ビタースイート・4
洞窟の出口を出たとたんに、激しい風がエリザを打った。
断崖絶壁。肩幅の広さもない急な階段が、はるか高みまで続いている。
見下ろすと、かすんで地上が見えないほどだ。
エリザは目をつぶった。
「……だめ! 私、進めません!」
「大丈夫ですよ、さぁ……」
再び差し出される手。しかし並んで歩く幅もない。
エリザは真っ青になり、半分涙目になりながら、サリサの腰にしがみついた。
ゆっくり上がってくれればいいものを、彼の足は信じられないほど早い。エリザの足と腰は、時々置いてきぼりを食らう格好になり、何度もサリサが引き上げる羽目になる。
「大丈夫、さあ、早く。平地を歩いているのと同じですから」
「でも、平地ではありませんもの!」
再びクスクスと笑われる。
「大丈夫ですって。ここは私の結界の中、たとえあなたが飛び降りたとしても、落ちることはありませんよ」
そういうと、最高神官は振り向いて、少しだけいたずらっぽい顔をして見せた。
「もっとも、私にしがみついていたかったら、それでもいいのですけれども」
どどっと音を立てて、頭に血が上る。
はじかれたように体を放すと、エリザの体は階段から滑り落ち、ふわりと宙に舞った。
しかし……。
まっさかさまに落ちるはずの体は、最高神官の言葉通り、空中に浮かんだまま落ちることはなかった。
でも、足元には何もない。たよりなくて怖い。
ムテの結界には、守るという力はあっても、積極的に作用する――この場合、空を飛ばせるなど――の力はない。
かすかな風が霞を払って、エリザの足の下に、ムテの村や林、畑が広がって見える。世界の上に立っているような、まったく身にそぐわない不安定感。
漆黒の岩壁に、銀の髪をなびかせた最高神官が、微笑みながら手を伸ばしている。
エリザはその手にすがった。
空中から岩場の上に引きよられ、そして……彼の胸の中にいる。
不思議な安堵と心地良さを感じていた。
マール・ヴェールの祠は、祠とは名ばかりの岩棚のような場所だった。巫女姫の祠と同じくらいの広さがあった。
そして、驚くべきはその景色の美しさだった。ムテの世界が一望できる。
二人は並んで腰をおろした。
エリザは、呆然として景色を見ていた。
「マール・ヴェール様は、マサ・メル様の前の最高神官で、ここで生活し、本当に祈ること以外はされなかったと聞いています。マサ・メル様は、あまり彼の話を好まれず、この場所にくることもありませんでした」
ふっと一瞬話が切れる。何か思うことがあったのかもしれない。
「私は……時々不思議に思うことがあるのです。同じ意志を持っていた最高神官同士だったのに、なぜにマサ・メル様はマール・ヴェール様を避けたかったのか……。あの頃は、深く考えるゆとりもありませんでしたけれど」
しかし、エリザは途中からサリサの話を聞いてはいなかった。かすかに煙る向こうに、ふるさとの村の陰影を見出すことができたからだ。
ムテはのどかだ。しかし、エリザのふるさとはさらにのどかだった。
祈り所はあったが、配属されていた神官はたいした能力を持たず、正式に霊山から認められた神官ではなかった。しかし、誰もそれを責めず、村全体が家族のような温かさがあった。
それでも、時に病に倒れる者がいたりすると、強い力を持つ者の必要性を否応なしに思い知らされる。
エリザが巫女に選ばれたことは、村全体の希望である。
ムテの女に生まれたならば、誰でも一度は巫女になる夢を見て憧れる。しかし、誰しもがなれるわけではない。常に厳しい選定が行われ、誰も選ばれない年すらあった。
時に、確かに母の言葉通り、重荷に感じることもあったけれど、巫女になって人々の力になれることが、エリザの夢でもあった。
「エリザ?」
「あ、ごめんなさい。あまりにも景色がきれいだから……」
ふいに呼ばれて慌てていいわけをした。
潤んだ瞳に気がつかれなかっただろうか? 気持ちが飛んでいたことに後ろめたさを感じた。
どうやら、気がついてはいないらしい。最高神官は、銀の髪を風になびかせて、踊るがままにしている。
「気に入ってもらえてよかった。ここは私の好きな場所です。小さな頃、マサ・メル様が怖くて、よくここに逃げていました。彼は、ここまでは追いかけてはきませんでしたから」
「逃げて?」
「だから……子供で至らなかったので、よく怒られていたのです」
さすがに気になったのか、サリサは銀の髪留を外して髪を押さえ直した。
そのしぐさは、確かに子供のようにも見えたのだが、ここまで来る間の数々の技に、すっかり圧倒されていたので、至らず怒られていたというのが腑に落ちない。
「お見せしてくださる証拠……って、この隠れ家のことだったのですか?」
突然、最高神官の顔が真顔になった。
「いいえ」
最高神官は、懐から小さな箱を取り出した。
硝子の装飾が散りばめたれた、さほど高価でもなさそうな宝石箱である。
「開けてみてください」
エリザは、意外に小さな物だったことに驚いて、箱とサリサの顔を何度も見比べた。
「さあ、開けてみて」
再び促されて、エリザは箱の蓋に手を掛けた。
きりり……と、ややきつい音。
中には白い粉に包まれた、琥珀の玉が入っていた。
エリザは、何が何だかわからずに、それをじっと見つめていた。
サリサが、それを指で摘み上げ、日差しにかざして見せる。
黄色い陰が、岩棚の上に丸く落ちた。
「蜂蜜飴?」
「ご名答」
そう言って微笑むと、サリサはエリザのぽかんと開いた口に、そっと飴を入れた。
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