第一話 勇者と魔王

キィと言うドアが開く微かな音に顔をあげ、凭れていた廊下の壁から背を離す。

そちらを見遣れば、ひょろりと縦に細長い体と手足を白衣に包んだセットしているのかいないのか分からないダークブラウンの髪に不精髭、柔らかく下がった目尻に死んだ魚のようなオレンジ色の瞳が特徴的な三十代前半くらいのよく見れば精悍な顔立ちをしている青年――【アレスシャロル】と契約している医療者でおれが一番信頼を置いているオルハ・ヴェッセルが『彼』を寝かせた部屋から出てくるところだった。


――あの後。


倒れ込んできた『彼』を咄嗟に支えると顔だけじゃなくて身体中に酷い怪我を負っているって事はすぐに分かった。

彼の言葉と闇の魔力の気配は気になったものの、放置するわけには勿論行かないので、來衣に連絡を取った上で完全に気を失っている『彼』を何とかおれの家へと連れ帰ったのが一時間前。

それからは空いている二階の部屋にとりあえず寝かせ、おれが帰ってくる間に來衣が連絡を取ってくれたオルハがついさっき来てくれたというわけなんだけど。


「オルハ。」


部屋から出てふうと長く息を吐きだした彼の側へ行けば、おれへと視線を向けたオルハがおうと軽く手をあげる。


「何だ、陽。ずっとここにいたのか? 來衣達と応接間にいてよかったんだぜ?」


ぽんっと頭に置かれると同時にふわりと香ったのは、彼が治療の際には常に咥えている対象者の回復力を底上げする魔術が組み込まれている煙草――イクスツィガーロの苦みを帯びた香りだった。


「うん。そうなんだけど、やっぱり気になって。……あの人は――?」


その掌から伝わってくる体温の心地よさに瞳を細め尋ねると、眉根を寄せたオルハがひでぇもんだ、と苦々しく呟く。


「男前な面だけじゃなく、殴打による痣や内出血が腹部を中心に全身にありやがった。アバラも何本かイッてるし、鳩尾にはどす黒く変色したでっかい痣が付いてらぁ。何より酷かったのは背中全体にある裂傷だな。ありゃあ、恐らく人的なもん――鞭とかそう言うもんで付けられた痕だぜ。生命維持自体には問題ないが、かなり痛んだろうな。お前さんと会った時奴さん、立って歩いてたって言ってたな。」


「……うん。すぐ気を失っちゃったけど、話かけられもした。」


「――そりゃあ、すげぇわ。あんなの、並大抵の奴なら意識を保つだけでも精一杯だ。さすが、魔族は丈夫だねぇ。」


そこまで言うと徐にイクスツィガーロを吹かしたオルハに僅かに眉を寄せる。


「……やっぱ魔族……。でも、鞭とかを使われるなんて……あの人一体。」


「さあな。そっちは今、來衣が調べてるんだろう? ヤシャルと一緒に。」


「うん。二人で【アレスシャロル】のデータベースを当たってみるって。」



くしゃくしゃとオルハに髪を掻き混ぜられながら小さく息を付く。

ボロボロで薄汚れていたけど『彼』が身に着けていた服の素材はかなり上等なものだった。

さらに唯一持っていた銀無垢の懐中時計の表蓋には、背に大きな翼を生やした虎によく似た生物と炎を模したような紋章が刻印されていて、ここから『彼』の素性に繋がるかもしれないと來衣が言い出したのだ。


「そうじゃなくても『彼』の白銀色の瞳はかなり珍しい部類だと思うけどね。さすがに魔族って事と瞳の色だけじゃ、あの膨大な情報量が詰め込まれているデータベースから探す事は難しい。でも、あの紋章があれば何とかなると思う。助っ人も来てくれた事だし、こっちは任せてよ。ね、ヤシャル?」


「――ええ。」


そう頷いたのはオルハと同じく來衣に呼ばれた【アレスシャロル】の職員であるヤシャル・ディールスだった。


常にパリッとした黒のスーツに身を包み、絹のように艶やかな銀白色の髪で顔の右半分を隠した常に柔らかな光を宿した猛禽類を思わせるような鋭く切れ上がった切れ長のアイスブルー色の瞳が特徴的な端正な顔立ちの青年はおれへと視線を向け微笑んだ。


