約束

約束・1

 一日が終わり、夜が来た。


 興奮して眠れない。

 エリザは大きくため息をついて、起き上がった。

 霊山の女主人の部屋とは思えないほどの小さな部屋――それが巫女姫の部屋だ。

 ふるさとの我家とは比べ物にならないくらい大きな母屋ではあるが、自室はむしろ狭いくらいだった。

 飾りも何もない。ベッドと小さな椅子。机。窓には格子。囚人の部屋のようだ。羽の詰まった寝具は柔らかだが、ベッドも小さめ。そこに、添い寝してくれた人は、さぞや窮屈だっただろう。

エリザは手元の香り袋を揉み解して、そっと頬に当ててみた。

 ぬくもりを感じる――

 放したくなかった銀の髪。そのかわりに置いていった桃色の布袋。

 優しい香りが満ちてきた。


 無機質な霊山での生活で、エリザが心のよりどころとしている人。

 昨夜、エリザはその人に初めて抱かれ、一夜をともに過ごした。

 想像していた感じとは違った。何が何だかわからなかった。

 自分をすっかり見失うほど、苦しくて辛くて痛くて怖かったような気がする。だから、ずっと泣いて泣いて、泣きじゃくっていたと思う。

 でも、時間がたって振り返ってみれば、その行為は夢を見ることで美化されて、素敵なことだったようにも思えてくるから不思議だ。

 夢のよう……だった。

 いや、あまり覚えていないから、それは本当に夢の部分かもしれない。


 窓からそっと外を見る。

 星が出ている。晴天の証だ。

 明日、薬草採りに出かけることを口実に、最高神官と会うことになっているのだが、浮かれ気分を通り越して、何だか怖くなってきた。

 ふと現実にかえると、最高神官が自分をどう思っているのか、どんな気持ちで慰めてくれたのか、いや、それ以前に愛されているのかすら、全くわからないのだ。

「こんな気持ちじゃ、とても眠れないわ……」

 エリザは少し肌寒くなって、自分の肩を抱いて震えた。



 そして、また新たな朝。


「夜が眠れないのは、昨日、お昼まで寝ていたからでございます」

 仕え人が冷たく言いながら、巫女姫用の礼装を整える。

 その間に、エリザは慌てて髪を梳かす。

 見事に寝坊してしまった。

 二日連続で、朝の祈りを休むわけにはいかない。唱和の仕え人たちが迎えにくるまで、あとわずか……。

 どうにか間に合いそうな頃合いになって、仕え人のフィニエルが厳しい顔で釘をさす。

「エリザ様、余計なことは考えずに、祈りに集中してくださいますよう……。万が一、祈りに乱れが生じるようでしたら、本日の午後の予定は取りやめになりますので」

 エリザは緊張した。

 午後の予定……。それは薬草採りに行くこと。つまり、最高神官と会うことである。

 そう考えると、今度は顔が熱くなってくる。

「どうやら、私の忠告は逆効果でございましたね」

 両手両足が同時の一歩を出して、つんのめったとたん、フィニエルが冷たく言い放った。

 そして、目の前にはフィニエル以上に冷たい目をした唱和の者たちが、胸に手を当てて控えていた。


 急な崖に道がある。

 日の出には時間がある。まだあたりは薄暗いというのに、祈りの祠までの道に灯りはない。唱和の者たちにはさまれて、エリザは足元に気をつけながら、積み重ねられた石段を登ってゆく。

 頼るのは、自らが発する銀の光のみ。

 長命魔族のムテ人が【銀のムテ人】と呼ばれるのは、銀の結界を常に纏っているからなのだ。それは、このような闇にあっては、かすかに光って浮かんで見える。

 強い魔力ではない。

 エリザは、自分の結界の光をかつて見たこともなかった。この霊山にくるまでは。

 霊山は、ムテの魔力を引き出し、維持し、増幅させる。だから、エリザのように至らぬ巫女姫であっても、自分の足元は照らせるのだ……と、エリザも仕え人たちも思っている。

 最高神官が力を貸しているなどと気が付いている者は、わずかである。

 もしも、その事実に気がついている者が大勢いたら、エリザはもうここにはいられないだろう。

 それだけ、周りは皆、最高神官が無駄な力を使うことに神経質なのだ。そして、巫女姫は、その力を補うように、力ある者を選んでいるはずなのだから。


 エリザは、少しだけ祈り言葉を間違えて、唱和の者に注意を受け、フィニエルのお説教と指導を受けた。

 午後の予定の取りやめはなかったが、そうなるんじゃないかと思えて涙が出て、さらにフィニエルに叱られた。

 その日もいつもと変わらない時間が過ぎてゆく……が、それすら、エリザには不思議に思えた。

 初めての夜を越えた自分が、過去の自分と同じだとは思えない。一度壊れて組み直されたような、生まれ変わったかのような心地なのだが、まだ体に残っている微かな疲労感以外、何も変わっていないかのようだ。


 ――まさか、夢だったんじゃないわよね?


 そんなはずはなく、でも、実感もなく……。

 何よりも、先日の取り乱しようを思い出すと、恥ずかしくてたまらない。

 こんな状態で最高神官にあったら、何を話していいやら。心臓の鼓動ばかりが忙しくなってくる。



 日が高く上がった。


「何をそわそわなさっているのです?」

 フィニエルの声がぴしりと響く。

 薬草採りに行く準備中だった。

 作業用の綿でできた上衣を羽織らせてもらいながらも、エリザは、あの日の朝に最高神官がそっと握らせてくれた香り袋を、ひっきりなしに揉み解していた。

「……だって、あの……何だか怖いんです」

 楽しみにしているのだけれど、それと同じくらい。

「では、やめますか?」

「え? えええっー?」

「では、落ち着きくださいませ」

 目の前に突き出された薬草入れの籠。エリザは慌てて香り袋をポケットに突っ込み、籠を受け取った。

「いいですか? 時間は厳守です。守れない場合は、今後はありません」

 エリザは何度もフィニエルの言葉にうなずいた。

「何度もうなずかなくてもけっこう。守ってさえいただけば」

 フィニエルの瞳は、相変わらず冷たい。

 応援してくれているようで、反対しているようにも思える。

 よくわからない。

 大きく息を吸った。

 どのような顔をして最高神官に会えばいいのかわからない。実感のわかないあの夜を、エリザはもう一度、思い出そうとした。


 ――あの夜。

 手から滑り落ちた媚薬の小瓶が、頭の中で弾んで転がった――


「きゃっ!」

 薬草を入れる籠が、エリザの手元からすべり落ちた。

 思い出しただけで、もう恥ずかしくって……思い出せない。思い出したら、きっとまた取り乱してしまう。

 床に転げた籠を、長い髪を床に届かせながら、フィニエルが拾った。

「エリザ様、あなたは想像力が豊かなようですが、はっきりいって、それは妄想でございます」

 冷たい銀の瞳が、真っ赤になったエリザの顔を冷ますかのように、鋭く見つめる。

「サリサ・メル様にとって、あなたをお抱きになることは、単なる仕事にしか過ぎません。愛を期待するのは愚かなこと。わきまえることが大切です」

 確か以前もフィニエルはそんなことを言っていたような気がする。

 でも、エリザはその時も今も、よく意味がわからなかった。真意を聞こうと思っても、フィニエルはすでに母屋を出て、すたすたと歩き出したので、急いで追いかけるしかなかった。

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