚れました。
「好きな柄なのだが、悪いことをした」
「いえ!とってもお似合いです!」
「ふふふ、ありがとう」
少し話してその日はそこで別れました。彼女は最後まで穏やかで、これならば相手が狐か狸で、化かされていたとしても一向に構わないとさえ思ったのです。
彼女との逢瀬は何度も続きました。暫くして気付いたのは、彼女は雪の積もっている場所によく居る様なのです。雪が好きなのだと、彼女は言うのに、その姿は何処か寂し気で。それから春が来るまで、私達は沢山の話をしました。
不思議と、春になると彼女の姿は段々と見かけなくなり、夏にはついに、パッタリと、合わなくなったのでした。雪解けの川にも、命が芽吹き始めた山の何処にも、彼女の姿はありませんでした。だから私は単純に、彼女は冬の妖怪か何かだと思っていました。そしてその年の冬にはまた姿を現すのです。私が人でないと気付いていることは、当たり前のように、彼女には承知の事でした。
それについて彼女が尋ねて来たのは、3度目の冬のある日の事でした。その日は月が綺麗だったので、私達は夜に会いました。目の前で流れる川面に月の光が当たって、昼間とはまた違う美しさを見せています。
私は提灯を片手に川の傍まで行きました。冷え込む夜ということもあって何枚も着込んでいたのですが、彼女は最初の時と全く変わらない服装です。少し寒そうだと上着を貸そうとしたのですが、柔らかく断られては何も言えません。夜風に吹かれる度に月が絹糸のような彼女の髪に宝石を鏤めていくので、その光景を忘れまいと私は一層、彼女を見つめます。
「怖くはないのか?」
「不思議とね。貴方が私の血でも狙ったのなら、私は怖がっただろうけれど」
「うう……血は苦手だ」
「そうなのか」
「あれはとても温かいだろう?だから、火傷するかもしれぬ」
静かに切り出した彼女に、私も静かに返しました。血が苦手だという彼女がとても可愛らしくて、けれど意外な理由に目を丸くしました。血を怖いと思ったことはあっても、温かいと思ったことは無かったので驚いたのです。思わず、尋ねていました。
「温かいものが苦手なのか?」
「ああ、温かいものは苦手だなぁ」
「ならば、私の事も苦手なのか?」
彼女は驚いたように此方を見つめます。それから、泣きそうな顔をして首を横に振るのです。自分のせいとはいえ、何とも言えない空気が私達の間に横たわります。月の光も陰ったように見えて、私は雲でも出てきたのだろうかと顔を上に向けました。薄い雲が、微かに月を覆っています。
ふと、地面の踏む音が近付いてきて、私は顔を元の位置に戻します。思ったよりも近い場所に彼女が立っていました。近くで見た彼女は、やはり美しくて。でも、上手く言い表す術が無くて、私は黙って見つめることしか出来ませんでした。
「本当は。本当は、苦手でなければならないのだ。なのに、何故か、お主は苦手になれぬ。理由は何となく分かっているのだ。……お主と居ると、楽しかった。私はきっと、絆されたのだろうよ」
そう言って、彼女は満足げに微笑みます。それは確かに、別れの言葉のように聞こえました。私は何故だか胸が詰まって息苦しさを覚えます。雲が晴れたのか、明るくなった景色の中、彼女は一段と輝いていました。夜空から雪がちらほらと降ってきます。
「ああ、不香の花だ」
「フキョウの花?」
「そう。匂いが無いから、香ら不とかいて不香。雪を表す言葉さ」
彼女の手に、綺麗に雪が乗っていく。融ける筈の花は、融けること無く彼女の手に次々と花開いていく。その姿に、私はやはり寂しくて。彼女は淡く笑って、全ての雪の花を地面にひらひらと散らします。
「1つだけ、頼み事をしてもかまわぬか」
「勿論、構わないとも」
「良かった」
私の言葉に、彼女の眦から涙が零れました。それは瞬く間に雪の結晶となって、花びらのように地面に散っていきます。ああ、そうだったのか。私の中で何かがストンと落ちました。その間にも、彼女は何枚もの不香の花を散らしていくのです。
「春の陽光は温かで気持ちが良いけれど、せめて最後は、お主の温もりで水になりたいのだ。この頼み、引き受けてくれるか?」
私は、黙ったまま腕を広げました。抱き締めれば確かにそこに彼女は居ました。けれど、段々と薄くなっていくのが分かります。私は今ほど、氷になりたいと思ったことはありませんでした。どうして、もう会えなくなってしまうのか。悔しがる私の気持ちが伝わったのか、腕の中の彼女が笑いながら、教えてくれました。
「心に熱が生まれてしまっては、内側から融ける他あるまいて。これを人は“恋”というのだろう?……何とも熱くて、私には耐えられんよ」
恥ずかしそうに顔を赤らめながら、彼女は微笑みます。そうして、次の瞬間にはもうどこにもその姿はありませんでした。同じだけの熱が私の胸の内に灯っているというのに。
互いに、してはいけない恋をした。
頬を流れる涙が、花にならずに落ちて行く。
不香の花 蒼飴空 @skycandy
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