ビタースイート・2

 すこしは自分を抑える術を身につけたのだろうか?

 最高神官と会える約束の日ではあるが、飛び上がらんばかりの心臓を留めて、エリザは朝の祈りを完璧にこなした。

 霊山にきて、初めての快挙――いや、普通は当たり前のことではあるが――であった。

「今日のことをお忘れなきよう……」

 唱和の仕え人たちが、うやうやしく頭を下げて、祈りの祠をあとにした。その後姿を見送って、エリザは初めて巫女姫としての自信らしきものを得た。

 祠の入り口で控えていたフィニエルも、口もとが小さくほころんでいる。普段はあまり感情を表にしない彼女だが、必死に祈り言葉を指導した身としては、やはりうれしかったのだろう。

「ゆっくり食事をする時間が取れることは、体にもいいことです」

 まるでほめ言葉にはなっていないが、普段は読めない彼女の気が充分に伝わってくる。

 エリザの心は、その日の爽やかな空と同様、晴れ晴れとしていた。

 そして、夢の中で悲しく呟く母の言葉を、エリザは心の中で否定した。


 ――私は、選ばれたんだから。

 頑張れば巫女姫をつとめあげられる、その素養はあるはずだわ――


 薬草学もコツを押さえてしまえば、あとは知識を詰め込むだけでいい。記憶力には自信があった。

「次回からは、癒しの基礎を学びましょう。すこし難しくはなりますが、巫女姫の知識としてはこれからが重要になります。心してくださいませ」

 薬草の仕え人が、にこりともせずに言う。

「はい、頑張ります」

 エリザは元気よく答えた。心ははちきれんばかりである。

 いよいよ巫女姫としての本格的な勉強が始まる。これぞ、霊山の奥義の一つであり、山下りした巫女姫がムテで珍重される理由でもある。癒しの巫女としての貴重な知恵だ。

 ついの間までは、この巫女姫には癒しの能力がないのでは? などと、仕え人たちに平然と噂されていたのだ。彼らとともにある朝食の時間は、食事ものどが通らないほどに辛かったし、フィニエルもそう思っていたのか、助け舟すら出してくれなかった。辛ければ、努力すればいいというのが、彼女の言い分だった。

 それが……癒しの能力を認められた。今日は何だかいいことが続いている。


 その後は医師との面会。前回の診断の結果が出る。

「エリザ様は、まだ女性としての周期が安定していません。どうも……今月は飛んでしまったようですね」

 かつては、ほっとしたような気分になったこの判断も、今のエリザにとっては好ましくはない。

 うつむくエリザの横で、フィニエルが医師に提案する。

「それでしたら、今は週二回の検診を三度に増やしてはいかがでしょう? 我々は大変にはなりますが、一番大変なことは機会を逸することですから」

 医師の検診は、正直言って好きではない。初めての時は卒倒するほど驚いてしまったし、今だって痛くて辛い。

 しかし、霊山に入ってからすでに三ヵ月目になろうというのに、まだ一度しかその機会に恵まれていない。初めての夜の拒絶事件が、確かに一大事だったということが、やっと理解できるこのごろである。

 それに、最高神官と会う約束してから、すでに一ヶ月も過ぎさっていた。

 エリザがサリサの姿を見ることができるのは、祈りの時の祠へ向かう道くらいだ。それも、はるか上を歩く姿を仰ぎ見るだけで、山道が怖いエリザには、それすらもゆとりが無い。

 たぶん、常にさほど離れていないところにいながら、まったく会う機会がないというのも、また辛い話である。

 会うためならば、そして巫女姫としての使命を果たすためならば、辛いことなんて乗り越えられる。

「エリザ様がきつくなければ、私はかまいませんが」

「はい、私なら大丈夫です」

 エリザは、医師にはっきりと返事をした。



 床に差し込む光が日時計に時間を刻む。

 午後になった。今日は薬草採りに出かける日だ。

 季節はすっかり夏。とはいえ、標高の高い霊山にあっては、すべての季節が混在しているかのような有様である。

 薬草の仕え人たちは、この時期泊りがけで山の頂上付近まで出かけ、珍しい薬草や薬石の採取を行う。

 しかし、エリザのように毎日のつとめがある者は、遠出することはない。あらかじめ把握している群生地を回る程度だ。

 エリザがあの洞窟にいけなかったのは、今の季節、そこにはもう香り苔しかないからである。水辺の朱光花や瑠光花などの染料用の草を摘みに出かけたり、谷の清流草を摘みにいったりしていた。

 当然、水辺や谷には、最高神官が現れることはなかった。

 フィニエルが、そろそろ『祈りの儀式』に備えて、香り苔の蓄えが必要であると訴えてくれて、やっと香り苔の洞窟に行くことができる。

 そして、最高神官に約束のものを見せてもらえる日でもある。


 山道を歩いている途中、フィニエルの足が止まった。

 エリザも慌てて止まる。爽やかな風が、フィニエルの銀の髪をゆらしていた。

「エリザ様、今日はここで待ち合わせしましょう」

「え?」

 まだ、洞窟までは距離がある。常にともにいることが仕事の彼女の口から、なぜそのような言葉が出てきたのか、わからない。

「今日は失敗もございませんでしたし、少しは気を楽にされたほうがいいかと思います。香り苔は、私があなたの分まで摘んでまいりますから」

 そういうと、フィニエルはエリザの籠に手をかけた。

 エリザはやっと心が読めた。

 この近くに、あの洞窟よりも大きい苔の群生地があるのだ。フィニエルはそこに行くつもりなのだろう。そして、気兼ねなく時間ぎりぎりまで会ってこいということなのだ。

 エリザの顔はほころびた。

「フィニエル、ありがとう! 大好きよ!」

 思わず飛びついてしまう。

「あまり子供っぽいことをなさいますと、気が変わります」

 今度は慌ててはじけ飛ぶ。

 そして、何度もぺこぺこ頭を下げると、エリザは洞窟までの坂道を一気に走り出していた。

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