月をつくる

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月をつくる

 月が砕けてから、ちょうど六十年になる。


 中天にかかる銀の鎖のような、切れ切れのかそけき光の帯。

 それらが昔はひとつの塊として、夜空に浮かんでいた、ということを信じられる人が、年々少なくなっている時代である。

 彼にしても、生まれたのは月が砕けた後のことなので、実感が伴わない話である。

 彼、というのは、この実験に立ち会うことになったSPえすぴーのひとりである。

 SP、というからには、守るものがある。

 彼は揃いの黒服をまとった同僚たちとともに、ひとりの人物のぐるりを囲み、見守っている。

 老人である。

 齢は九十を越えているという。

 骨と皮だけのような姿にさらばえて、車椅子に座している。

 その老人が、今日、ひとつのことを為すという。

 月を、ふたたびつくる。

 その偉大な実験に、彼は立ち会っているのである。


「それでは、博士、お願いします」


 同僚の中でも、一番年嵩の、上役りーだーの黒服の男が、重々しく切り出した。

 対して、博士と呼ばれた老人がなんと答えたのかは、聞き取れなかった。

 ただ、ひゅうひゅうと風の音がした。


 夜の浜辺である。

 頭上には陰々とした月の帯がかかっている。

 月崩壊むーんぶれいくによって、世界の動力えねるぎー源の基幹を為していた月光発電も、壊滅的な打撃を蒙った。

 月の欠片のあの朧な光を斂めて、もとのような動力を確保できるようになってきたのも、つい最近のことである。

 もちろん、月崩壊の影響はそれだけに留まらない広汎なものであったし、なにより、失われた多くの人命が戻ることはけしてない。

 ただ、今回の実験が成功を収めれば、月崩壊によって齎された数多の問題が一挙に解決するひとつの糸口が得られるのである。

 それがこのひとりの老人に懸かっている。


 そもそも、この地球の成り立ちについては、極北地帯に伝わる始祖巨人が弑されたその遺骸が変化したものという説話類型と、我が国に伝わる祖神が大海を聖なる矛で攪拌して成ったという説話類型との折衷で決着を見ている。

 つまり、始原の巨人を解体し、噴出した血液を掻き混ぜ、凝結したものがこの大地である、というのが百年来の定説である。

 対して、月の成り立ちについては、依然百家争鳴、諸説紛々として、定かならぬ状態が続いてきた。

 西方諸国に伝わる太陽の双子の妹であるという説や、隣の大国に伝わる古代複数存在した太陽のひとつが冷却され変化したものであるという説や、さきの地球誕生の経緯を引き、大地を成した際に余った成分が、月を形作ったのだという説など、各々自分の国や地域の伝承の正統性を主張して引かなかった。

(近年では、この地球と別の天体が衝突した結果ちぎれとんだ破片が月となったのだ、などとまことしやかに主張する、“科学”を標榜する如何わしい一派すらも台頭してくる始末だった)


 そうした人々の醜い思惑が、ついに月を粉々に砕いたのだ、とも言われる。

 しかし、それらあらゆる説を綜合し、この度ついに月のつくりかたを見出したのが、月創造学つきそうぞうがくの泰斗である、博士だった。


「おい、例のものを」


 上役が背後を振り返りながら言うと、白衣の男が砂浜の上を台車を牽いてくる。

 黒服の輪が割れて、それを内に招き入れると、台車は博士の前に止まった。

 白服が台車の上に据えられた、合金製じゅらるみんのケースの留め具をぱちりと開ける。

 中には、真っ黒く湿った土くれが詰まっている。

 博士が身を乗り出して、ためらいもなくその中に双手を突き入れた。


 この道の第一人者とされる博士だが、そこに足を踏み入れたのは意外にも遅く、三十の坂を越してからだという。

 そこから、どんな情熱が彼を駆り立ててきたのか。

 枯木のような姿になって、ただ、瞳だけが炯々と、狂気にも似た熱を留めている。


 博士が導き出した月のつくりかたは、北の大地に伝わる、祖神が水底に潜り、掬ってきた泥を捏ねて空に上げたというものを基盤べーすにしたらしい。

 しかして、弛まぬ基殻まんとるの動きは、神話の時代、北の海の底にあった土塊を我が国近海の海溝まで押し流していた。

 水中数千めーとるのその場所から、最新鋭の海中探査艇を用いて採取してきた泥、それに、月の再生を誰よりも希う、博士自身の血液をいくばくか、あと黒服の彼などには及びもつかない様々な希少なものを、精妙に混ぜ合わせて素材まてりあるとする。

