京一郎、おどろく

 目を覚まして、京一郎は驚愕した。

 部屋のありさまが、なんだこれは。ひどいことになっている。


 床は何か水びたしの布でこすったようにびしょびしょ。掃除機がおかしなところに転がっている。テレビも机も窓も、何かで引っかいたみたいに傷だらけになっていた。テレビの上に置いてあったシンガポール土産のマーライオンの置物がぱっくり割れているし、お気に入りのタオルはホコリだらけになっている。中途半端にきれいな蛍光灯の傘が盛大にずり落ちている。


 タンスから水びたしの服があふれ出し、発熱したアイロンの下ではシャツが黒焦げだ。危うく火事になるところだ。だいたい僕はなんだ。一体なんで裸になっているんだろう。


 机の上のノートパソコンは画面が傷だらけになっていて、次のプレゼンで使うファイルが意味不明の文章で上書きされていた。今朝の新聞も、なぜかしわくちゃになって置かれている。よく見るとカレンダーがずたずたになって三日も先の日付を出している。


 トイレは詰まって水と泡をあふれ出し、トイレットペーパーも空になっていた。お風呂場ではシャワーから水が際限なく流れ続けていた。洗濯機の中をのぞくと、水に浸ってしおしおになった洗剤の箱が残念そうにへばりついていた。


 台所には、図書館から借りてきた大事な本と常備薬が一緒になって散らばっている。それに、またしても火事の予感! 火をかけっぱなしの味噌汁が大量に吹きこぼれている。いや、味噌汁なのかこれは。巨大な豆腐とネギと味噌の塊がぷかぷか浮いているじゃないか。炊飯ジャーも、なぜだか香ばしいにおいを出している。のぞいてみると、芯がバキバキに残った米が炊けていた。フッ素化工の内釜が、ぼろぼろになっていた。



 なんだなんだこれは。一体、昨日の晩に何があったと言うのだろう。


 泥棒? 泥棒が、なぜこんなことを? ご飯を炊いたりアイロンをかけたり? 本当に訳がわからなかった。

 もしかしたら、さくらが夜のうちに暴れたのかも、とも思ったが、それもおかしい。さくらが料理などするもんか。


「なあさくら、昨日の夜に一体何があったんだ?」

 京一郎は、そばで眠るさくらに言ったが、さくらはぐっすり夢の中で、しずかに寝息を立てるばかりだ。寝顔が、いつもよりなんだか少しばかり幸せそうにも見えた。

 ばんそうこう。はて、僕はこんなものをさくらにしただろうか。



 まあとにかく、京一郎は会社に電話をした。

「――ええ、そうなんです。まだ分からないんですが、どうもドロボウ……に入られたみたいで、――はい。ええ、それで警察の方とそっちの処置をしなくちゃならないので、はい。今日は会社の方はちょっと……ええ、すみません。はい、ありがとうございます。本当にすみません」


 奇跡的に休みがとれた。盗まれたものは無いようだから、警察というのは方便だった。でも、このところ毎日働き詰めで、一日だけでも休みがとりたかった。今回のこれは、ある意味ではいい口実になったのかもしれないと思う。


 降ってわいた休日だ。今日は散らかった部屋を掃除して、趣味の料理を思い切りして、ボロボロになったワイシャツを買いに街まで行って、それから――

 そう、久しぶりにさくらと思い切り遊んでやらなくちゃ。

 隣で幸せそうに眠るさくらを見て、京一郎はふとそう思った。



 なんだかどっと疲れてしまって、京一郎はベランダに出て風に当たった。

 かたわらに飾ってある小さな笹の葉に目がとまる。そういえば、昨日は七月七日。七夕たなばただったっけ。

 仕事の合間の疲れた頭で、同僚達とふざけて書いた短冊がゆれている。笹をひと枝だけもらって、そのままここに飾ったのだった。


 このところは本当に忙しくて、家事をする間もなければ、仕事もまるで人手が足りていなかった。今日抜けたのは申し訳ないが、こんなことを書いてるあたり、やっぱり疲れが限界だったのだろうと苦笑する。


「まさか、な」

 笹の葉にぶら下がった文字が、京一郎をせせら笑うようにゆれている。


 京一郎は、赤い短冊と、部屋の中で得意そうな顔で眠るとを見比べながら、短冊に書いた言葉をつぶやいた。

「『猫の手も借りたい』……か」



【終】

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【短編】さくらちゃん、がんばる たはしかよきあし @ikaaki118

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