真田くんの話

@azumin

真田くんの話

 一九九九年、十月の終わり。目を焼くような赤い夕焼けをよく覚えている。

 その日僕は帰途に着いてから些細な忘れ物に気がついて教室へ戻った。校舎にはまばらに人が残っていた。高校三年生の秋だった。急ぎ足で階段を登り、重たいカバンを背負い直して三年四組の引き戸を開けると、窓際に立っていた真田くんがこちらを振り返って、目があった。重たげな前髪が夕日に照らされて蜜色に光っていた。おう、と曖昧な挨拶をして、意味もなく目をそらさずにいた。真田くんが何か言うのを待っていた。

「幽霊見に来たの?」と、真田くんがポツリと言った。幽霊?と聞き返すとまたつぶやくように話し始めた。

「ほら、柿崎さんが、騒いでたでしょ。幽霊見たって。」

そう言われてやっと思い出した。隣のクラスの柿崎という女の子が、夕方の校舎で男子生徒の幽霊を見たと言って触れ回っていた。柿崎さんは、ちょっと変わった女の子で、だいたいいつも月の世界とか、霊界とか、そういう話をしていた。幽霊を見たと騒ぎ出すのは、入学してから三回目だった。

「ああ、違うよ、忘れ物。」とぎこちなく答えた。そうか、と答える真田くんは、ほんの少し落胆した様子だった。

「そういう話、好きなの?」となんの気なしに聞いて見た。

「そういう話が好きな人が好きなんだ。」

「それって、つまり、柿崎さんみたいな人が好きってこと?」

「そう。」

真田くんは小さく、しかしはっきりと頷いた。変わってるな、と思った。



 真田くんは不思議なほど目立たない人だった。どこへいても背景のようにその場へ馴染んでいた。人と話している姿はよく見るが特別親しい友人はいないようで、誰も彼を特別気に留めず嫌いもしなかった。僕にはそれが不思議だった。勉強も運動も特別に秀でているわけではなく、背格好も普通だけれど、ときどき百年も生きたような目をするのを僕は見た。あの目。薄く引き結ばれた唇。

 授業中、斜め後ろの席から僕はときどきその姿を盗み見ていた。少し丸まった背中と、癖のある髪の毛。黒板の方を見ながら、何か授業の内容とは全く別のことを考えているような顔をしていた。僕にはそう見えた。

 何度か目があって、その度に彼がほんの一瞬楽しそうな顔をするのが(それは僕の思い込みかもしれないが)少し嬉しかった。

 真田くんについて詳しいことは何も知らない。話したことはなかった。なんとなく、普段友達と話すときのように彼に話しかけるのは憚られた。何か特別な機会が必要だった。



「幽霊っていると思う?」真田くんは独り言のように言った。

僕は戸惑うと同時にどこかがっかりしていた。ありきたりな質問だと思った。

「見てみたいなと思うよ。いたら面白いだろうな。」

真田くんが真っ直ぐ僕を見ている。何か試されているような、見透かされているような気になって居心地が悪い。

「でも壁のシミが人の顔に見えたとか、そういうのを大げさに言ってるだけだろ。何か、つまんない現実と違うものがあって欲しいとか、嫌なことの原因は幽霊だってことにしたいとかさ、そういうことのために幽霊見たなんていうんじゃないの。何もかもうまく言ってたら柿崎さんだってあんなこと言わないでしょ。」と、我ながら少し意地の悪い口調で付け足した。

 そういうものかな、と言いながら真田くんは窓を開けた。歪んだアルミサッシがガタガタ音を立てた。冷たい空気と一緒に金木犀の甘い匂いが流れてきて僕の鼻をくすぐった。

 窓の外は一面燃えるような赤だった。低い太陽が空と街とを染め上げていた。強い西日が真田くんの頬に触れて小麦色に煌めいている。彼は少しの間黙って窓の外の、どこか遠くをボンヤリと見つめていた。僕は黙って真田くんを見ていた。

「壁のシミが人の顔に見えることがあるなら、その逆もあると思わないか。」

 真田くんははっきり僕に問いかけた。また試すような目をしている。

「俺はただの壁のシミかもしれないよ。」真田くんは少し可笑しそうに言った。

 からかわれているのだと思って、何か言い返そうとしたが言葉に詰まった。真田くんの目の奥がどこか虚しい感じがした。何かを言わなければいけない気がした。

「だとしたら、随分綺麗なシミだなあ。」できるだけなんでもないように返事をした。言ってから少し恥ずかしくなった。冗談で返したつもりだったけれど、あまりうまくはなかった。綺麗という言葉が自分の口から出たことに驚いて心臓が小さく跳ねた。

 不器用な時間が流れて、それから真田くんが静かに笑った。というより、笑い損ねたような顔をした。僕と同じ十八歳の顔をしていた。



 小さなの頃の話。六歳かそこらだったと思う。母に連れられて遊園地へ行った。今思えば大した遊園地じゃなかったけれど、その時は僕にとって世界で一番楽しくて危険な場所だった。

 入場口から入ってすぐの広場には背の低いピエロがいて、細長い風船を器用に操っては犬や蟹の形に捻りあげていた。ピエロの周りには自分とそう変わらない背丈の子供が数人集まって風船をねだっていたが僕は近づかなかった。母は僕が恥ずかしがっているのだと思ったらしくほらピエロさんいるよと手を引いた。僕は頑なに動かなかった。なんであんな恐ろしいものに嬉しそうに走り寄っていくのかわからなかった。お母さんは騙されているのではないか、僕だけ違うものを見ているのではないかと思った。



「マダニってダニの仲間には、視覚も聴覚もないんだって。何も見えないし何も聞こえないんだよ。」

 真田君は唐突にそう切り出した。

「じゃあどうやって生きてるのかって、ずっと木の上で動物が通りかかるのを待ってるんだよ。匂いと温度だけで獲物を感じ取ってその体に着地する。それからどうにか毛のない皮膚までたどり着いて、血を吸うんだ。」真田君の声にかすかな熱がこもった。

「どんな気分だろう。」と僕は言った。

「匂いと暑さ冷たさ、それから触った感覚があるだけなんだ。マダニにとっては。」

真田君がなぜいきなりそんな話をしたかわからなかったが、その口調はさっきまでの磨りガラスを隔てたような調子とは違っていた。

「人間とは違う世界で生きてるんだな。」

 分厚い雲が夕日を遮って街と僕らに影を落とした。少し冷たくなった教室で二人ともコーヒーをかき回すみたいに考えを巡らせていた。

「人もそれぞれ違う世界で生きている。」それはどちらが言ったのだったか今でははっきりと思い出せない。

「人間の可聴域はおおよそ二十ヘルツから二万ヘルツと言われているけれど、もともと個人差がある上に歳をとれば聞こえる範囲は狭くなってゆく。なんだってそうさ。個人の感覚によって違うひとりぶんの世界で生きているんだね。」

「おんなじものを見てるからって、同じものが見えてるとは限らないんだな。」僕はわかったようなわからないような、曖昧な気分でそう言った。なんとなくカバンの持ち手を弄びながら真田くんの頭の中をおぼろげに思い描いた。

「私は大理石の中に天使を見出し、彼を解放するまで石を掘り続けた。」急に少し芝居掛かった調子で真田くんは言った。

「ミケランジェロの台詞?」

「知ってたか。」

「美術は好きだよ。」

「ね、これってさ、ミケランジェロは本物の天使を見たんじゃないかと思うんだよ。」

 真田くんは真剣にそう言っているらしかった。彼の目はこちらに向いていたけれど僕ではないどこかを見ているようだった。

「想像力の話だろ、それは。」

「天使は居たんだよ。普通の人間の認識域の外にさ。それをミケランジェロみたいな人間だけが感じ取れたとは考えられないか?」

 ヒュウと音を立てて秋風が教室を横切った。窓の外で木の葉が鳴るのが聴こえた。

 真田くんの顔は幼いようにも、老人のようにも見えた。



 絵を描くのが好きだった。小さい頃は、全く想像上の化け物や、好きなものをめちゃくちゃに画用紙に書きなぐっていた。大きくなるにつれて自分の絵を人に見せるのが恥ずかしくなっていった。上手くないと恥ずかしいと思っていたのかもしれないし、頭の中を見せるのが嫌だったのかもしれない。特別上手いわけじゃないけれど、少し暇な時間があるとノートの余白に何か描き込む癖があった。授業中、右斜め前。机に肘をついてほんの少し身を乗り出す同級生の姿を描いた。なぜだか悪いことをしている気分になった。



ミケランジェロや壁のシミや柿崎さんのことをのろのろ考えながらほんの数秒か、あるいは数十秒か、僕は真田くんを見ていた。不思議な顔だと思った。

「これ忘れただろ。」

 あっ、と声が出た。差し出されたノートは僕が教室の机の上に忘れたものだった。

「ごめんね、ちょっと中身見ちゃったよ。いい絵だね。」

 真田くんは意地悪そうに笑った。僕は顔が熱くなるのを感じて慌てて目をそらした。



 真田くんの顔、問いかけるような目、十八歳の少年の声。それは確かに一九九九年、十月の終わりのことだった。二十年近く経った今でも彼のことはよく覚えている。あの夕日の鮮烈な色を覚えている。アルバムを見返しても彼の姿はなく、同級生に尋ねても彼のことを覚えているものはいなかった。ただ確かに真田くんはあの教室にいた。そのことを覚えているのが、ノートの隅の落書きと、それから僕だけだというのも、寂しいような、嬉しいような、思い出すたびに不思議な思いで胸が満たされてくる。


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