約束・2
エリザは籠を両手でしっかり握りしめたまま、洞窟の奥へと入っていった。
初めてここにきたときよりも、香り苔の香りが強い。苔は今が旬なのだろう。逆に竜花香は、深く土の下に根だけを残し、時期を待つ。
「私は、元気です……。元気です……」
エリザは練習してみた。
緊張すると口が利けなくなることがある。
この悪癖のせいで、ふるさとにいた時から、けっこう失敗してきているのだ。そういう場合、いうべき事を暗記しておくと上手くいく。
でも、声に出してみると何かがおかしい。そう、上の者に対する口上が欠けているのだ。
「えっと……。本日は、お日柄もよく……」
ちょっと違う気がする。
「あの、先日の夜は……」
とたんに赤面。
そんな恥ずかしいことは、とても口に出せない。
母は、人に迷惑をかけたときは、先ずは謝れと教えてくれた。
「お騒がせして申し訳ございませんでした。心配をおかけしましたが、私は元気です」
これだ。
踏むたびに匂いを発する苔の上を、エリザは上機嫌になって歩いていった。
「心配をおかけしましたが……元気、元気」
何度も口に出してみる。いい調子、いい調子。
しかし突然――
「げ……」
で、言葉が出なくなってしまった。
もっと奥で眠っていると思っていた。
どうしてこの方は、まったく気配を感じさせないのだろう?
目の前にいる最高神官の姿に、エリザは一気に緊張してしまい、口が利けなくなってしまった。
「……元気そうで……安心しました」
最高神官が先に口を開いた。
銀糸の髪に、切れ長の銀の瞳。薄い桃色の唇は、典型的なムテ人の容姿である。
人形師が作り上げたかのような見事な造形は、生きているようには思えないほど。ややこわばった顔には、微笑みはなく、エリザは少し戸惑った。
返事をしようと思ったが、練習していたのは「元気」なのだ。あわててぱくぱく口を開いたが、音は何も出てこなかった。
「あなたを傷つけてしまったようで……先日の夜は……」
最高神官には、泣き叫んで興奮した姿を見せて、それで別れてしまっていたのだ。
そんなことはないです! というつもりだった。が、「先日の夜」の一言で、エリザは真っ赤になってしまい、結局やはり言葉がでてこなかった。
「どうぞ、許してください」
ふわりと最高神官が頭を下げる。
そんなこと……。
エリザは慌てて何かを言おうとしたが、緊張すると口が利けないという症状に、どっぷりとはまってしまった。
ここで泣いてしまっては、ますますサリサ・メル様に失礼に当たる……。
そうは思っても、口が利けないかわりにじわりと涙が浮いてきてしまう。
――誤解されてしまうわ。どうしよう?
「どうしても辛いことでしたら、遠慮なく言ってください。選んだ私にも非があることです。あなただけが責められないよう、責任をもちます。巫女の任を終えた者が得る【癒しの巫女】の地位を授けるよう手配いたします。ですが……」
エリザの手から、籠が転がった。
それは、巫女を首になったも同然の言葉である。
子供っぽい行動で、我慢のできない幼さで、散々騒いだのだから、そうなっても仕方がない。が、エリザはそこまで重大な失敗をしたとは思っていなかったのだ。
むしろ、浮かれていたくらいで……。
最高神官は転がった籠を髪が苔に着くほどに身をかがめて拾い、エリザの前に差し出した。
「ですが……できましたら、つとめ上げていただきたいのです。私も努力しますから」
籠を受け取り、ポロリと涙を流したのを、最高神官はどのように受け止めたのだろう? 少し眉間に皺がよった。
「……あ……」
やっと出た声が、これだけ。
「あなたに……辛い思いをさせるつもりはなかったのです」
最高神官にそんなことを言わせるなんて、浅はかで情けなさすぎる自分。
どうしたら……。
地に届き、香り苔を絡ませた最高神官の銀の髪から、ふわっと香りが漂った。
エリザは思い出した。あの朝、自分がどんなにこの香りと幸せな余韻に浸っていたのかを。
そこで、慌てて籠を置き、必死になって服のポケットの中を探り、握りしめてクチャクチャになってしまった香り袋を取り出した。
最高神官の目の前に、小さな袋を両手で差しだす。
「これ……ずっともっていたんです」
やっと声が出る。一度出ると、ほっと緊張が解けてゆく。
「これ、あの……ずっともっていたんです。あの……あなただと思って」
クチャクチャになった袋を、最高神官は受け取った。そして、しみじみと見つめていた。
ずっと持っていた……と言うよりも、握りしめて、いや、握りつぶしていたと言うにふさわしい。エリザはまた真っ赤になってしまった。
「ありがとう」
最高神官の声は、少しホッとした響きがあった。
と、同時に、二人の間にあった圧迫された空気が、すっと流れて消えたように感じた。
「私、もっと頑張りたいんです!」
