ビタースイート・3

 洞窟の中は、外に比べてひんやりと感じる。

 エリザは奥へと足を踏み入れた。手ぶらということは、足取りをずいぶんと軽くする。香り苔の香りは充満していて、むしろ息苦しいくらいである。

 いや、息苦しいのは緊張のせいだ。

 どきどきしたり、急に不安になったり。その心臓の動揺が、エリザの呼吸を困難にさせている。

 久しぶりに会う人は、いったいどのような表情をして見せるだろう? 思ったままの表情だろうか? それとも……。

 あの八角の黒い壁に囲まれた部屋で、心を通わせることができなかった夜を、エリザは忘れたわけではない。翌日会ったときの優しい少年と、あの夜の冷たい最高神官と、どちらが本当の顔なのか? 見極めるほどエリザはサリサと会ってはいない。

 会えない分だけ余計にどんどん自分の中で彼が美化されていることは、夢見がちのエリザにも少しは自覚がある。

 優しい人、大事にされている、などと考えるのは、思い込みかも知れないのだ。

 ――冷たくされたらどうしよう?

 不安げな母のため息と、愛は妄想と言い切ったフィニエルの言葉が思い出された。



 光差し込む岩の上に、会うべき人は休んでいた。

 銀の髪を投げ出して、寝息も立てずに、まるで死んでいるかのように静かに。

 昼の行用の白い衣装が目にまぶしい。その胸元が上下して見えないのは、激しく打っているエリザの心臓とは対照的だ。

 前回は、起こすことをためらってしまった。これだけ気持ちよさそうに深い眠りにつかれていては、やはり起こすのはためらってしまう。

 何度か深く呼吸をして、覚悟を決めた。

「サリサ様?」

 声をかけてみたが起きない。

「あのぉ……」

 やはり起きない。

 なにやらほっとしたやら、気が抜けたやら。不思議なことに、エリザから緊張が解けて消えた。

 かなり深い眠り。

 エリザは、目元で手を振ってみたり、ぐるりと回りを回ってみたり、顔をじっと覗き込んだり、いろいろ試してみた。しかし、起きる気配はない。

 何度か躊躇して、エリザはそっと髪に触れようとした。

 とたん。ぱちっと銀色の目が開く。

「きゃ!」

 びっくりして声を上げてしまった。

 まるで、今まで深く眠っていたとは思えないほど、はっきりと最高神官の意識は戻っていた。

「こんにちは。エリザ」

「あ、あ、あのぉ……もしかして、起きていらっしゃったのですか?」

 挨拶よりも何よりも、奇妙な質問が飛び出してしまった。

 もしかしたら、意識のないふりをしていて、エリザの奇妙な振る舞いを観察していたのかも知れないと思うと、かなり恥ずかしい。

「いいえ、あなたが起こして下さったから、起きました」

 エリザの真っ赤な顔を見て、サリサは微笑んでいた。

「でも、それにしては……」

「暗示ですよ」

「暗示?」

「そう、あなたが現われて私の結界に触れたとたん、目が覚めるよう暗示をかけてから眠ったのです。だから、どのように深く眠っていても、目を覚ますことができる」

 不思議な技だ。エリザは関心してしまう。

「ほら、言うことを聞かない子供をおとなしくさせる暗示と同じです。たいしたことではありません」

 それは、八角の部屋で初めての夜を迎えるときに、仕え人の一人に掛けられた暗示と同じものである。エリザは思い出して恥かしくなった。

「ムテの技は、だいたいは簡単なものです。あなただって誰だって、創意工夫で色々なことができるようになりますよ」

「たしかに……お母さ……母も、そのような暗示を使っていましたけれど」


 今朝の夢を思い出した。

 小さな頃、よく興奮しすぎて収まらないことがエリザにはあった。

 やれ、怖い夢を見たとか、急に空が曇ったとか、実につまらないことで精神的な落ち着きを失って、泣き出すことが多かったのだ。

 それは、村の誰よりもムテの魔の力を強く持っていたせいなのだが、だからといって何かの役に立つわけでもなく、ただ、母を困らせていた。

 母は、目の前で手を振ったかと思うと、エリザを暗示に掛け、ひとまずはおとなしくさせていた。その間に、エリザは心を落ち着けて、怖いと思っていたことが、実は他愛もない幻で、夢であると気がついたりもしていた。

