第九計 送別会は、勢に求めて人にもとめず
その日の仕事帰り、夕方六時半。
玄徳とシボーさんは、東口の繁華街にいた。
六十階通りの途中にあるビルの一階。レンガ壁がちょっとお洒落なお店『ミュンヘン館』の木製ドアを開いて、中に入る。ここは玄徳がネットで検索してみつけた店。五十人以上の宴会を開ける店となると、数が限られてくる。駅からの距離、店との距離、値段などを考慮して、この『ミュンヘン館』が選ばれたのだが、シボーさんはネットでの予約ではなく、直接店に行っての予約を主張した。
玄徳としては、人数をころころ変えなくてはならないかも知れない負い目をすでに感じてしまっていて、お店に直接顔を出すのは避けたかったが、シボーさんは店内の様子を見たいと譲らなかった。
木製ドアを開けると、すぐに五段の階段。その上がフロア。レジもそこにあった。
時間が早く、店内はほぼ無人。対応に出て来た黒い蝶ネクタイの店員さんに、玄徳は宴会の予約の旨を伝えた。
店員は気さくな調子でレジから大きな台帳を出して、日付を確認し「だいじょうぶですよ」と、にっこり笑う。
「26日水曜日、45名様、お時間は18時からでよろしいですね」
「はい」玄徳はうなずく。「あと、人数がもしかしたら二十人くらい……痛い!」
膝裏を蹴られて玄徳は悲鳴を上げた。
「はい?」おどろく店員さん。
「なんでもありませーん」
横で玄徳を蹴ったシボーさんは、にっこりと笑う。
「人数の変更は前日まで大丈夫ですよね」
「ええ」店員さんは怪訝な顔で玄徳とシボーさんを見比べる。「変更になりそうですか?」
「だいじょうぶでしょう」
シボーさんは断言する。
「もし変更があったら事前に連絡しますので」
「お願いします。あと、コースは2500円のお料理に1000円の飲み放題でよろしいでしょうか?」
「ひとり3500円ですね。はい、それで」
シボーさんはちらりと玄徳に目配せして、店員にうなずく。
予約は成立。内金は一万円取られ、それは玄徳が払った。
店内奥の一角が50人入るスペースなので、そこになるという店員の説明を受けた玄徳とシボーさんは、『ミュンヘン館』を後にする。
「人数が変更になるかもれしないこと、事前にお店に伝えておいた方が良かったんじゃないですか?」
そとに出た玄徳は一番にそのことをたずねた。
「予約した段階で、まだ人数が分からないといえば、向こうも不安になるだろう。そのリスクは店と共有するものではなく、あくまであたしたちが負うものだ。ちらりと数えたが、あの奥のフロアが50人だろ。そこに手前のフロアにあるテーブル席を合わせれば、全体で80人までは受け入れ可能だ。26日の前日までに、あきらかに人数が増えるようなら、座席確保の意味で人数変更を申し込めばいい。逆に40人以下になる可能性もあるんだからな」
「でも、確率低いですけど、参加未定の人が全員来ちゃう可能性もあるんですよね」
「いくらなんでも、全員くることはないと思うが、そのときはもう参加を断ろう。それに、当日ドタキャンしてくるやつだっているだろうしな」
当日ドタキャンと言われると、ちょっとドキっとする。前回南雲さんが開いた送別会、玄徳はまさにそのドタキャンをしていたからだ。
「と、とにかく、参加予定のみんなには会場が決まったことを伝えます。休憩室に吊るしてあるボードに記入して、外部の人間にはぼくから連絡しておきますよ」
「頼んだ。連絡漏れのないよう、ちゃんとチェックしながらやれよ」シボーさんは、そこでふっと微笑んだ。「とにかく、お疲れ。これでひと段落だ。今はもう、送別会の開催は、お前とあたしの二人だけの企画ではなくなっている。勢いがついて動き出している。孫子の『勢に求めて、人に
そういうとシボーさんはくるりと背中を向けて去って行った。
案外ドライである。
玄徳も今日はこのまま帰ることにする。
