第3話 記憶

 少年たちと別れ、私たちは通りに戻った。

 再び屋台の間を歩きながら、私は隣の少年に聞いた。

「屋台も消えるものなの? さっきの串みたいに」

「いや」

 少年は否定した。

「こんなことは初めてだ。だが、案外気にする程のことでもないのかもしれない。昔は、人も屋台ももっと少なかったと言うし」

「ふーん…」

 明かりの下に並ぶたこ焼きが、ほかほかと湯気を立てている。その隣のテントでは、子どもたちが台の上からチョコバナナを抜き取って行った。なくなったチョコバナナは瞬きの合間に増える。

 そう言えば、と私は思い出したように言った。

「あなたの名前って、クロって言うのね」

「まあ、あくまでもここでの名だけどな。本当の名前はとっくに忘れちまったが……。……って、お喋りしてる場合かよ! 真面目に探せ」

 私は膨れっ面になった。

「ちゃんと探してるもん。――あっ、見て! 射的がある!」

 パタパタと走り出した私の背中越しに、クロの怒った声が鳴り響く。「おい! 話聞いてんのか!」

 赤い板の棚にはぬいぐるみ、ラジコン、お菓子、面など様々なものが並んであった。面はショートカットの女の子の形をしており、残念ながら自分のものではない。

「ねえ、ここで取ったものって向こうに戻っても残るのかな」

 あのクマのキーホルダーかわいい、と私はわくわくしながら言った。

「そんなこと、ここを出たことがない俺が知るかよ。――って、まさかやる気じゃないだろうな」

 クロはぞっとしたように言った。

 私は機嫌よく答えた。

「せっかく来たんだもの。少しくらい楽しんだっていいじゃない」

 クロは「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「ふざけんなよ。俺が言ったことを忘れたのか? 時間が経つほど危険なんだ。そんなことをしている暇はない」