 そう……。

 エリザは、夢を本当だと思い込み、苦しむことが多々あった。

 夢は夢でしかない。

 今朝の夢も夢――私には予知する力なんてないもの。

 嫌な予感をエリザは払った。


「エリザ!」

 突然名前を呼ばれて、エリザは物思いから覚めて顔を上げた。

 目の前を、白い指先がよぎる。

 ――え? 

 急に体が動かなくなった。

 暗示だ。突然、サリサに暗示を掛けられて、動けなくなってしまったのだ。

 ――どうして?

 最高神官は表情を固くして、目の前から消えてしまった。エリザの背後に回ってしまったらしいが、体が全く動かない。目も動かすことができない。

 何が起ころうとしているのかわからない。エリザの目はただ一箇所、岩の壁を見た状態で止まってしまった。

 サリサ・メルの暗示は、母や仕え人のそれよりも、明らかに強力で、絶対に解けそうにない。

 暗示というものは、思い込みのようなものだ。どこか動けばそれをきっかけに外れることもあるし、掛けた相手の魔力を打ち返すほどの意志を持って矛盾を突けば、破綻してさめるものである。しかし、今回は呼吸できるのが不思議なくらい体の自由が利かない。

 死を感じるほどの恐怖。

 自分の意志で体が動かないということが、これほど怖いとは思わなかった。だが、恐怖で震える自由もない。

 せめて目の前に留まっていてくれたならば、少しは怖さから逃れられるのに……。

 不安な気持ちでいるところに、サリサの声が響いた。

「いったいどうしたのです? このようなところで何をしているのですか?」

 どうやら、エリザの背後にはサリサと他に誰かがいるようだ。

 少し離れたところにいるらしく、洞窟に響いて返事が返っていた。

「あなた様に行の間の自由をいただきましたので、香り苔を摘みに参りました。サリサ・メル様こそ、お言葉ですが、今は行の最中では?」

 聞き覚えのある声……。

 そう、エリザの元仕え人。最高神官サリサ・メルの今の仕え人である。


 ――大変! このようにして会っていることが、ばれてしまったんだわ!

 まったく動かない体ではあるが、エリザの額から汗が流れ落ちた。


 体は硬直したままである。

 しかし、心臓だけはドキドキと激しく鼓動している。

 確かに長身の最高神官の後ろにいるのだから、運がよければ見つからないかもしれない。だが、いくら石像のように動かないとはいえ、石ではない。だいたい、ムテには石像を作って飾る習慣はない。

 押し隠し通せると思うのは、あまりに楽観的だろう。

 この危機を、最高神官はどのように切り抜けるつもりなのだろう?

「確かに行の最中ですが、私だって生き物です。わけあって、祈りの祠を外すこともあるのです」

「このような遠くまで……ですか?」

「祠に不浄は持ち込みたくはありませんから」

 エリザはハラハラしながら会話を聞いていたが、顔は真っ赤になっていた。

 わけあって……って、あの、そういうことだろうか? もちろん生きている者はそういう用事もあるだろうが、最高神官においては、どう考えても考えつかない用事である。いや、彼だって生きているのだから、そう考えるのはかえって失礼かもしれない。

 しかし、仕え人は納得したようだ。

「それは……失礼いたしました」

「いいえ、あなたこそ仕事熱心で感心しました。今後とも、その姿勢でお願いいたします」

 にこやかな声。

 しかし、仕え人からはエリザが見えてはいないのだろうか?