 そして、砕けた月の欠片たちの引力がもっとも強まるこの場所と、時。

 それを選んで、実験は執り行われることとなった。


 博士の冬の枝のような指が、無心に濡れた土くれをいじくっている。

 細い呼吸の音の間に、ぜいぜいと喘ぐような音が混じる。

 切れ切れに、祝詞のような微妙な旋律を伴う詠唱が聴こえる。

 やがて、博士の手元が、ぽうと淡い光を帯びた。

 黒服たちの輪から、だれからともなく、おお、と嘆声が上がる。

 空を巡る月の輪。

 それと同じ光だった。

 燐光は見る間に眩いばかりになり、黒服たちはみな思わず懐から取り出した遮光眼鏡さんぐらすを身に着けた。

 博士だけは肉眼で、じっと灼けつくばかりの光の源を凝視していたかに見えた。

 突然、光り輝く塊は、ぎゅん、と博士の手を離れ、風を切って空に昇った。

 きぃん、と耳鳴りを残して、星の光に紛れて見えなくなった。

 興奮と緊迫をはらんだ沈黙の後、黒服の輪を囲んだ白衣の一団が慌ただしく動き始めた。

 なにやかやと観測機械を振り上げて、口々に喚声を上げる。

 実験は、成功したのだろう。

 これから月は再生する。

 博士のつくったあたらしい月は、砕けたふるい月の欠片たちを集い集めて、和合させ、全き月をつくり出すのだ。

 ゆっくりと、時間をかけて。

 これからいそがしくなる。

 黒服たちは博士の偉業の達成を祝しつつ、今後その成果を守っていく任の重大さに身を引き締めている。

 その中で、彼はひとり、博士のもとにずいと歩み寄った。

 これは上役にも知らされていないことだったが、彼にはひとつ、特別に任された仕事がある。

 博士が事を終えた後、持たされた水筒から、博士に労いの水をふるまう。

 しかし、それは毒である。

 博士には死んでもらわなければならない。

 月のつくりかたが、万一他の国にも齎されるようなことがあってはならなかった。

 そうなれば、海を越えた東の大国や、西の大国も、こぞってあたらしい月をつくり、そして自らの国の月こそが、ほんとうの月なのだ、と唱えるだろう。

 もしかしたら、ほんとうの月を巡って、この星の頭上を、大量の大量破壊兵器が飛び交うことになるかもしれない。

 そうしたことは、避けねばならなかった。


「おつかれさまでした」


 懐から、水筒を取り出す。

 

「どうぞ、お水を」


 しかし、それに博士が応えることはなかった。


「博士」


 博士の目から、熱を帯びた光は消えていた。


「……博士」


 風の音も、もう聞こえない。




* * *




 そうして、博士は夢を見ていた。

 最後の夢だとわかっていた。


「あなた」


 なぜなら、となりに細君がいる。

 博士の細君は、六十年前、月崩壊の日に死んだ。

 それがあのころのままの姿で隣に立っているなら、なるほどこれは夢だろう。

 やわらかく蒼い、夜の浜辺。

 細君の足下では、白い犬が賢しらげな顔をしている。

 そういえば、そういう犬を飼っていたこともあった、と思う。いまのいままで忘れていたことだった。


「あなた」


 細君が博士を親しく呼ばわる。


「ほら」


 細い指が空を指す。


「月がきれい」


 見上げると、白々と円い月。

 島並のかすかな灯。松の影が黒々と濃い。

 ざあん、と潮騒が聴こえる。


 ああ、と思った。

 六十年、なにかに突き動かされるようにして、ひたすらに月をつくる方法を究めてきた。

 それはきっと、この景色をもう一度見たかっただけなのだ。

 そういう気がした。


「あれね」

「ええ」


 博士はなんでもない風をよそおって、言う。


「ぼくがつくったんですよ」

「まあ、すごい」


 細君が、そう言って、あんまり無邪気に笑うものだから、博士は照れ臭くなってそっぽを向いた。

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