「いいじゃない。ちょっとだけよ」

 私は腕まくりをすると、台の上の銃を手に取った。小鉢の中からコルクの弾を一つ手に取る。

 私はクロを振り返った。

「……で、弾ってどこに入れるの?」

 クロは地の底まで届きそうな深いため息をついた。じれたように頭をくしゃくしゃとかく。

「ああもう、分かったよ。さっさと終わらせろよ」

「やった!」

 クロに教えてもらいながら、私は銃に弾を込めた。そして、小さなキーホルダーの箱に向けて銃を構える。

 カシャ、と音を立てて弾が放たれた。一直線に飛び出した弾は、箱にかすりさえしなかった。

 私はぽかん、と弾の飛んで行った先を見つめた。

「下手だな」

 クロは何の感慨もなく言った。

 私はイラっとした。

「うるさいな。まだ一発目だもん。次は絶対当てるから」

「はいはい」

 クロは期待していないような口ぶりで言った。

 しかしその後、まれに弾がかすめることはあるものの、箱が落ちる気配は一向になかった。五つのコルクの弾が入っていた小鉢は、あっという間に空っぽになった。

 私は首をひねった。

「うーん、あと少しで行けそうな気がするんだけどなぁ……。ねっ、もう一回やっていい?」

「ばか言え、何があと少しだ。そんなんじゃ一生撃ち続けたって当たるもんか」

 クロは悪態をついた。

「貸せ。俺がやってやる」

 横から銃を奪い取られ、私は驚いたようにクロを見やった。

「え、あなたが?」

「お前がやるよりずっと早いだろ」

 クロは手際よく銃の先端に弾を込める。いつの間にか、小鉢の中の弾は五つに戻っていた。

 クロはキーホルダーの箱を狙って構えた。

「それに、射的は得意なんだ」


『見くびんなよ。射的はけっこう得意なんだ』

 夜空に浮かぶ赤い提灯。小刻みに打ち鳴らされる太鼓の音と、笛の音色。

 隣で、自分より背の高い誰かが銃を構える。

 カッ、と響いた太鼓とともに放たれた弾は、その後一つも外れることはなかった。


 カシャン、と弾が空を切った。

 弾は見事に的に命中し、とん、箱が抵抗なく後ろへ倒れる。

 クロは余裕な態度で片手を腰に当てた。

「ほら。簡単なもんさ」

 ぼーっと立ちすくんでいた私は、クロの言葉でハッと我に返った。

「ああ、うん。ほんとだ。……すごいね」

「得意だって言ったろ」

 鼻にかける様子もなく、クロはあっさりと言った。

「しかしまだ四発も残ってんな。適当に取っとくか……」

 そう言うと、クロは次の弾を込め始めた。私はクロの話をほとんど聞いていなかった。

 今のは、一体何だったのだろう。

 ふっ、と湧き上がるように映像が頭をよぎった。あれは、私の記憶……? 一緒にいたのは、誰だろう。

 じっと固まって思考をめぐらせていると、近くで声が聞こえた。

「あたし、そっちのがいい!」

 見ると、隣の店の前に小さな女の子がいた。

 女の子は片手にりんごあめを持っており、もう片方の手は歳上の少女の手と繋がれている。

 ちょうど台の上からりんごあめを引き抜いた少女は、怪訝そうに斜め下の女の子を見た。

「ええ? なんでよ」

「だって、そっちの方が大きいもん」

 女の子はきっぱりと言った。

「そんなに変わらないと思うけどなぁ……」

 首をかしげ、少女は二つのりんごあめを見比べた。

「仕方ないな。じゃあ、私のと交換ね」

「やったぁ!」

 女の子が跳ねて喜んだ。

 二人はりんごあめを取り替えっこした。面をずらして、女の子はぺろぺろとあめを舐める。もっとも、あごの上に見えるのはぼんやりとした影でしかなく、そこに口があるのかどうかは定かではない。