なんか店の予約をとったことで、すこし安心してしまった。あとは成るように成れである。
それからの何日間かは、とくに玄徳もシボーさんも動くことはなかった。
ただちょっとした事件がふたつあった。
ひとつは南雲さんが勤務最終日を迎えたこと。何年もこの店で働いてきたのに、最後の日はあっさりしたものだった。もっとも、派手なさようならは、送別会の日にやればいい。
もうひとつの事件は、大公堂書店に、新人のバイトで、宮園零花がやってきたことであった。
彼女はびっくりするほどの美人で、色が白く、胸が大きかった。美しく整った童顔と、ぱっちり大きな目は長い睫毛でふちどられている。ちょっと不機嫌そうな表情も、人目を惹いた。
現在二十一歳。大学には行っていないらしい。
なんでも何かの芸能活動をしているらしく、バイトで入るシフトが不定期になるらしい。仕事の関係上、毎週何曜日に出勤して、確実に朝から夕方まで入る、という働き方ができないそうだ。
所属は1レジ。まずはレジ打ちから覚えてもらおうということで、その日勤務最終日を迎える南雲さんが、一通りの業務を教えていた。いつも新人バイトに仕事を教えていた南雲さんの、最後の指導ということになる。
で、売り場はというと、ちょっとビックリするくらいの美少女が入ってきたものだから、変な緊張感が支配している。
男子たちは息を呑むようにして遠巻きに彼女の姿を追い、女子たちは何かを警戒するように距離を置いていた。
が、宮園零花はまったく物おじすることなく、淡々と職務を遂行し、ときおりちらりと笑顔を見せていた。ただしそれは、ときおり、である。笑顔の安売りはしないとばかりに、あまり笑わなかった。
とはいえ、宮園零花が性格の悪い娘であるわけでもなく、どちらかというと感じの良い女性てあったため、三日もするとみんなとはそこそこ打ち解けていった。
そしてすでに、「彼女良いよ」と陰で騒いでいる男子が二人ほどいた。オータニくんと島崎くんで、この二人は結構まじめに宮園零花を狙っている風だった。
休憩室で玄徳が見た限りでは、しかし、オータニくんも島崎くんも、彼女に積極的に話しかけられている様子はなく、どちらかというと大道寺さんがあれこれと話しかけて、世話を焼いている様子。今日の昼も、接客についてあれやこれやと語っており、しかし大道寺さんが宮園零花を狙っている、という感じではなかった。
シボーさんに言わせると、「大道寺のあれは、宮園の人気に乗っかって自分の株をあげようという、それだな」ということらしい。
「なんだかなー」と、シボーさんはシニカルな笑顔で語っていたが、玄徳には意味が分からなかった。
だが、宮園零花が休んだりすると、とたんに大道寺さんはオータニくんや島崎くんを捕まえて、「零花ちゃんはさぁ」と彼女の情報を開示しはじめる。そして、もののついでみたいに、玄徳にも宮園零花のことを話し始めたりする。
「なんでも宇都宮出身らしいよ。地元の人が通うギョウザのおいしい店をおしえてもらったよ」
しかもその店の名前は教えてくれない。玄徳にとっては、ほぼ価値のない情報だった。
「宮園さんって」玄徳が大道寺さんに尋ねたのは、別に興味があったからではなかった。ただ、話の接ぎ穂というやつである。「どんな芸能活動してるんですか? やっぱ女優かなんかなんですかね?」
「いや、それは絶対言わないんだよ」
そう。宮薗零花は、芸能活動をしているらしいが、その内容については一切語らなかった。どうやら芸名を使っているらしいが、当然それも秘密。彼女の芸能人としてのプロフィールは謎につつまれていた。
彼女がテレビに出ていたとか、雑誌に出ていたとかいう話も聞かない。
だが、彼女は、芸能活動と称して、ときどきバイトを休んでいた。
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