20161119:欲望の悪魔と契約しよう

 涙というものには味がある。排出するための体液であり、排出する必要があるからだ。眼球の保護の為の涙もあれば、不要物質の排出を行う事もある。排泄器官とも言える。

 では何を排泄するのか。

 血中に潜む様々なホルモン。濃度が高すぎ調節する必要のあるものを、涙という形で。


 つまり涙は。

 血液と同じものである。


 *


 流した涙の分だけ強くなれるというのなら、僕はとうに地球一の強さを持っているのに違いない。確かに涙の分だけ強くなってはいるのだろう。僕が、では無かったけれど。

 一説には古代と言われる頃には、は血を用いて方陣を描き、様々な魔を召喚する技術があったという。その儀式に適した人間がいて、巫女とか神子とか神職とか聖職者とか、なんだかそんな名前で呼んだという。

 本当かどうかなど僕は知らない。知る術もないし、今更知りたいとも思わない。

 人の欲望は神様を生み出した。僕はそう思っている。宗教的体験には麻薬がつきもので、紙と一体化するためには、極限の状態が必要という。つまりそれは、外的な薬物をつかうか自分で生み出すかの違いだ。神を感じ、ここに『在』らせるためにはそれだけの、それを成すだけの欲望が不可欠と言うことでもある。

 だから、欲望と神様は一心同体とも言えて、神様は欲望そのものでもあったりする。

「ルイ!」

 呼ばれれば。声を聞けば。もう反射で涙が出る。滲む視界に笑顔の君が近づいてくる。満面の笑顔。お楽しみを前にした。

 僕はそして目を閉じる。人の温度が近づいて。白粉とシトロンの混じった匂いが強くなる。

 頬を這う。唇の感触が。


 ――肩を突き飛ばされる痛みに変わる。


 つんざく音に耳をふさいだ。入り口から漏れる明かりにスレンダーなわりにメリハリの効いた影が仁王立ちする。その両腕が上げられたかと思ってみれば、続けざまに轟音が。

 慌てて僕は物陰を探した。飛び込んだそこ、僕の脇で。コンクリートの床が小さく爆ぜた。

「スージー!」

 あいよ。

 僕の抗議に気付いたものか。発砲音から間をおかず、遠く男の悲鳴があがった。カランカランと薬莢が跳ねる。まだ熱いそれが床を転がる。

「一人!」

 再びコンクリートの床が爆ぜた。目を見張る僕の前で、スージーは軽やかに転がり避ける。立て直すその刹那響いた音へ悲鳴が追った。

「二人!」

 そして。

「あっ」

 唐突に音が止む。そろりと覗けば、スージーは。

「この、根性無し!」

 なんだか思い切り、外に向けて……いたはずの三人目に向けて……吠えていた。


 *


 月が煌々と照っていた。黒い影の塊のような灌木が見えたかと思えばあっという間に過ぎっていく。

 前方に広がるのは石と灌木と砂ばかり。後ろを振り返れば、巻き上げた砂が淡く周囲をぼかしながら、二本の線が消失点で一本になり、一本になるあたりに明かりの点った廃墟のような寂れた街の影があった。

 轍が伸びるだけの舗装も街灯も無い道を、スージーの操る4WDは昼間のように走り抜ける。時折跳ねる車体に合わせて、射出されそうな僕はナビシートにいた。時折涙を要求されるが、僕が意図して泣く前に感想と風と砂粒で、僕はずっと半泣きだった。

「一晩くらいのんびり出来ると思ったんだがな」

 タバコをくわえながらの不明瞭な声だった。亜麻色の奔放な髪が風に煽られ大きくうねる。

「のんびりしたいと思うなら、派手なことしなきゃ良いでしょ」

 宿代稼ぎの賭博場で、最初の大勝ちに調子に乗って、あちらこちらで勝ち続けた。僕の涙の、力を使って。

 目を付けられない方がおかしいくらいに。

「しょうがないだろ、調子よかったんだから」

 欲望で神様にすら喧嘩を売るような人だった。

 僕は前を向き、目を瞬く。溜息を、つい、こぼす。

「反省する気もないんでしょ」

 ないね! 軽やかな声だった。そして、笑いを含んだ声が降る。

「見限る気もないんだろ」

 横目で見る。前をまっすぐ向いたスージーは、頬筋を上げ、口角を上げ。挑戦的で、楽しげな笑顔。

 僕は再び溜息をつく。見限るも何も、僕に取れる選択肢などはじめから存在しない。

 目を閉じる。車体が跳ねて、僕も跳ねる。エンジンと風とスージーの鼻歌が聞こえる。そう、鼻歌だ。

 心で見るのは、いつも同じ光景だ。スージーの鼻歌が延々と耳に残る。


 *


 そこには陽射しはなかった。月光もなかった。明かりが付いた時だけ浮かび上がる冷たいばかりの絢爛豪華な椅子があり、大人達が沢山いた。

 遊び相手などいなかった。親と呼べるような人たちの心当たりも僕にはなかった。寂しくて泣けば、大人達が寄ってきた。出たいと泣けば、大人達が歓喜した。やがて泣くのがばからしくなり。大人達は焦ったように僕へ手を上げ。

 僕の瞳は乾いていった。


 *


 ――あんた、天然麻薬なんだって?


 *


 見たことのない大人だった。

 細かった。長たらしい布を引き摺るような大人達とは違っていた。肩の出たシャツ、むき出しの腕、短いパンツ、露わの太ももふくらはぎまで覆う靴。

 柔らかそうですべすべしていそうに見えた。仄かに甘い良い香りが漂っていた。くりくりと良く動く目が僕を覗き込んできた。さらさらと動きに合わせて流れる髪が、僕の頬を撫でて落ちた。

 髪を頬に感じながら、僕は。

 それから目を離すことが出来なかった。


 *


 ――あたしと一緒に、知らない世界を見てみない?


 *


 綿飴のような恋心だったと、今なら、思う。


 *


 ひときわ大きく車体が跳ねた。

「おっと」

 続く溜息は少しばかり疲れて聞こえた。

 跳ねるのと同じように唐突に、車はブレーキの音を響かせた。

「ルイ」

 手が伸びてくる。僕の頭を乱暴に撫でる。

 満月の明かりの下、無邪気な笑顔が僕を見る。

 涙はもう、条件反射だ。

 ほの暖かく、吸い付くような感触が僕の頬をなで上げる。


 *


 例えば、エンドルフィンという物質を大量に血液に含んだ人がいたら。

 その血液は、その涙は。他人に天上の世界を見せただろう。

 それがアドレナリンであったなら、疲れを知らぬ戦士を。

 ドーパミンなら。

「あたしは神様を呼べるんだ。そういうことだろ」

 僕の頭を乱暴になで回してスージーは言う。

 その代わりに。

「アンタが知らなかった楽しい事全部、見せてあげる」


 *


 熱に、温度にあっという間に溶けてしまい。

 硬い飴の用に凝った恋心と共に。


 神子である僕は、欲望の悪魔との契約を選んだ。

 

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空と地の狭間EX 森村直也 @hpjhal

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