20161105:あぁ救いの女神様
――もう限界だった。
*
遠坂は反射的に旅行会社のサイトを表示させていた。思ったキーワードで検索をかけ、一番安いツアーの申込みボタンを反射的に押していた。格安ツアーは日曜深夜の出発で、二泊四日のものだった。
我に返ったのは翌々週、チケットが家に届いた時のことだった。格安らしくキャンセルにも金がかかる。けれどこんなに長く休みを取ることなど出来る気がしない。夏休みの権利は手を着けられることもなく、残ってはいたのだけれど。
えぇい、ままよ。
遠坂はチケットを睨むと覚悟を決めた。SNSで問答無用の連絡をする。
部長の小言は聞きながせばいい。部下の口は黙らせる。問答無用で休みを取る。三ヶ月遅れた夏休みだ。いや、ついに高い会費を払い続けた組合員としての権利を行使する時か。どちらでも良かった。どちらでも大して違いはなかった。三ヶ月という時間は現実のものであったし、願っていたのは本当だった。
SNSでは文句が読むも追いつかないほどのスピードで流れていく。それでも遠坂は決めたのだった。
決めたとしても現実は淡々と流れていく。やらなければならないことは雨後の筍のようにいくらでも生えてきて、遠坂の日々は飛ぶように過ぎていった。三ヶ月前まで横にいた相棒を恋しがる暇もなかった。いや。横にいてくれるだけで、傍にいてくれるだけでこんなににもありがたい存在だっただなんて、思い起こすことを禁じた。禁じて仕事に没頭した。思うことは負けだと思った。そんな道を選択した自分たちの。
そしてまた、そうでもないとやっていられないと思ったし、救われたいと他のものに思ってしまう事も怖かった。
*
――ほんの数cmの距離が愛おしく、もどかしかった。
*
X-Day。荷物を持って合流した相棒はさすがに仏頂面だった。LCCの狭い座席に押し込まれながら、しきりに文句を垂れている。なんでこんな急に。しかも深夜のLCC。長丁場なんだから、普通の航空会社でも良かったのに。サービスが。
遠坂は謝ることしか出来なかった。反射的だったことは話したし最終的には了解した。了解せざる得なかった。遠坂も相棒も賭け事はめっぽう弱くリスクの計算は苦手だった。苦手だったから、キャンセル料の名目でそれだけ金が出て行くことにも耐えられなかった。
やがて飛行機は許容量いっぱいの客を乗せ、滑走路を滑り出す。シートへ押しつけられるGと振動。やがて押しつけられる感覚が強くなったかと思えば、振動がなくなり――。遠坂は数cm横にある相棒の手を探した。ほんの数cm指を這わせて、そして、握った。
一瞬ぴくりと動いた相棒の手は、遠坂の手の中で直ぐにおとなしくなった。
*
――ほんの数cmもなく隣り合った枠に、名前を書いた。
*
幸いにも、弾丸ながらツアーは比較的まともだった。ベルギーはチョコレートが有名で、チョコレートが美味しく、チョコレートが行く先々で提供された。遠坂は部長に部下に職場にお局先輩社員に組合窓口の愛子ちゃんに掃除のおばちゃんに遠坂と相棒の両親に、チョコレートを買いまくった。買いまくってそして自分でも食べた。相棒も食べた。甘すぎて胸焼けし始め、時差ボケで美味く寝付けずホテルで寝返りを打ち始める頃。
遠坂と相棒はどちらともなく顔を見合わせた。見合わせて、笑った。
「やっと顔を見れた気がする」
*
――涙で濡れた日があるはずだった。いや、あった。それは違う涙だった。
*
目的地は翌朝のプログラムに組み込まれていていた。チョコレート以上にボリューム感満点でオイルっぷりの朝食のあとで、日本語が片言なガイドに連れられ街を行く。そうやってたどり着いた場所ではあったが。アントワープの大聖堂、ルーベンスの絵は美しく確かに存在していた。
「もう、疲れたよ、パトラッシュ……!」
遠坂は日本語で叫んだ。ガイドが何事かと振り返り、言葉を知らぬ現地の人々、他国の旅行者は、奇声を上げた東洋人を怪訝な目でしばらく見つめ、何をするわけでもないことを悟ると興味をなくして立ち去った。
少しばかり文字通り引いた相棒は、すっかり顔を紅くしながら遠坂の頭をガイドブックではたいた。角で。
「新婚旅行で、手間暇かけた壮大なギャグでも披露したかったわけ?」
違うよ。涙目で遠坂は否定する。
*
――救われたいと思ったのだ。
*
隣同士の机、ほんの少し寄せた椅子。それでそのほんのもう数cmが遠坂には耐えられなかった。
もっと傍に居て欲しいと思ったのだ。相棒もそれには同意してくれた。一緒にいることが多くなった。帰らない事も増えた。余りに帰らなすぎたから、いっそ一緒に暮らし始めた。
家でも職場でも、傍にいるだけでこんなにも気持ちが安らぐだなんて。
なのに。
職場内での結婚、直接の部下上司の上下関係での婚姻は、業務評価に影響する可能性があり。異動は必須だった。
*
――遠坂は相棒の抜けた穴埋めに。相棒は新しい仕事に慣れるために。顔を合わせて夕飯を共にするような隙すらなく。
*
否定し。文句を言いたげに開かれた唇を、唇でふさぎ、黙らせた。
「これぐらいしないと、新婚旅行も来れなかったじゃないか!」
やさぐれそうな俺の心を救ってよ――。
あまえんな。
飛んできた左手のビンタは、薬指に嵌まった凶器の為に威力を数倍に増していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます