巫女姫の仕え人・6

 黒い部屋。八角の部屋。その中央に、エリザは座して相手を待つ。

 湯あたりしたせいか、体がだるく、力が入らない。しかし、心臓だけはどくどくと音を立てている。

 エリザは思わず仕え人から受け取った小瓶を握りしめていた。

 先ほどまで、投げ出したいほど卑しく感じた物体だった。しかし、今となってはそれしか掴む物もなく、何かを持っていなければ自分を保てそうにない。

 エリザの仕え人はちょうど背後に座していて、何をしているのかはわからない。彼女はその冷たい銀の目で、エリザのすべてを観察しつづけるのだ。

 今、エリザの体を縛っているものは暗示ではなかった。仕え人たちの冷たい瞳。エリザが巫女としての責務をはたすかどうかを見定めようとする目だ。

 エリザは必死になって香り苔の洞窟で出会った少年の顔を思い浮かべた。

 これから会う人は、その人なのだ……。かすかな期待と大きな不安。日々思い浮かべた最高神官の微笑を、もう一度見ることができる。だから……大丈夫。そう言い聞かせた。

 しかし、エリザの覚悟が定まらぬうちに、部屋の扉がゆっくりと開いた。

 最高神官は、意外と早くに訪れたのである。


 前回の絞め殺されるような長い時間を憶えていたエリザにとって、彼の登場はあまりにも早すぎた。体が震えて、歯がガチガチと音を立てる。

 あの日と同じように仕え人から灯りを受け取り、同じように歩み寄る。その瞳に香り苔を摘んだ日の面影をさがそうとして、エリザは近寄ってくる人を見つめつづけていた。だが、そこには冷えた銀の瞳があるだけだった。

 心臓が凍りつきそうになる。

 最高神官の顔は、人形師が極めた腕で作り上げた美しさ。そこに血の温かさは感じない。銀の瞳と床につく長さの髪。無情な薄い唇。最高神官として、日に月に祈ることだけに捧げた命に甘さはなく、厳粛に使命をはたそうとする者の顔だった。

 エリザが想い、日々焦がれた少年の姿はない。優しさの欠片も感じない。

 私が想いつづけてきたものは、いったい何だったのだろう? そんな疑問が噴出して、エリザはすっかり動転してしまった。

 勝手に作り上げてきた偶像と本物の隔たりは大きかった。

 ――愛など妄想にすぎません。

 背後から声が聞こえたような気がした。

 それでもエリザは微笑もうとした。そうしたら、微笑み返してもらえるかもしれない。優しい言葉をかけてもらえるかもしれない。

 だが、エリザはついに微笑むことはなかった。

 目の前の男に、あの日の少年の面影を見つけることが、どうしてもできない。


 一瞬、最高神官は立ち止まり、仕え人たちの顔を見回した。

 最高神官と仕え人たちの間で何らかの決め事がなされていたのだろう、彼らは互いに顔を見合わせ、そして立ち上がると、しずしずと入り口に向かった。最後の一人が――彼はエリザの前の仕え人だったが――最高神官に向かい、お辞儀した。

「一刻の後、また参ります」

「朝まで不要です」

 その言葉に仕え人たちはざわついた。エリザも驚いて目を見開いた。

 それでも最高神官に逆らうこともなく、仕え人たちは全員部屋を出て行った。彼らの銀の目は、最後にエリザを睨みつけたように見えた。

 最後の一瞥が消えた後、エリザは少しだけ楽になったように感じた。

 やはり、最高神官はあの人なのだ。仕え人のいいなりにはなりたくないと言ったあの人。


 最高神官は灯りを床に置いた。

 蝋燭の光がゆらゆらと揺らめく。

 とたんにエリザは、再び現実に戻された。蝋燭に照らされた人の顔は、あの柔らかな陽光に照らされたあどけない顔とは違う。まったく別人に見えて、エリザは再び小瓶を握りしめた。