 確かに体は動かないのだけど、岩の隙間から吹き込むのだろう、わずかな風に衣服や髪が揺れているのに。

エリザの髪は、ムテ人ならば誰もがそうであるように、細やかな銀糸のようである。真直ぐにおろしたそれは伸ばしたままにするのが普通で、巫女姫ともなれば魔力温存のために切ることは許されない。最高神官ほどの長さはないとはいえ、腰の位置よりもはるかに長い髪なのだ。

 さらに服である。薬草収集のための作業着とはいえ、巫女姫の上衣はムテの衣装らしい長衣で、スカート丈はかなりの長さがある。動きを阻害しないように脇は縫い合わされていないし、その合間から覗く下衣は上衣よりも長く、しかも風をはらむのに充分な幅がある。

 気がつかないはずはない……。 

 そう思ったとたん、今度は体が勝手に動く。

 きゃ! とあげたと思った声は、声にはなっていない。

 サリサは、洞窟の奥へ進もうとして振り返り、言葉を付け足した。

「私は、これからマール・ヴェールの祠で行の続きをします。夕刻の祈りの前までに、私の部屋で待ち合わせましょう。香り苔の採取、よろしくお願いいたします」

 体が動いて再び止まったとき、エリザは仕え人の真正面に立っていた。動かない視点が真直ぐ彼の目を見てしまい、エリザは鷲に睨まれたねずみのような気分になって縮みあがった。とはいっても、気持ちだけで体に動きはなかったが。

 しかし、彼はエリザには気がつかず、最高神官に胸に手をあて敬意を示しているところだった。

 おかしいと思った瞬間、また再び体が動き出す。

 まるで、最高神官と体が糸で繋がっているように、彼の動きに合わせてエリザも動いてしまうのだ。

 仕え人の姿が見えないほど奥まで入ったとき、サリサは再びエリザの目の前で指先を動かした。

 とたん、体が自由になって、エリザはへなへなと崩れ落ちてしまった。


「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 細い指先の手が、目の前に差し出された。

 エリザは真っ赤な顔のまま、手に手を重ねた。そっと引き起こされた。

「い、今のは?」

「今のも暗示です。応用編ですけれどもね」

 最高神官は、エリザの服についた香り苔を軽く叩いて払いながら説明した。

「あなたには、私と動きを一体化するように暗示を掛けました。そして、向こうにも同時に、ここには私しかいないと暗示を掛けたのです。彼は、フィニエルほど疑い深くはないですから、あっけなく掛かってくれました」

 それで仕え人には、エリザがまったく見えていなかったのだ。元のエリザの仕え人だった彼を、エリザは苦手としていた。見つかっていたら、死にたくなったかも知れない。

 ものすごい安堵感で、エリザは再びよろめいた。

「説明している暇がなかったのです。申し訳ありません」

 ふわりと体を支えられて、エリザは何度も首をふった。


 洞窟の奥から光が漏れている。

 小さな出口があるらしい。サリサが指を差した。

「私はいつも、あそこからここに来るのです」

「あ、あの……」

「その用事を足しに……ではありません」

 クスクスと笑い声。

「そ、そ、それを聞きたかったのではないです!」

 自分が想像していたことを見透かされて、エリザは耳たぶまで熱くなってしまった。

 ――どこまで行くのか? 秘密の品って何なのか? 

エリザの聞きたいことは、そちらだった。

「私の用事は、昼寝とあなたに会うことです。どちらも、生きていたら必要なことですよ」

 嘘はついていないとばかりに、最高神官は笑った。

「それにマール・ヴェールの祠に行くことも本当です。あそこは、私くらいしか行きませんから」

ややいたずらっぽい微笑を残して、サリサは出口を目指して歩き始めた。

 エリザが呆然としていることに気がついたのか、出口から出かけて彼は振り向いた。吹き込む風に髪が舞い上がり、逆光に透けていた。

 まぶしくて表情までは見えなかったが、軽く「おいで」と振られた手ははっきりと見えた。

 それは、エリザが大好きな手だった。

 エリザがついてくることを見極めたのか、その手に追いつく前に最高神官は身を翻して光の中に消えていった。


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