「仮にも、我が【アレスシャロル】に多大なる貢献を頂いた陽様、來衣様からの依頼です。必ずや探し出して見せます。」



そんなわけで今、二人は応接間でノートパソコンやら端末を広げて格闘中だ。


「成程な。ま、それならあっちは任せるとするか。なぁに、あの二人ならすぐにでも見つけ出せるだろ。……本当は、奴さんから話が聞ければ一番なんだけどな。」


ふぅーとイクスツィガーロの煙を吐き出したオルハに小さく同意する。


「……『あの人』の意識は……。」


「まだ戻ってねえが、治療は済んだし今はバデルが付いている。大丈夫だ。じきに目を覚ますだろ。」


「――そっか。おれ、暫く『あの人』のところにいてもいいかな? もし目を覚ました時、周りに誰もいなかったら不安に思うだろうし。」


「おう。そうしてやれ。」


おれの提案に瞳を細め口の端をあげたオルハにつられるようにいつの間にか力の入っていた肩から力を抜く。


「ありがとう、オルハ。応接間に紅茶とサンドウィッチ用意してあるからよかったら食べて。」


「おっ! そりゃありがてぇ。お前の作るもんは絶品だからな。頂くぜ。」


嬉しそうににかりと笑い最後におれの髪をくしゃりとかき混ぜたオルハが応接間へと歩いていった。



「……大袈裟。」


それを苦笑しながら見送り、先程オルハが出てきた部屋にドアを開けて入ると、僅かに薬草と消毒液の香りが混ざったイクスツィガーロの香りが満ちた十畳程の広さの洋室の中、壁際に置かれたベッドで『彼』は眠っていた。

音を立てないようにしてそっと近付くと、掛け布団の上で『彼』の胸元にちょこんと寝そべっていたグレーのもふもふの毛並みとくりっとしたまん丸い濡れた黒曜石のように輝く瞳が特徴的な、この世界ではネザーランドドワーフと言う品種の兎によく似た淡く光を放っている生物――とある世界にだけ生息し、光の精霊の加護を受けているために強力な浄化と治癒魔法をその身に宿しているラプクースと呼ばれる幻獣のバデルが頭を持ち上げる。


「――バデル、お疲れ様。」


この家で共に暮らしている謂わばおれの家族みたいな存在であるバデルにそう笑いかけ、頭を撫でれば心地よさそうに瞳を細めたバデルが応えるように小さな鼻をひくりと動かした。

