フィニエル日誌・3

 初めての夜は、サリサ様にとっては最悪の夜だったといえよう。


 散々薬湯に押し込まれ、漂白されるほど洗われたうえ、医師からくだらない話を聞かされ、かなりうんざりしているようだった。

「やり方に不明な点はございませんか?」

「……私をいくつだと思っているのです? 知らなくてどうします」

 不機嫌な顔は小さな時と同じ表情。

百歳を越えているとはいえ、ついこの間まで十歳並だったのだから、それが彼お得意の嘘であることを、私は知っている。


 昔からサリサ様は、自分の都合でよく嘘をついた。

 できることをできないと言って泣かれると、本当にできないのかと思ってしまうが、影で舌を出していることが多かった。もちろん、マサ・メル様のほうが上手で、そのような嘘はすぐに見抜かれていた。

 でも、見抜くのが大切なのではなく、嘘をつく性格が問題である。最高神官としての適正を疑う。

 そもそも、彼は最高神官になどなりたくなかったのだから、嘘を見抜かれて適性無し……というお墨付きをもらいたかったのかもしれない。

 と考えると、サリサ様は意外と大物なのかもしれない。

 そう思ってきたのだが、今回の巫女選びには、さすがに頭が痛かった。


 今夜を仕事とは割り切れず、サリサ様は緊張している……。

 仕事に私情をはさむから、このようなことになるのだ……と言いたかったが、他の仕え人の手前、やめておいた。

 回りの騒々しさに、彼は突然一人にしてくれと言い出した。祈りを捧げたいといわれれば、やむをえない。

 仕え人は私も含めてすべて追い払われ、彼は予定の時間にかなり遅れた。逃げたのではないか? と思うほどに。

 ところが、気持ちが高ぶっていたのはサリサ様よりもエリザ様のほうだった。

 サリサ様を待っている間に、何を思ったのか突然暴れだし、逃げ出そうとしたものだから、私は彼女に暗示をかけ、体の自由を奪った。


 そのようなことは、一瞬我慢すればいいではないか。

 何も殺されるわけではない。


 しかし、お優しいサリサ様ときたら、その暗示を解いてしまわれたうえ、その日はすべてをおやめになってしまった。

 ――いったい何を考えているのか?

 本当に困った最高神官である。

 マサ・メル様ならば、このようなことはお許しにはならなかった。

 さすがに、我々仕え人一同、この事態には動揺した。



 私はサリサ・メル様の仕え人である。

 このような事態にも、常に最高神官のために身の回りの世話をする義務がある。

 ところが、部屋に戻られたサリサ様は、私を中には入れようとはしない。

 仕え人としては、困った事態である。

「お召し替えを手伝います」

 返事がない。

「私が困ります」

 ますます返事がない。

「……薬湯をお持ちしますが……」

 やっと扉が開く。

「フィニエル。悪いのですが、今日は疲れ果てました。もう休ませてもらえませんか?」

「あなた様がいけないのです。あのような少女をお選びになるから……」

 サリサ様の指先が私の口元を押さえ、言葉を制した。

「そのことは……言わないでください」

 寂しそうに微笑まれると、マサ様に似ているので、さすがに言葉が出なくなる。

私は胸に手を当て、敬意を示してその場を去った。


 その夜は、私も日誌を書くのをためらった。

 まさか、自分の職務怠慢とも取られかねない記録を残しておくわけにもいくまい。



 翌朝、サリサ様はいつものように日が昇る前に起きたようだ。

 さすがに、彼は前夜のことを引きずってはいない。最高神官の務めをしっかり勤め上げようとする心構えは、マサ・メル様と同じ。頼もしい限りである。

 私もいつもと同じ時間に最高神官の部屋を訪れ、着替えを手伝う。部屋を出ると三人の唱和の仕え人が待機している。

 まったくいつもと変わらない。同じ朝が来たのである。


 まだ薄暗い中、はだしで崖横の石段を登る。普通の者ならば、あまりの高さに目がくらむ高さだ。風が唸る。

 谷を渡る風はいつも凶暴であるが、結界に守られた最高神官には何の影響も与えない。

 羽根でも生えているかのような軽やかな足取りで、白い衣装をなびかせながら祠までの道を上がって行く。我々も付き従ってゆく。それもいつもと変わらない。

 しかし、巫女姫が霊山に来て以来、サリサ様は他の者には秘密のことを、こっそりするようになっていた。

 見下ろすと、下方に巫女姫の祠が見える。エリザ様も朝夕、最高神官と同じように祈りを捧げているのだ。

 しかし、彼女は充分な結界をはる力がない。毎朝、毎夕、細くて頼りない崖横の石段を、へっぴり腰で唱和の者たちにせかされながら登ってゆく。降りるときは、さらにひどい。初日は腰が立たなくなって、唱和の者が背負って降りてきた。霊山に住む他の仕え人たちからも、その情けない姿はよく見えるのである。

 サリサ様は、誰にも気がつかれないようにかすかな力をエリザ様に送っている。彼女自身も気がつかないだろうが、それで少しだけ当たる風は弱まるのだ。

 無駄な労力を無駄な巫女姫のために使っている。

 気がついたのは、おそらく私だけだろう。知ったら他の者は黙っていないからだ。


 それを暴露してエリザ様を追い出すつもりはない。

 その事実は、サリサ・メル様の公平さに傷をつける結果になり、信頼の失墜に繋がるからだ。

 しかし、昨夜の事件も考え、彼女の資質を考えあわせると、申し訳ないが巫女姫をお辞めになっていただくのが妥当だと思う。

 サリサ様は、最高神官としての務めも、巫女姫の不足分もこなすつもりなのだ。

 このままでは、サリサ様のためにはならない。

 サリサ様は、寿命を削るだろう。

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