第4話 迫る闇
* * *
私は、お母さんと二人で神社の祭りに来ていた。
夏休みの一か月間、私はいつも田舎のおばあちゃんの家に預けられる。
仕事で忙しいお母さんは、たまにしか私に会いに来ることができなかった。そんな中、毎年お母さんと一緒に行くこの夏祭りは、私にとって一番の楽しみだった。
山の中腹で行われる夏祭りは、それほど多くの人で賑わっているわけではない。しかし、今年は例年よりやや人の数が多いという噂だ。
はぐれないようにと、お母さんが固く私の手を握りしめた。もう十一歳だっていうのに、お母さんは決して私の手を離さない。
「いい? たこ焼きと、ヨーヨー釣りをしたらすぐに帰るからね。それ以外は絶対にだめよ」
「分かってるって」
唇をとがらせ、私はもう何度目かの返事をした。
私は、白地に淡いピンクと紫の花が描かれた浴衣を着ていた。久しぶりの浴衣でせっかくお祭り気分になっていたというのに、その気分もお母さんのせいで台無しだ。
お母さんは眉をひそめて道の先を見た。
「最後って言うから来たけれど、昔と全然変わってないわね。屋台の数がちょっと減ったくらいかしら」
お母さんは、まるでそれが恐ろしいことでもあるかのように言った。
たこ焼き屋は、三人ほどの列ができていた。たいした人数ではないが、ここの祭りでは珍しい方だ。
それほど待たずに、私たちの番が来る。注文を伝え、お母さんの手が離れて財布に伸びた時、私は突然その場から駆け出した。
「ちょっと! どこ行くの!」
お母さんの制止を聞かず、私はどんどん店のそばを通り過ぎた。
はやく……はやく行かなきゃ!
これを逃したら、きっと次の機会はない。もう、二度と会えない。
たどり着いた先にあったのは、小さなお堂だった。店から離れた空間は薄暗く、人の気配はない。周囲にはうっそうと木が茂っていた。
荒く息を吐きだしながら、私は歩いてお堂に近寄った。
昼間は、何度来ても駄目だった。他の時間も同様だ。おそらく、ここは祭りの夜にしか開かない。
私はそっとお堂の扉に手をかけた。いつもは鍵がかかっているはずの扉は、難なく手前に動いた。
「開いた……」
お堂の奥には、底知れぬ闇が広がっていた。ひゅう、と外から中へ風が吸い込まれる。
一つ深呼吸をすると、私はお堂の中へ足を踏み入れた。
* * *
手に持った面は跡形もなく消えていた。私は空っぽになった手の中を見つめた。
そうだ、私は前にもここに来たことがある。
二度目だったのだ。
一度目は八歳の時だった。私は祭りの中でお母さんとはぐれ、その時にあのお堂を見つけた。
お堂は、祭りの間だけこの空間への入り口となる。
初めて来た時は、まだ顔をとられていなかった。だからすぐに帰ることができたが、お堂を出るとなんと二日も経っていた。それから、お母さんは私を祭りに行かせてくれなくなった。
――あの時も、私を助けてくれたのはクロだった。
どうりで見覚えがあるわけだ。短い時間だったけれど、文句を言いながらもまだ小さかった私と遊んでくれた。帰るように言ってくれた。ただそれだけのことなのに、なぜかずっとクロのことを忘れることができなかった。
そう、私はもう一度クロに会うためにここに来たのだ。
しかし、そこでふと疑問が芽生えた。
あれ? でも――
私は首を傾げた。
それなら、あの桜の記憶は一体……
「思い出したか?」
隣でクロが言った。
もう、私の顔にうさぎの面はなかった。私は笑って振り返った。
「う――」
クロを見た私はぴたりと動きを止めた。
私は目を点にした。
え……?
「ねえ、あなたどうして――」
「おい」
突然、クロが緊迫した声を出した。クロの視線は私を通り越して、別のところを見ていた。
「鳥居って、あんな近かったか?」
私はクロの視線の先を見た。
通りの突き当りには、大きな赤い鳥居がそびえ立っている。鳥居の先は暗闇で、何も見えない。
言われてみれば、さっきよりもなんだか大きく見える気がした。でも、そんなことあるわけ――
私は目を凝らして鳥居を見つめた。
その時、闇の中で何かが動いた。
じわじわと、闇そのものがまるで生き物のようにうごめいている。地面は揺れていないのに、地響きの音がした。それは、だんだんと大きくなっていた。
「あれを見ろ!」
クロが鳥居に一番近いところにある店を指差した。
店が端の方から、少しずつ消えている。消えた部分は、ただの黒い闇になった。そこにはもう、何もない。
クロが息を呑む音が聞こえた。
「やばいぞあれ……」
闇は、確実にこちらに近づいてきている。しかも、徐々にスピードが速くなっているようだ。状況のあまりの深刻さに、二人は言葉を失った。
「あ!」
私は突然大声を上げた。
クロはびっくりして飛び上がった。
「なんだよ! こんな時に」
「もうすぐ、お堂が取り壊されるの。あれがなくなったら、二度とここから出られなくなる。もしかしたらもう……」
二人は顔を見合わせた。やることは決まっていた。
「走れ!」
クロが言った。私たちは全速力で駆け出した。
他の子ども異変に気づき始めたようだった。唖然とした様子で、鳥居の方を見て立ち尽くしている。クロは子どもたちに向かって叫んだ。
「みんな、お堂の方に逃げるんだ! 早く!」
子どもたちは慌てふためいたように走り始めた。クロの呼びかけに、人の流れが徐々にお堂に向かって統一されていく。
