20161113:宙間バスに乗る日
迎えに来たのは黒塗りのバスだった。バスにしては大きいけれど、所詮豪華クルーザーの足元にも及ばないサイズで、港の端にちょこんと居ることを恥じ入るように停まっていた。
「お別れのキスもしてあげられないなんて」
母さんは防護服越しに僕をぎゅっと抱きしめた。小さな妹は父さんに促されておずおずとくまのぬいぐるみを差し出してきた。兄さんは目を腫らしていた。父さんはくまを手放した妹をそっと抱き上げた。半年前、恋人になったと思った彼女はついに現れなかった。
僕は部厚いグローブ越しにくまのぬいぐるみを受け取った。瞬きを繰り返して、バイザーの中に水滴を飛散させるのをどうにか防いだ。
やがて黒ずくめの運転手が現れる。行こうかと静かに声をかけられて。僕は深呼吸して、頷いた。
*
真っ黒な宙間バスの側面には『LifeEnd』と描かれていた。
*
案内されたのは狭い個室だった。ベッドが一台、小さな机と椅子。それが全てだった。
「スーツは脱いでも構いませんよ。息苦しいでしょう」
物入れの説明、食事の説明、淡々とこなす彼は防護服を着ていない。
僕がこれを脱いだらどうなるか。……彼はわかっているのだろうか?
思わず凝視した僕に気付いたのか。彼はふっと笑った。
「結核って聞いています。αコロニー型の」
あたりだった。僕は、空気感染する結核の比較的新しい型に感染していた。僕がスーツを脱ぐ。つまりそれは。
「死にたいの」
言って僕はぎくりとした。僕が思うよりその声は低く、まるで床を這うようで。
言われた彼は少しばかり驚いたように目を丸くして。そして。
再び笑みを浮かべた。雨上がりのそよ風のように。
「心配せずともこのバスのお客様は、みんな近いうちに……」
そうじゃない。僕は大きく首を振る。
彼はそっと僕に黒い手袋に包まれた手をかける。スーツのマスクをすぽりと器用に外した。
どこか生温い空気が頬に触れる。知らない匂いの風が抜ける。
「αコロニー型なら、免疫があるから」
青い綺麗な目が、三度優しく、笑んだ。
*
暑くてごめんねと、急用が出来た。夕飯は一時間後だけど、放送があるまでドアを開けないでね、溺れるかもしれないからと。通信で呼ばれたらしく彼は慌ただしく出て行った。
小型のバスは温度管理が大変だと聞いたことがあった。確かに暑いが、蒸れていたスーツを脱いでも寒くないのは良かっただろうか。
言葉に甘えてスーツを全て脱いでしまう。隔離病棟からずっと、粘つくような空気に触れていた肌が呼吸を取り戻したような気さえした。
そして。僕はベッドに腰を下ろした。
部屋は静かだった。溺れる、と言うのが何のことだかさっぱりだったが、機密はしっかりしているのだろう。それでも朝は寒いと聞いた。
小型のバスは太陽光に当たる間はその熱量を最大限に溜め込むのだという。そして、月の影に入ったり、コロニーの脇に隠れたり、光が当たらない夜の間はその熱を消費すると。
大型のクルーザーならば、外壁と内壁の間に溜め込まれた水が、完璧な気圧コントロールが温度までも管理する。そう設計されている。
このバスはどうなっているのだろう? このサイズのバスは、どうなっていただろう?
手元の端末を取り寄せる。感染が判明する前、いつもやっていたように。アカデミーのライブラリにアクセスし……。
僕は端末を投げ置いた。ベッドの上に仰向けになる。
僕はもうアカデミーの生徒ではなかった。宙間交通の研究を目指す、生徒では。
じわりと汗が浮かんでくる。スーツの中とは違っていても、十分に室温は高かった。
どれだけ遮蔽をしていても、どうやっても熱は出ていく。夜がこれだけ暑いのなら、朝はきっと寒いのだろう。そしてまた、太陽の光がある間、船は熱を溜め続ける。
暑い夜が来て、きっと寒い朝が来て。そうしてまた夜になり、バスはどこかの港に入るのだろう。
幾度か夜と朝を迎えたら。……終焉(LifeEnd)にたどり着く。
涙が出た。一度出ると止まらなかった。嗚咽が混じった。僕は腕で、目を覆った。
*
ノックの音に目を瞬いた。目尻になんだか違和感がある。
「はい!」
再び叩かれた。聞こえてないと、そこで気付いた。
飛び起きドアへ貼り付いた。ボタンをさがし、叩くように。
開いた向こうに、ずぶ濡れになった彼がいた。
「遅れて済みません。夕飯の時間です」
何でも無いようににこにこと。
よく見れば廊下も天井も、あちらこちらが濡れていた。疑似重力に床へと水滴が集まっていく。
「気にしないでください。その、外壁に巡らしている水が溶けた時に……破断した箇所から」
――溺れるの、意味が。
「あぁ、水回りは劣化が激しいだけで、本体は大丈夫です」
僕はどんな顔をしていたのだろう?
「ちょっとした整備なら僕でも出来ますし、皆さんを」
彼は慌てたように言葉を紡ぐ。
「終焉(LifeEnd)までお連れします」
幾度目かの笑みを見せる。僕は眩しい気がして、目を細める。
彼はそのまま僕を誘う。新入りの僕を。
――違う。
僕は彼の黒づくめの背中を見つめる。
水を振りまく艶めく黒髪、水が染みて重そうなつなぎ、濡れた髪が貼り付いて見える耳元には、ダイヤのピアス。そして、健康そうな伸びやかな手足。
黒づくめのはずなのに、僕には妙に眩しくて。
――そうか。
眩しいと羨ましいはまるで同義の言葉なのだと。ふと、気付いた。
*
「僕らを乗せて終焉にたどり着いたら、あなたは」
ふいに彼は後ろを向いた。元の肌色が白いのだろう。キメの細かな綺麗な白い肌をしていた。ただし、僕のように血色が悪いわけではもちろん無かった。
「僕の仕事は皆さんを運ぶことです。やすらかに無理をせず過ごせる場所へ」
彼は前を向く、一枚の扉にたどり着く。
僕の方を向かないまま、言葉を続ける。
「触れず、運ぶだけです。会いたいと夢を見る人に会うことも無く、運ぶだけです」
彼は素手でボタンを押す。紫外線を一度も浴びたことの無いような綺麗な手だった。
「死にゆく皆さんの想いと一緒に」
明かりが廊下にまで零れてきた。美味しそうな香りと、賑やかな声が流れ出した。
「沢山泣いたら、楽しんだって良いんです。みんな、同じです」
彼の横をすり抜ける。土気色した顔を中途半端に上気させた連中の中へ、一歩。
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