そのまま眠っている『彼』を見下ろすと、バデルの力のお蔭か顔の怪我はもう治っていた。

この分なら片頬に貼られた湿布もすぐに用済みになるだろう。


静かに寝息を立てる『彼』を起こさないようにしながらその前髪をさらりと撫でる。


「……うん、やっぱり強い『闇』の力だ。魔族にしたってこれだけ強いってなると……。それに、あの言葉……。」


確信を持っておれを勇者だと呼んだ『彼』の声が耳奥に蘇る。

確かにおれは「元」勇者だけど、それを一発で見抜くって事は……。


「少なくともこの人は『勇者』という存在に会った事があるって事だよね。」


強い闇の力。


魔族。


それに勇者。


そこから導き出され得る結論が脳裏に過り、知らず知らず眉根を寄せる。


「――――まさか、ね。……まあ、いいや。來衣とヤシャルが今探してくれてるし、オルハが言うように起きたら話を聞けばいいんだから。」


そう結論付け『彼』から体を離そうとした刹那、その閉じられた瞼が微かに震えた。


「…………あ。」


思わず顔を覗き込めば、ゆっくりと瞼が持ち上げられ白銀色の瞳と目が合う。

どこかぼんやりとした表情なのはまだ完全に覚醒してないからなのだろう。


「大丈夫ですか? 分かりますか?」


おれを見つめたまま微動だにしない『彼』に話しかける。

すると一回だけパチリと瞳を瞬かせた『彼』がゆっくりと口を開いた。


「……美味そうだ。」


「は?」


そこからは早かった。


怪我人とは思えない勢いで『彼』ががばりと上半身を起こし、「ちょっ!! まだ寝てなくちゃッ!」と彼の体を押さえようと伸ばした手を逆に掴まれ、思い切り引っ張られた。


「わっ!?」


突然の事に勢いを殺せず片膝だけベッドに乗り上げる形で『彼』の胸元に倒れ込む。

そのまま逃がさないといわんばかりに腰に手を回され、ハッと顔をあげれば鼻先が付きそうな距離に『彼』の顔があった。


――――あ、まずい。


間抜けにも『彼』を見上げままのおれの唇に顔を寄せてきた『彼』の唇が重なろうとした瞬間。


「……っ、させるわけないだろ!!!」


さすがに怪我人に喰らわせたくはないけど、背に腹は変えられないと掴まれた腕を通し、雷撃を『彼』に流し込む。


「ガッッッ!!!!??」


バツン、という激しい音が周囲に響き、びくんっと魚のように大きく体を跳ねさせぐだっとおれの肩口に顔を埋めた『彼』に一息つき、ベッドヘッドに背を預けるように座らせる。


「――バデル。」


『彼』が身を起こすと同時にベッドの下へと避難していたバデルを改めて呼ぶとおれの意図を理解したのだろうバデルが再びベッドに飛び乗り、今度は彼の膝の上で寝そべった。


「頼むね。――で? 目ぇ覚めた?」


大きく嘆息して視線を向けると瞳を白黒させている『彼』と改めて目が合う。


「……あ、ああ。」


「なら良かった。威力はかなり弱めたし、流したのも一瞬だったからいいとは思うけど、体痺れたりはしてない?」


「……ああ。ビリっとしたくらいだ。ところで、ここはどこだ? それにお前はさっきの……。」


僅かに眉を寄せる『彼』の様子にもう怪我も含めて大丈夫そうだ、と息を付き改めて向き直る。


「おれは、日守陽。さっき、貴方が言ったようにかつて魔王を討ち、今はここ、夜辻坂町で気楽な隠居生活を一応送っている『元』勇者。で、ここはおれの家。」


「お前の……?」


「うん。さすがにあのまま気を失った貴方を放置しておくわけには行かなかったから連れて帰ってきた。で、貴方を手当てし傷を癒したのが、おれの知り合いの医療者とそこにいるバデルね。」


「…………バデル?」


自らの膝の上にいるバデルに視線を落とした『彼』に応えるようにバデルが耳を揺らす。


「…………そうか。世話になったようだ、礼を言う。――――俺は……」


その姿に少しだけ表情を和らげた『彼』が言葉を紡ぎかけると同時に、コンコンと言う控えめなノックと共にドアが開く。


「陽、大丈夫? 何か結構な音したけど。」


そこから部屋に入ってきたのは來衣達三人だった。

何があったの?と尋ねてくる來衣に苦笑してひらりと手を振る。


「何でもないよ。ただ強制的に魔力摂取されそうになっただけ。」


「……魔力摂取。」


それだけで何が起こったか理解したのだろう三人の顔が微妙なものに変わっていく。


「――生命維持において己の魔力に依存して生きる種族が魔力を著しく失った時、他から魔力を摂取する、一種の生存本能か。特に己より強い魔力を持つ存在から摂取しようとする傾向にあると聞くが。……それならお前さんはさぞ美味そうに見えただろうな。」


揶揄うような声色のオルハを半眼でキッと睨み付ける。


「と言うか、『されそうになった』って事はされてはないんだな?」


「されて堪るか。ってか、オルハ、この人目ぇ覚ましたから、怪我の状態を……。」


「――ああ、そうだな。」


嘆息し言えば、被せ気味に返された声音が先程とは違い真剣そのもので怪訝に思いながら彼等を見遣ると、程度は違うものの三人それぞれがピリピリとした雰囲気を纏いベッドの『彼』を見つめている。


「……來衣? オルハ? ヤシャル?」


その場に流れる空気に「キュウウウ」と滅多に鳴かないバデルが鳴き声を上げグレーの毛を逆立てるのを見て、咄嗟にその視線から『彼』を庇うように彼等の前に立ち塞がれば、眉を下げて困ったように笑った來衣が口を開く。


「……うん、それでこそ君だとは思うけど。残念な知らせなんだ。」


そう言って來衣が小脇にかかえていた端末の画面をおれに向ける。

そこに映し出されていたのは確かに今、おれの後ろにいる『彼』の顔写真だった。


「――彼の名前はヴァトラ・ラハヴルク。異世界エオシャニムはドゥールイユ大陸に存在する魔国ラハヴルクの若き王。そして、彼は『元』魔王なんだよ、陽。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悠久を生きるチート勇者は諸事情により保護したチート魔王(略称)と共に無双する 彩野遼子 @saino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