20161022:さよならのその日

 休憩所の低いロッカーの上に並びに並んだドロップ缶を秋乃は溜息とともに見やる。射し込む陽光に少しばかり日に焼けたラベルが、綺麗に揃って飾り物であるかのように並んでいる。

 掃除のおばちゃんは呆れながらいつもはたきをかけてくれた。雑誌を用意する派遣さんは、胡乱な目をして触らなかった。ここへ転属して来た人は皆目を揃って丸くした。秋乃はもう、どんな反応をして良いのか解らなかった。

 缶を端から眺めていく。『北』を見れば、屈斜路湖、リンゴと岩だらけの土地、龍泉洞。『南』を見れば、首里城・シーサー、桜島やら軍艦島。各地の名所の写真の入ったご当地ドロップというやつである。それが、四〇以上勢揃いしている。

 ――バカよねー。

 秋乃はドロップ缶を一つ取り上げた。南アルプスの写真の入ったその缶には『馬刺し味』の表記がある。隣の缶は『すき焼き味』。その隣は鱚(キス)味。そして、『さつま地鶏の黄身味』、とか。缶の封は切られてもいない。切る勇気もなく、付き合う暇もなかったのだ。

『手頃だったので』

 一缶三〇〇円。配るでもなく、サイズも小さい。旅行を趣味とする後輩のギャグセンスの結果だった。

「涙味でも詰めて送りつけたろかーってね」

 ぼやきながら缶を手元の袋の中に投げ入れていく。からんころんこつんと、ドロップと缶が音を立てた。


 その目は何を求めているのか、解ったのなら、『今』は少しは変わっただろうか。


 あらかたの缶を袋に入れおえ、秋乃は次に雑誌の棚に手をかけた。雑誌は除けてまとめて置いて、棚はばらせるものはばらす。

 スチールの棚はドロップ缶と同じ扱い。金属だ。袋に投げ込めば、騒々しくあたりに響いた。

 ――この音は何味の缶の音かしら。

 馬刺しとすき焼きと黄身と、どこか乾いた秋乃の涙と。桃と、芋煮と、ブドウと、鯖寿司と。混ぜて出来る飴玉は。

『凄い味になると思いません?』

 浮かぶのは歳を考えろと言いたくなるような無邪気な笑顔だ。

 きっと、と秋乃は思う。

 四〇を越える日本各地の名産を集めたその飴玉は。きっと誰も知らない秘密の飴玉。後輩が見て、歩いて、作り上げた。

 ――秘密の飴玉は一体どんな味してる?

 本を抱える。缶を蹴り飛ばしつつ、古雑誌入れへ運ぶ。四つある古雑誌入れは、個人所有だった古雑誌やら新聞やら、不要と判断された技術書やら。既にあらかた埋まっていた。


 試されるのは苦手だ。試すのも苦手だ。


 隠した言葉の真意など、秋乃は知らない。考えない。

 表すことが全てと思ってやってきた。正直は美徳で信頼に繋がる。隠さず伝え、全てを伝えて貰う。それが仕事と思ってきた。

 ぞうきんを絞る。ロッカーの上、埃を残らず拭き取っていく。

 表されなかった言葉の為に、その目が求めるものを察せずに。目に見える仕事をこなし、ものを収め、そして今。事務所引き払いの作業をしている。後輩の笑顔の消えた事務所の。


『秋乃さんは悪くない!』


 ロッカーから窓へと目を進めた先、床の一角に目を止めた。タイル絨毯を張り巡らせたフロアの中、そこだけ色が微妙に違う。

『例えばこのフロアの床は全部青です』

 しゃくり上げ、タオルから顔を上げられない秋乃の前で、後輩は絨毯を指した。

『でも、この四枚だけ色が違うって知ってました?』

 秋乃は一瞬ちらりと見て、顔を伏せてから首を振った。

 他と同じ青にしか見えなかった。……同じ青だと思い、差異を気にしたこともなかった。

『実は四つの青があるんですよ。なぜなら!』

 言葉を溜められて、思わずちらりと後輩を見た。後輩は、にっと笑って、高らかに言い放った。

『俺がお茶を溢して緑色に染めたから!』


 その目は何を求めていたのか。


『これくらい察してくれないと困りますね』

 反論しようとして息を呑んで、上司に頭を下げさせられた。もがこうとして抓られた。任せるしかないと唇を噛んだ事だけは覚えている。

 それからどういう話になったのか、秋乃はさっぱり覚えてない。

 ただ。

『それはセクハラではないですか!?』

 後輩の放った言葉ばかりを覚えている。


『お客様になんてこと!』


「掃除してからいけって言ったのになー」

 スチールゴミばかりの袋を指定の場所へ引き摺っていく。

 結局未来が同じなら、後輩はなぜ、今ここで片付けをしていないのか。

 十数袋に及ぶゴミに並べながら、ふと秋乃は缶を一つだけ、取り出した。

 後輩の一足お先に空っぽになったデスクの上に、段ボールとガムテープとドロップ缶を投げるようにしておいた。

「アンタの分まで、やったんだからね」

 段ボールを組み立てる。ガムテープで補強して、私物を一つ一つ入れていく。

 後輩が買ってきた使うのに微妙なキーホルダー。後輩がホワイトデーにと買ってきたミニサボテン。後輩が駅前で配ってましたと寄越した団扇。後輩が言いかけ隠した言葉の代わりに置いていったシトラスの香りのハンドクリーム。


 瀬戸内の風景の描かれたその缶の味は『甘塩味』

 封を短い爪で切り、賞味期限などとうに切れたそのドロップを。


 秋乃は椅子に腰掛け、くるりと回った。

 挨拶回りに忙しい部長も課長もここにはいない。小さな事務所最後の日は、懲戒処分を受けた後輩に対する補充もなく、秋乃一人での片付けとなった。

 窓から射し込む光が、キラキラと埃を輝かせる。

 ――キス味も、キミ味も、知らずに終わってしまったよね。

 ほんのりの甘さの奧から漂うのは、どこか甘く塩気を含んだ、まるでナミダ味。


 毎日会っていた間柄。先輩で後輩で。

 喧嘩もした。笑い合った。慰めあった。朝日も見た。

 かっこいいと思った事など一度もなかった。綺麗に見せようとも思わなかった。

 家族より、恋人より、一緒に居た。

 ――笑顔ばかり、覚えている。


「さよならだね」


 秋乃は後輩の連絡先を知らない。


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