 かつてエリザに薬草の見分け方を教えてくれた、その指先が伸びてくる。

 震える唇にそっと触れる。まるでその微動を抑えるかのように、人差し指が、そして中指がふれ、頬に移動してゆく。

 手の平が頬を包んだのは本当に自然な動きだった。

 しかし、エリザは驚いて跳ね上がった。勢いで握っていた小瓶がするりと指の間から滑ってしまった。

 床に落ちた小瓶は、部屋中に響き渡る綺麗な音を立てて弾んだ。エリザは思わず神官から目を外し、小瓶の行く先へと視線を走らせた。

 小瓶がそんなに大切なものだとは思えない。なのになぜ、それを追わなければならないのか、エリザにもわからなかった。ただ、それを手放してはいけないと感じた。硝子の煌きだけが、エリザのすがるものであり、逃げ場所であり、唯一、自分の同志であるかのように思われた。

 小瓶はころころと輪を書くように転がって、エリザはそれを追いかけようと振り返り、手を伸ばした。

 指先まであとわずかなところを、瓶はすり抜けて壁まで達した。

 よじった身に片腕が絡みつき、瓶を追うことを押しとどめていた。伸ばされた指先に別の指先が重なった。

 首筋に暖かな息がかかる。エリザは思わず目を閉じた。

 絹のローブがさらりと落ち、代わりに最高神官の銀糸の髪がエリザの体を覆い隠していた。

 小瓶が壁にあたり、カラカラと揺れ、やがてその動きを止める頃、エリザは黒い床に吸い込まれるように横たわっていた。


 どのくらい時間がたったのかわからない。

 エリザにはあまり記憶がない。

 しかし、今感じるのは、たった一人暗闇に放り出されたということだった。

 それもそのはず、二人を照らしつづけた蝋燭の炎はすでに消えはて、本当に暗闇だったから。

 その行為の間、エリザは一度も目を開けなかった。

 唇が触れ合ったとき、甘く感じたのはおぼえている。柔らかい感覚が、まだしこりの残る硬い乳房に達したとき、かすかに声をあげ、恥ずかしくなって両手で顔を抑えた。

 仕え人が渡してくれた小瓶は、結局壁の前に留まったままだった。

 彼女の言った通り、エリザの体ははじめての行為を激しく拒絶した。湯あたりのせいでだるく、余計な力など入らなかったのだが、それでも体は強情だった。甘いささやきも懇願もなく、ただ押し入ろうとする行為に、意志とは無関係に体は抵抗した。

 愛はなかった。何の感慨もなかった。空虚だった。快感だったのか、苦痛だったのか、それすらもわからない。

 ただ、切なかった。

 気が付いたら泣いていた。それも、子供のように声をあげて……。

 暗さに慣れてきた瞳に、最高神官の影がかすかによぎった。彼は何も言わず、そっと手を伸ばすと、エリザを抱き寄せた。エリザは逃げることもなく、彼の腕の中、胸にすがって泣き続けた。何度も嗚咽しながら、小さくなって無我夢中で泣いた。

 その度に優しい手が髪を梳く。暗闇の中、ここだけが暖かい場所に感じた。

 まるでむさぼりつくように、エリザは体を寄せていた。


 ――暗いのも虚しいのも嫌。

 もっと温かい何かで、自分を埋め尽くしてほしい。


 その行為の間も、もしかしたら何度か彼の胸にすがり、その背に手を回したような気がする。銀糸の髪に、何度も指を絡ませたかもしれない。

 でも、まるで夢のようにあやふやでわからない。

 ただ言えるのは……声をあげて泣きつづけている今が、空虚で寂しいと感じつつ、包み込んでくれる腕を心地よく思うことだ。

 優しい歌声が聞こえる……。

 おそらく、体を交わらせている時よりも強く、彼を感じている。

 まったくの矛盾だった。

 ぬくもりの心地よさを存分に味わいながら、エリザは切なさに泣いていた。

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