 すると、女の子がこちらに気づいて顔を上げた。

「おねえちゃんもいる?」

 女の子は仔犬の面をしていた。無垢でつぶらな瞳が私に向けられる。

 しかし、私は女の子を見てはいなかった。

 真っ赤なりんごあめ。それはつやつやとした滑らかな光沢をたたえており、色鮮やかに目に映る。

 食べるとどんな味がするだろう? やっぱり、甘いのかな。

 ――ら。

「うん」

 気づけば、私はこくりと頷いていた。

 女の子はもう一つりんごあめを取ってもらった。そしてそれを私に差し出す。

 私は手を伸ばした。

 ――ら、くら。


「『さくら!』」


 花吹雪が舞い踊った。

 晴れ渡った空の下。見上げた大きな桃色の木の陰から、誰かが手を振って――――


 腕に痛みが走り、私は短く声を上げた。

 隣を見ると、顔のすぐ近くに黒い狐の面があった。クロは、前に伸ばされた私の腕を強くつかんでいた。

 沈黙したのも束の間、耳元で雷鳴のような怒声が鳴り響いた。

「何考えてんだ! 食べ物だけは駄目だとあれほど言っただろう!」

 私はきょとん、とクロを見返した。夢から覚めたように、ひとつ瞬きをする。

 やがて自分のやろうとしていたことに気づくと、私は恐ろしさから一気に青ざめた。

「ごめん……!」

 私は心の底から謝った。

 なぜ、あんなことをしようと思ったのだろう。

 いけないと分かっていたはずなのに、ぼんやりとして上手く思考が働いていなかった。今まで何をしていたのかすら、忘れていたかもしれない。

 私はさらなる説教を予想して身構えたが、意外にも返ってきたのは沈んだ声だった。

「……いや、俺がもっと早く気づくべきだった。射的をやりたいと言った時、お前はもうこの空間に呑まれかけていたんだな」

 クロは悔やむように言った。

 私は少し驚いた。

 その考えはなかった。全て自分の意志で行動していたつもりだったが、どうやらそういうわけでもないらしい。

 クロは小さな箱を手に取った。

「ほら、これ。お前が欲しがってたやつ」

 箱は、私の手にすっぽりと収まった。透明の箱の中には、首に赤いリボンをつけたテディベアが入っている。

「ありがとう」

 本当に取ってくれるなんて――

 私は感動して言った。

「他にも色々あるから、好きなのあったら持ってけよ」

 赤い台の上には、チョコレート菓子、トランプの箱、パズルなど様々なものが積み重なっている。残りの弾も、一つも外さなかったらしい。

 私は手の中のキーホルダーを見つめた。

 前にも、こうして誰かに物をもらったことがなかっただろうか。

 確か、こんな祭りの夜だった。私はずっと誰かと手を繋いでいた。その時は、手のひらよりも大きなぬいぐるみをもらって――。

「……」

 桃色の花びら。そうだ、あれは桜の木だ。

 桜、さくら――私の、名前。

「ねえ、さっき名前を呼んだのってあなた?」

 私は尋ねた。

 クロは不思議そうに私を見つめた。

「他に誰がいるってんだよ」

 その時、私の前を一人の女の子が横切った。

 黄色い浴衣に、手には金魚の袋をぶら下げている。その横顔を見た瞬間、私はひゅっと息を呑んだ。

「どうした?」

 返事をする間も惜しく、私は女の子に向かって駆け出した。

「ねえ、ちょっと!」

 私は女の子の前に回り込んだ。女の子はびっくりしたように立ち止まる。

 私は、真正面からもう一度女の子の面をよく見た。

 二つくくりの髪に、丸い目。薄い唇。

 間違いない。

 これは、

「見つけたのか」

 隣に並んだクロが、固い声で言った。

「うん」

 うなずくと、私はしゃがんで女の子に話しかけた。

「ねえ、そのお面、私がずっと探していたものなの。良かったら、お姉ちゃんのお面と交換しない?」

 女の子は戸惑ったように私の面を見つめた。少し黙って考え込んだあと、女の子は言った。

「やだっ。これ、めいちゃんのだもん」

 私とクロは思わず顔を見合わせた。

 これは困った。

 この子の面がないと、私は永遠に帰ることができない。今後、女の子の気が変わって面が他のところに渡る可能性もあるが、それを待つ余裕はなかった。さっきのりんごあめで、ここに留まる危険性は十分身に染みていた。

 女の子は困り果てた様子の私たちを見比べた。そして、考え直したように言った。

「そっちのお兄ちゃんのお面となら交換してもいいよ。かっこいいし」

 私は驚いてクロを見た。

 どうする、と聞こうとしたが、その前にクロはためらうことなく答えていた。

「ああ。いいよ」

「えっ、いいの?」

 私は思わず聞き返した。

「また新しいのを探せば済むことさ」

 クロは面を外した。その顔は、私が水瓶で見た時のように、いやそれ以上に輪郭がぼやけている。

 クロは、はい、と女の子に自分の面を渡した。

「やったあ!」

 女の子は喜び、自分の面を外して代わりに黒い狐の面をつけた。

 お兄ちゃん、ありがとね!

 大きく手を振り、女の子が走り去って行く。

 クロの手元には、私の面だけが残った。

「ごめんね。クロのお面、なくなちゃった」

「別にいいって。代わりの面ならそこらじゅうに溢れてる」

 クロは面を私に差し出した。

「ほら、お前の面だ。受け取れ」

 とく、とく、と心臓が脈を打つ。

「うん」

 どこか緊張しながら、私はそっと触れるように面を受け取った。


 その瞬間、面にやわらかい光が生まれた。

 無数に集まった星が広がるように、面はきらきらとした光を発しながら空中に溶けていく。

 同時に、消えていた記憶が底からゆっくりと浮かび上がってきた。

 私は大きく目を見開いた。


 そうだ、私――……


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る