第二計 もっとも安易な作戦



 軍師とは。

 ──指揮官につき従い、軍事に対する計画を立て、作戦を考える者。

 のちほど辞書で調べると、そう書いてあった。作戦参謀のことであるらしい。


 いままで、ずっと、「軍師」と相撲の「行司」を混同していた。くそー、そうだったのか。

 変だと思ったんだ。



 玄徳の名前の由来は『三国志』の英雄・劉備りゅうび玄徳げんとく。この劉備には有名な逸話があって、彼は若く無名な諸葛しょかつ孔明こうめいという男を軍師に迎えるために、三度も彼のことを訪ねて行ってお願いしたというのだ。


 子供のころから母に聞かされた逸話だったが、すっかり今まで意味を勘違いしていた。


 軍師って参謀のことか。審判じゃなく。道理で三回もお願いしにいくはずだよ。


 だが、まあ、いいや。この勘違いは黙っておこう。自分で話さなければ、だれにもバレない。



 とにかく今は、シボーさんの軍師の件だ。

 シボーさんを軍師に迎える。とすると……。


 シボーさんを軍師に迎えて送別会を開くということは、玄徳は幹事にさせられる、ということである。

 シボーさんが軍師なら、それはサポート役であるから、幹事を任せてしまう訳にはいかないということだから。


 ただ八重垣さんの意見にも一理あった。


 バイトがやめるとき、今までは南雲さんがみんなに声かけしてくれて、ささやかながら送別会みたいなものを開いてくれていたのだ。近くの居酒屋で、ちょっと飲んだりするだけみたいだが。

 玄徳も一度参加すると言ったことがあった。結局当日は欠席してしまったが。



 玄徳は別に酒好きでもないし、みんなとわいわい騒いだりするのが好きな訳でもない。

 やめる人にちょっとした義理を感じて送別会に出ると言っただけだから、楽しそうでもないし、値段も安いとは思えなかった。

 だから、というわけではないが、行きますと言って、そのまま結局行かなかった。

 ちょっとあの時は、悪いことをしたと思っている。



 しかし、今までみんなの送別会をしてきた南雲さんなのに、その彼女が辞める時にはだれも送別会を開いてあげないというのも、なにか理不尽というか不条理というか、そんな気はする。

 やはり、送別会は開いてあげるべきなのだろうか? でも、ぼくが幹事というのは……。

 だいたい、そんなこと言うのなら、八重垣さんが幹事になって南雲さんの送別会を開いてあげればいいのだ。


 そこまで考えたとき、玄徳は、「ならば、シボーさんに軍師ではなく、幹事をお願いすればいいじゃないか」と気づいた。


 別に八重垣さんの言いなりになって、玄徳が幹事でシボーさんが軍師である必要はない。

 南雲さんの送別会の幹事をシボーさんにお願いすればいいのだ。そして、玄徳自身はその送別会に出席してもいいし、出席しなくてもいい。あ、でも南雲さんの送別会なら、出席してもいいかな?


 ということで、玄徳は夕方になって高校学参担当のシボーさんを探しに行った。


 もう早番アルバイトは上がる時間なので、帰っちゃってるかな?と思いつつも、売り場の棚を見に行ったら、シボーさんはまだ仕事中だった。


 夏くらいから、だんだんと拡張されてきた大学受験のコーナー。各大学ごとの過去問題集、通称「赤本」のコーナーで、シボーさんは棚にずらり並んだ背表紙に目を走らせている。

 売れて欠けた赤本を補充するため、メモをとっているようだ。


「あの、シボーさん」玄徳は恐る恐る声をかけた。


「うん?」

 案外可愛い声で返事が来た。じっさいそんなに怖い人でもないのかも知れない。


「あの、南雲さんが辞めちゃうんで、送別会を開きたいんですけど、シボーさんに、幹事お願いできますかね?」


「なんで、あたしが?」


「あ、八重垣さんに聞いたら、シボーさんがいいだろうって言ってたんで」


「八重垣のおっさんが、『子房しぼうに幹事をやらせろ』って言ったのか?」

 ぎろりと睨まれた。玄徳は口調がしどろもどろになってしまう。

「いえ、そうではなくて……」


「南雲の送別会を開こうと言ったのはだれだ?」


「あの、それは八重垣さんが。ぼくはみんなでお金を出し合ってプレゼントをあげればいいと思ったんですが、八重垣さんが送別会を開くのはどうか?って……」


「八重垣は──」

 シボーさんはこちらに向き直り、人差し指を振り回した。眼鏡の奥の異様に黒い目が、こちらをじっと睨みつけてくる。口調は唐突に不機嫌になっており、八重垣さんが年上だろうが男性だろうが、お構いなしの呼び捨てである。

「──だれに幹事をやらせろと言ったんだ?」


 詰問である。


「幹事はぼくで、シボーさんには軍師になってもらえって……」


 玄徳は仕方なく白状した。こんな調子でシボーさんが八重垣さんのところにどなりこまれたら、自分の嘘がたちどころにバレることになる。それはさすがに避けたい事態だった。


「だったら、おまえがやれよ」


 その通りである。


「いや、でも、まあ……。ぼくは幹事とか、そういうのをやるタイプじゃないし」


「バカバカしい。飲み会の幹事なんて、その場に全員集めるだけの、極めて基本的な作戦行動じゃないか。その程度のことできなくて、どうする? 松……えーと、誰だっけ?」


「松山玄徳です」


「松山、おまえ玄徳とかいう偉そうな名前のくせして、これから一生人の下でへいこら使われている兵卒で終わるつもりか。一生本屋のバイトかよ。就職しないのか?」


「え、いや就職はしたいですけど」


「就職して社員になれば、バイトを使わなきゃならない。いわば将帥しょうすいだろう。飲み会の幹事なんて、もっとも程度の低い指揮官なんだ。ただ人をその場に集めるだけ。その程度の指揮が執れなくて、どうする?」


「あ、いや、でも」


「それに南雲の直属の部下はおまえだろう。玄徳、おまえ新書担当なんだろ? 南雲の直下じゃないか。南雲の送別会をやるなら、南雲の直属のおまえが音頭をとるべきだ。幹事をやるべき立場にあるのは、おまえだろう。それが出来ないのなら、言い出すなよ」


「いえ、言い出したのは、ぼくではなくて……」


 が、シボーさんはすでに欠本のメモ取りにもどってしまっている。玄徳の存在なんぞ、とうに忘れてしまったような態度だった。


「……あの、もしぼくが幹事をやらなら、シボーさん、手伝ってくれますか?」


 一応聞いてみた。


「知らん」


「ですよねえ」


 玄徳はすごすご引き下がった。なんで自分がここまで言われなければならないのだろう。この子房亮子さんという人には二度と話しかけまいと、そう心に誓った。



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