第三十話
* * *
廊下に軽やかな足音が近づいてくるのを聞いて、
こぢんまりとした書斎の雑然と積まれた本の頂に、その読みさしの一冊を重ねたところで、障子越しに声がかかる。
「長南さま、お茶を淹れました。一服なさいませんか?」
「千代か。ああ、いただこうか」
障子を開けて現れた着物姿の女を見て、長南はつと目を細めた。
娘の時分にふっくらとしていた頬はやせ、しかし黒目がちな瞳に娘時代からの純真な気性をそのまま残して、今では一女の母となっているこの養女に、ふと十代の頃の姿が重なって見えた。
それは今目の前にいる女の幼い頃かもしれないし、彼女の娘の姿かもしれなかった。
どちらとわからないほど、養父である長南の目から見ても似ているのだ、この千代と、娘の夢は。
「お参りに行ってきましたときに、宮司さまから干し柿をいただきました。
お茶請けに召し上がってください」
あたたかな湯飲みと干し柿ののった小皿が差し出される。
長南は湯飲みを手に取り、一口すすって、ほっと息をついてから千代に尋ねた。
「また今日も、神社に参っていたのかい」
「ええ、夢が無事にお使いを果たしていますようにと」
そう答えて、千代は柔らかく微笑んだ。
良心の呵責。
この十五年、こらえてきたその胸のきしみが、千代が笑みを浮かべる度に長南を密かに苦しめてきたそれが、今もまた長南の心に痛みをもたらす。
千代は何も知らない。
まるで人を疑うことを知らないこの養女は、長南が隠し事を持っていることなど考えたこともないだろう。
そして、自分の娘が横浜に一人出かけている本当の理由も、想像だにしていないだろう。
夢が単身、
千代はウィリアム・バースが日本に来ていることすら知らない。
横浜に住んでいる知人が病床にいるのだが、看病する人間がいなくて苦労しているらしい。
見舞いもかねて、夢を一週間ほど看病人として行かせてやりたい。
そんな下手な嘘を、千代は頭から信じ込んで娘を送り出したのだ。
十五年前に、同じような嘘で長南は、千代をあの英吉利人の家から遠ざけたというのに。
――父は本当に日本に帰ってくるのでしょうか?
夢はいつか長南に向かってそう言った。
千代はバースの帰国を疑いもなく信じていた。
夢も、母の言葉を無垢な心で聞いていた。
しかし、成長するにつれ、夢の方が次第に現実的になっていった。
――母がかわいそうです。
その言葉は、自分の父親である男への怒りでもあり、優柔不断な長南への批難でもあった。
負い目があった。
夢は、母が外国人にだまされたのだと信じ込んでいた。
高慢な外国人が、無知な日本の小娘をひとときの遊び相手に選んだだけなのだと。
そこに一片の愛情も真心もなかったのだと。
そうではないのだと、知っていたのは長南だけだった。
夢が知らずに父親を憎んでいくのが哀れで、長南はずっと隠し持っていたバースの手紙を夢に見せたのだった。
つたない日本語でつづられた千代に宛てた手紙。
長南が出航直前のバースから託され、そして渡すことをしなかった手紙。
バースからの真実の想いが書きとめられた手紙。
その手紙を夢はくり返し読んだ。
そして、長南に言ったのだ。
――父に会いに行きます。
もし、父が今もこの手紙を書いたときのままの父なら、私は母と会わせたい。
もしそうでなければ、私は父をいないものと思うことにします。
夢と千代はそんなところもよく似ている。
長南は感嘆するような気持ちでそう思った。
大人しい娘に見えて、何か思い込むと意外なほどの行動力を示してみせる。
それとも、年頃の娘というのは皆そうしたものなのだろうか。
――
モートン教授がそう言って笑ったときの威圧感は、決して長南の気のせいではなかっただろう。
壊れやすいもの、間違いを犯しやすいものが、道を誤らないよう修正してやるのは親の義務だと、モートンは長南に圧をかけてきたのだった。
モートンの言ったことは正しい。
しかし、それだけだろうか。
長南は今でも迷っているのだった。
娘は物ではない。
その感情を無視して千代とバースを引き離したのは、果たして親の義務の範疇だったのか。
道を誤らせないためと言いながら、そのためにしたことが別のものを壊してしまうとは考えられなかったか。
壊れやすい器は、心のことではなかったか。
長南の迷いは、悔恨でもあった。
今の千代の姿を見、夢の態度を見て、自分自身を省みるに、胸に浮かぶのは後悔ばかりだ。
娘だけではない、親も大人も誤りを犯すのだから。
文机の上にことりと湯飲みを置いて、長南はしかし、千代に向かって考えていたこととはまったく別のことを言った。
「どうしたね、いいことでもあったみたいだ」
窓の外へと視線を向けていた千代の横顔が、何となく微笑んでいるように見えたので、長南はそう聞いたのだった。
すると、千代ははにかんだような顔をして、
「はい、神社でおみくじを引いてみましたら、いいことが書いてありましたから」
「ほう、何と?」
「待ち人来たる、と」
そう言って、千代は笑った。
母親の顔をして、けれどときどき、こうして少女のように笑ってみせる。
今日はなぜか、その千代の笑顔が素直に胸に落ち着いた。
「そうか」
千代につられて、長南も笑った。
二人でそろって窓の外を見やる。
黒々とした松の木と青い生け垣の向こう、細く延びる田舎道を歩く者は見えない。
しかし。
「千代がそう言うなら、きっと間もなく帰るのだろう」
長南は心からそう言った。
了
千代の夢 宮条 優樹 @ym-2015
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