巫女姫の仕え人・7
ほんのりと香り苔の香り。温かな日差し。
エリザは何気に自分の手の中のものを見た。力なく軽く握られている手に、小さな布袋がある。
やや桃色に染められた綿を縫って作られたもので、ちょうど手の中に入って心地よい大きさだ。香りはそこから漂ってくる。
香り袋だ。エリザはぼんやりしながらも、軽く握りしめた。香りが新たに広がってゆく。
「目覚めておいででしたか?」
夢心地は一気に吹き飛んだ。仕え人の声だった。
気がつくと見慣れた天井。いつのまにか寝室に戻って自分のベッドで眠っていたらしい。記憶が定かではない。
「わ、私はいったい?」
「憶えてはいらっしゃらないのですか?」
責めるような冷たい言葉に、エリザは嫌な予感を覚えた。
「あなたは昨夜錯乱して、サリサ・メル様の髪を握りめて離さず……」
エリザは青くなった。思い出した。たしかに泣き叫んでいたような気がする。
「あの方は仕方がなく、あなたをこの部屋まで運び、それでも髪を離さないようでしたので……」
エリザは赤くなった。そう、離したくなかったのだ。あまりに切なくて……。
「添い寝なさって、子守唄をお歌いになって、それから……」
もう聞くに堪えない。なんという恥ずかしいことをしたのだろう? まるで子どもを通り越して赤子ではないか?
「やっと寝付いてくださいましたので、髪の代わりにその香り袋を握らせました。そして、そのまま、朝の祈りへと向かわれました」
「! あ! 祈り!」
エリザはあわてて飛び起きた。もうすでに日は高く、お昼時かと思われる。
仕え人はあきれて小さく息をついた。
「あなたの祈りなど、あってもなくても同じです」
情けない。情けなさすぎる。
赤子のような態度をとって、最高神官に徹夜であやしてもらったなんて。エリザの評価はさらに地に落ち、穴を掘らなければならないほどだろう。
それに……。あの辛い祈りを徹夜で疲れ果てた体で勤め上げさせるなんて……本当にお荷物の巫女である。
「あのように興奮なさるとは……薬湯の幻覚作用が強く出すぎたのかもしれません。今日はゆっくりお休みになってください。明日からは、こうは参りません」
仕え人の手が、エリザを再びベッドへと横たえた。いつもより若干温かい。
「……でも、サリサ・メル様は……」
そう、最高神官は自分の務めを遂行している。今、こうしている間にも。
「あの方はあなたとは違います。比較にもなりません。もっと……」
仕え人は、体をおこすと胸を張った。
「もっと、したたかでございます。手を抜くところはちゃんと抜いておられる」
「手を抜く?」
エリザは再び起き上がった。あきれた顔で仕え人が再び横たえる。
「あなたはお休みください。明日にはまた竜花香を摘みにいってもらいますので」
「竜花香? だって……もう」
エリザはとまどった。
それは先日かなり採ってしまった。これ以上採ったら、根こそぎになってしまうことを知らない彼女ではないだろう。
「ですから……お眠りになっている時は、たたき起こしておあげなさい」
バネのように跳ね起きた。目はすっかりさめてしまった。
頭の中に疑問詞があふれかえって、考えられる結論に達して仰天したのである。
「あ、あ、あ、あ、それって……!」
仕え人は相変わらずの無表情でにこりともしない。あきれながらも再びエリザを寝かしつける。その手が肩に触れた時、エリザはうれしさに目を潤ませた。
「あ、あの、ありがとう……」
「私はただ、あなたにしっかりしていただきたいだけです」
彼女は冷たく自分の手に添えられたエリザの手をよけた。しかし、エリザはそれでもうれしかった。
――この人は、私をいじめていたわけではなかったのだわ。
洞窟に入る前、彼女は何と言ったのか? 薬草など採れても採れなくてもよい、時間だけは守れ、と言った。最初から偶然を装って、最高神官とあわせてくれるつもりだったのだ。
今から冷静になって考えると、すべてつじつまがあう。
朝の祈りの練習も、冷え切った洞窟で長い時間泣きつづけるよりも、温かいショールを羽織って、短時間集中的に練習したほうがはかどるだろう。その結果、温かい朝食を座ってとることができた。体調を整えるためにも、そのほうがよかったのだ。
彼女が来てから、たしかに落ち込んでばかりではあったが、いろいろな面でエリザは助かっていたのだ。自分が弱虫なばかりに、それに気が付かなかっただけで。
そして、彼女をエリザにつけてくれたのは、最高神官その人である。
どのように冷静な神官としての顔を持とうと、あの香り苔の思い出が無になったわけではない。彼は、彼なりにエリザのことを考えてくれていた。表面に出ている顔だけが、その人の真実ではないのだ。
じわりと胸の奥が熱くなった。
彼女はエリザが落ち着いてきたらしいと判断したのか、部屋を出て行こうとした。そして、一瞬何かを考えこんでから、ちらりと振り返った。
「……サリサ・メル様は、私を捨て去った名前で呼んでいましたわ。つまり、フィニエルと」
「フィニエル?」
「そうお呼びになっていただいてもけっこうです。ただし、二人きりの時だけですが」
フィニエルの表情は変わらない。が、名前を聞いた瞬間、エリザの中で、はじめてこの仕え人が鮮やかな存在感を持つこととなった。
「フィニエル、ありがとう……」
返事はなかった。でも、部屋を出る一瞬、彼女が微笑んでくれたような気がする。
ひとりになって、エリザは大きく息をついた。
でも、それは自分の中に注がれてあふれそうなくらいの希望のためだった。
香り袋を軽くもみほぐして、鼻の上にちょこんと乗せてみた。何となく、幸せだった。
甘い吐息が鼻から漏れた。
不安と期待で気が遠くなりそうな行為は、なんだか無機質でよくわからなかった。ただ、物になってしまって、扱われたような、心が石になってしまったような。
それが心地よいというのは、妄想なのだろうか? それとも、これから感じるようになるのだろうか? そう思いながらも、細い指先が胸に触れた時の痛みを思い出して、ぴくりと反応する。その部分が熱を持ってじんとしてくる。
壊されて、再び繕い合わされたような感覚。
寝返りを打つと、体の節々が痛い。湯あたりとは別のだるさを感じる。
特に足だ。ちゃんと歩ける自信がない。でも、ベッドの横に何となく自分ではない人のぬくもりがあって、エリザはそちらに身を預けた。
愛が妄想……だなんて思えない。愛されている――そう思った。
あの髪を撫でてくれた手が、抱きしめてくれた腕が、狂おしいほどに愛しくて切ない。
ずっとすがっていたかった。同じように、ベッドに残されたぬくもりにもすがる。
そして、フィニエルの言葉を突然思い出して、目を見開いた。
添い寝をしてくれて、しかも子守唄?
どのような顔で、あの人に会えばいいのだろう? どのような……。
心配は尽きない。でも、早く明日になればと思う。
ありがとう、私は元気です、と早く伝えたい。早く会いたい。
エリザはだるい足を軽く持ち上げてみた。
――だから……。
明日はちゃんと歩かなくちゃ。
=巫女姫の仕え人/終わり=
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