エリザは真っ赤な顔をして、やっと声に出せたのだが、同時に再び涙ぐんだ。
「でも、本当に、わ、私でもいいのでしょうか? あの……私、全然才能ないみたいなんです」
「才能? 私が選んだ人なのに?」
少し意地悪っぽい物言い。でも、口元が微笑んでいる。
エリザは目をぱちくりとさせた。そしてあわてて叫んだ。
「い、いえ! あの、サリサ・メル様の目に狂いはないです! でも、私、あまりにも失敗が多くて……時々落ち込んじゃって……」
最高神官は、光に照らされた石の台の上に座った。
そして、エリザの手を引くと隣に座らせた。
「たとえば? どのような失敗を?」
「え? それは……たとえば……」
日が徐々に傾いてくる。
不思議なものである。
一度開かれた唇は留まることなく、次から次へと失敗談を語り継いでしまう。
こんな恥ずかしい話……と思いつつ、とまらなくなっている自分に、エリザは困り果てていた。
途中でつまらないと言ってくれると止められるのに。
しかし、最高神官は微笑みながら聞いている。
「……それで、またフィニエルに怒られてしまいまして、落ち込みました」
やっと長い話に切りをつけることができて、エリザはほっとため息をついた。
「フィニエル?」
最高神官の目がきらりと光った。
微笑は一瞬途絶えたが、今度は口元に手を当ててクスクス笑い出し、止まらなくなっている。
さすがに、話が長すぎて、余計なことまで言ったに違いない。
「な、何か私、おかしなことでも?」
「いいえ。ただ……思い出し笑いをしてしまっただけです」
最高神官は、笑いすぎて少し涙目になっている。
エリザは少しうつむいた。そこまで笑われる理由がエリザにはわからない。
「あの……私、知らないうちに笑われるようなことでもしていたのでしょうか?」
「いいえ、私が……です。あなたの話を聞いているうちに、私がこの霊山に最高神官として戻ってきた日のことを思い出したのです。私も若かったので、当時はフィニエルに同じように怒られていましたから」
「え? サリサ・メル様が? ですか?」
エリザは驚いて目を丸くした。
しかし、そのような事実を認めては失礼だ。
どこを見ていいのやら……エリザは目線をそらすとせわしく瞬いた。
「驚かないでください。私は百年以上生きてはいますが、子供だった頃が長かったのです」
確かに、サリサ・メルはエリザと見かけはさほど変わらない歳に見える。しかし、マサ・メルが没して以来のムテを、守りつづけてきた力ある最高神官だ。
自分と同じドジであってはならない。絶対にそうであってはならない。
エリザは小さく首を振った。
「サリサ・メル様にそのような時代があるなんて、信じられません……」
そろそろ約束の時間になる。
フィニエルが時間にうるさいのを知っているせいか、最高神官はふと天を仰いだ。洞窟に注ぐ光の帯が、どんどん鋭角になってきている。
「では今度、お会いする時に、証拠の品を持ってきますよ」
そう言って最高神官は笑った。
「証拠? ですか……?」
エリザは、銀色の瞳を丸くした。
「秘密の品です。フィニエルも知らない。興味ありますか?」
「興味なんて……あの……あります!」
二人だけの秘密。その響きに心が踊る。
「では、また会いましょう。約束です」
そういうと、最高神官は立ち上がり、籠を拾ってエリザに手に手を重ねて持たせてくれた。
しかも、洞窟の入り口までエリザを見送る途中、目ざとく竜花香を見つけて籠に入れてくれた。
別れた後も、顔がどうしても崩れてしまう。
エリザの足は軽く、ややもすれば踊っている。
山道を降りながら、横目でフィニエルが睨んだ。
「何かありましたか?」
「……いえ、何も。……ただ、また会いましょうと約束を……」
ふーんというように、フィニエルが空を仰いだ。
嘘をついたのがわかってしまったのだろうか? エリザの場合は顔に出やすい。
「にやついたまま母屋に戻られますと、その約束は守れなくなります」
「はい……」
慌てて返事をし、気持ちを引き締める。
「でも、今日は条件が悪い中、竜花香を見つけていらっしゃったので、薬草の者も喜ぶことでしょう」
ほんのすこしだけ、フィニエルは表情を和らげた。
また、夜がやってくる。
今夜も興奮して眠れない。
秘密って何だろう? そう思うだけでドキドキする。
でも、秘密の内容よりも、秘密そのものを分かちあえることがうれしい。
クチャクチャになった香り袋を、ちょこんと鼻の上に乗せる。
最高神官の髪の香りがする――
窓から空を見上げると、星が見えている。
きっと今頃、あの方も星を見ている……なぜかそう思う。
エリザはほっとため息をついた。
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