第四計 アラサーは、己を知る者のために軍師となる



「え、ほんとですか?」

 玄徳はぱっと顔をあげた。思わず声が弾んでしまう。


「ああ。だが、勘違いするなよ。おまえのインチキな『三顧の礼』に感動したからじゃないぞ。これは、『サムライはオノレを知る者のために死す』からだ」


「……はあ」

 なんか武士道の話になってしまったようだ。


「おまえ、予譲よじょうの故事は知っているか?」


「いえ」


「予譲は中国の戦国春秋時代の武将だ。彼は晋の智伯ちはくに仕えた。だが、その智伯は趙襄子ちょうじょうしによって滅ぼされてしまう。予譲は智伯の仇を討つため、何度も趙襄子の命を狙うのだ」


「はあ、義に厚いんですね」


「そうだ。趙襄子の命を狙って捉えられた予譲に、趙襄子は尋ねる。『おまえがもともと仕えていた主君は、そもそも智伯に討たれのではないか? もともとの主君の仇は討たずに、そればかりか智伯に仕官したくせして、わたしが智伯を討ったときは、なぜそうまでしてわたしの命を狙うのか?』と」


「はあ」


「そのときの予譲の答えがこれだ。『士は己を知る者のために死す』。『もともとの主君はわたしを人並みに扱った。が、智伯さまはわたしを国士として扱ってくださった。だから、わたしは国士としてこれに報い、その仇を討とうとするのだ』とな」


「はあ」玄徳にはちょっと難しい話だった。


「南雲は」シボーさんは、眼鏡の奥の目をちょっとやさしくした。「あたしのことをバイトとはいえ、軍師として認めてくれていた。だから、南雲の送別会をお前が開きたいというのなら、あたしはそれに軍師として力を貸そう。決しておまえのためではないからな」


「はあ……。あ、でも、ありがとうございます」玄徳は九十度に礼をした。「助かります。ほんと助かります。これで、南雲さんの送別会が開けます」


「大げさだ」

 シボーさんは、台帳を抱えると立ち上がった。

「今日はもうみんな帰っちまったから、さっそく明日から始めよう。朝いちで会議な、幹事」

 背中までの長い髪を揺らして休憩室を出て行こうとするその背中に、玄徳はもう一度頭をさげた。

「よろしくお願いします、軍師」


 シボーさんは、応じるように片手をあげて出て行った。


 玄徳は、ほっと息をついた。

 これでなんとか、南雲さんの送別会が開けそうだった。





 翌朝。


 玄徳が出勤すると、筒井さんが嬉しそうに声を掛けてきた。

「おはよう、松山くん。南雲さんの送別会やるんだね。あたし絶対いくから。幹事がんばってね」

「ああ、任せてよ」玄徳は満足げに右手をあげる。「日付が決まったら、連絡するからさ」

 筒井さんのあんな嬉しそうな顔を見れて良かった。

 玄徳は意気揚々と、ロッカーにカバンとジャケットを放り込み、いつものオレンジのエプロンをつける。そこへオータニくんがやってきて、やはり送別会のことで声を掛けてくる。


「南雲さんの送別会の幹事やるんだってね。で、昔いた田沢さんって人が是非南雲さんの送別会に出たいっていってんだけど、呼んでもいいよね」


「もちろん。日付とか場所とか決まったら教えるから、連絡してあげてよ。それに、シボーさんも手伝ってくれるっていうから、安心して」


「へー、そうなんだ。意外だねー」


 なんか玄徳は自分がヒーローになったみたいで気分が良かった。


 まあ、実際は玄徳一人が幹事をやるわけではなく、シボーさんも手伝ってくれるから、実質二人。というより、ほとんどシボーさんに任せてしまって問題ないだろう。後輩バイトの自分がやるより、十年近くここでバイトしているという妖怪的なシボーさんが号令をかければ、逆らうバイトはおるまい。素直に従って送別会の会場に集まってくれるはずだ。

 玄徳は大船に乗った気分でいた。


 自販機で買ってきた缶コーヒーを手に、玄徳は朝の一服を決めるため、休憩室に向かう。朝礼まであと十五分ほどだから、あまり時間があるとは言えないが、コーヒー一杯程度の余裕は作れる。

 と、休憩室の中から出て来た大道寺さんが玄徳の顔を見て、にやりと笑った。


「送別会幹事やるんだってね。お手並み拝見するよ」

 上から目線で言われてしまった。

 なにを言っているんだ。あんたのせいでプレゼントの企画は潰れたんだぞ!と玄徳は心の中で反発するが、口には出さない。


「ええ、任せてくださいよ」

 当然シボーさんは大道寺さんより先輩だから、彼も従わざるを得まい。


 と一人納得しつつ休憩室に入った玄徳は、ふと疑問に思った。


 ──なんで、みんな、ぼくが幹事をすることを知っているんだろう? だれかが連絡網でも回したのか?


 首を捻りながら、缶コーヒーをすすると、彼は壁に貼られた一枚の白い紙を見つける。


 レポート用紙サイズ。B5版。B6版の倍のサイズ。青年コミックの倍の大きさ。


 壁にテープで貼られた紙には、黒いマーカーで太ぶとと、案外可愛い文字でこう書かれていた。


『南雲さんの送別会を開きます。みなさん、こぞって参加ください。幹事はぼく、松山玄徳です!』


「ぶっ」

 コーヒーを吹いた。


 慌てて口を拭いながら立ち上がり、壁の貼り紙に飛びつく。


「な、な、な、なんじゃこりゃー!」


「ふっふっふっふっふっふ」

 背後で悪魔が喉を鳴らしている。

 はっと振り返ると、黒縁メガネの奥からサディスティックな目で玄徳のことを見下ろしているシボーさんの姿。


「シボーさん、あの、これ、一体」


「おまえのことだから、幹事の仕事をていよくあたしに押しつけてしまおうと考えているだろうと思ってな。先手を打たせてもらった。ふふふふふ、おまえ『兵法三十六計』というものを知っているか?」


「は? あの、三十六計逃げるが勝ちの、三十六計ですか?」


「そうだ。これは、その『兵法三十六計』が第二十八計『上屋抽悌じょうおくちゅうてい』というやつだ。屋根に上げて梯子を外す。玄徳、これでもう逃げられないぞ。観念して、大人しく幹事をやれい」


「そんなー、シボーさん、ご無体なー」

 玄徳はがっくりとくくずおれる。


「あっはっはっはっは」シボーさんは、ニカっと歯を剥いてひとしきり笑うと、ちょいと角度を変えて天使の微笑みを送ってきた。「がんばってね、玄徳くん」

 可愛らしい声と笑顔を向けてくる。

「ちなみにこれが」満面の笑みを湛えて、口だけ腹話術で動かす。「『兵法三十六計』の第十計『笑裏蔵刀しょうりぞうとう』。笑いの裏に刀を隠す、だ」


 玄徳は床に這いつくばりながら、嬉しそうに笑うシボーさんを見上げて、いまやっと気づいたのだった。


 ──ぼくは、どうやら、とんでもない人を軍師に迎えてしまったらしい。



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