今や、祭りにいる全員の子どもたちが走っていた。もう、誰の呼びかけも必要なかった。闇はごうごうと唸り声を上げ、鳥居はどんどんと道幅を狭めていく。石畳の通りは、すでに今までにあった長さの半分ほどしかなかった。
あっ、と小さな声が聞こえた。
後方を見ると、女の子が繋いでいた手を離して道を戻るところだった。視線の先には、地面に落ちたりんごあめがある。
私は目を瞠った。
「あの子……!」
間違いない。さっきりんごあめの店にいた子だ。
私は思わず引き返そうとしたが、その前にクロにぐいっと腕を引っ張られた。
「駄目だ! 間に合わない!」
手を繋いでいた少女が、慌てて女の子の後を追った。
地面に座ってりんごあめを拾っている女の子を、少女はひっつかむようにして立たせた。
「何してるの! 早く――」
少女は前を見て絶句した。
鳥居が、もう目の前まで迫っている。
女の子は「お姉ちゃん」と泣きそうな声で少女を見上げた。少女は女の子を見た。それから鳥居に顔を戻すと、女の子を守るようにぎゅっと固く抱きしめた。
鳥居の闇は、音もなく二人を飲み込んだ。真っ赤な鳥居の前には、誰もいなかった。
周囲の音が遠くなる。私は呆然と立ち尽くした。
そんな……
「立ち止まるな! お前まで飲み込まれるぞ」
クロの怒鳴り声が聞こえた。
唇を噛みしめ、私は無理やり前に向かって足を踏み出した。
考えるな、考えるな……
前に進むことだけを意識し、私はただひたすらに階段を上った。長い階段は、永遠に続いているように思えた。闇は、すでに階段の入り口を侵食しようとしていた。
階段を上り終えると、私たちは面の壁の間を突っ切った。
お堂は向こうの世界で通り抜けたものよりも大きく、どっしりとした構えをしている。ここにいたのはつい先程のことなのに、もう随分前のように感じた。
私は周りを見た。
集まっている子どもの数は、来た当初と比べるとかなり減っている。二十人もいないだろう。逃げている途中、あるいはそれより前に、無意識のうちに飲み込まれてしまったのかもしれない。
クロがお堂の階段を上った。扉に手を掛ける。しかし、扉は押しても引いても、びくともしなかった。
「やっぱり駄目か……」
クロが呟いた。そして私を振り返った。
「さくら、やってみてくれ。多分、お前ならできるはずだ」
私はお堂に上がった。
格子扉に手を掛けると、扉は何の抵抗もなくスッと横に開いた。
私が目を丸くしていると、クロは当然のように頷いた。
「お前には記憶があるからな」
私は扉の向こうを見据えた。
お堂の中は真っ暗だ。
その先に出口があるのかも分からない。こちらとあちらでは、時間の流れが大きく異なっている。もうとっくにお堂が取り壊されていても、おかしくはないのだ。
私は唾を飲み込み、覚悟を決めた。
「行くわよ」
私はお堂に一歩足を踏み入れた。
しかし、反対の足を踏み出す前に立ち止まった。
後ろを見ると、子どもたちは誰もついて来ようとしていなかった。皆、入り口から少し離れたところで立ち往生している。
「どうしたの? 来ないの?」
私は尋ねた。
皆が口をそろえて黙る中、一番左にいる男の子がぼそぼそと答えた。
「……だって、あの黒いの、ここまで来ないかもしれないし」
私は耳を疑った。
「はあ⁉ 何言ってるの」
ここまで手を緩めることなく侵食を続けている闇が、急に都合よく止まるわけがない。なぜ、そんな悠長なことを言っていられるのだろう。
しかし、子どもたちは誰も反論しなかった。さっきまで扉を開けようとしていたクロですら、決めかねたような顔をしている。
私はピンときた。
「あなたたち、ここを出るのが怖いのね」
ぴくり、と何人かの子どもが身じろぎした。何も言わないのは、認めていることと同じだ。
「あなたたちは出られないんじゃなくて、出ようとしていないだけ。だって、今みたいに開けた人の後に続けば、帰られたはずだもの。違う?」
私はみんなを見回して言った。
クロが観念したように目を閉じた。
「そうだ、俺たちは外の世界が怖い。だって、俺達には記憶がない。外に何があるのかも分からないし、その先で上手く生きていけるのかも分からない。それに比べ、ここには仲間もいるし、食べ物や遊び道具だってある。不自由のないここを捨ててまで、外に出る勇気がないんだ」
「でも、この世界は消える!」
私は激しい口調で言った。
「みんなも見たでしょう? あれは、そう簡単には止まらない。ここで闇になって消えるか、お堂の向こうに行くか、それしか道はないのよ」
子どもたちは不安そうに互いの顔を見た。
すでに、階段の向こうには黒い闇がちらついてる。私は優しく微笑んだ。
「大丈夫。外はここよりもずっと明るくて、色々なものがあるし、色々な人がいる。きっと楽しいわ」
子どもたちは視線を交わすと、やがて決意したように頷き合った。
闇が階段の上に現れた。
大きな唸り声を上げながら、闇は面の壁の間を一直線にすべってきた。目に見えるすべてのものが、端から黒に染まっていく。
子どもたちは急いでお堂への階段を駆け上がった。
「早く!」
私は扉の内側で叫んだ。
次々と子どもたちがお堂の中へ駆け込む。
黒い闇の先端がお堂に届く前に、最後の一人がパタン、と扉を閉めた。
しん、とその場が静まり返った。
お堂の中は完全な闇に包まれた。誰かが、ごくりと唾を呑んだ。
「みんな、離れないでね」
私は前に足を踏み出した。
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