第3話

 この辺りに「緋扇」って地名がついたのは、ずうっと昔のことらしい。

 街が扇の形をしているわけではないのだけど、名前の理由は扇状地っていう地形から来ているそうだ。「ヒオウギガイが浜辺でよく穫れていたからかもしれないね」と、社会科教師でもある菊池は説明の後に笑って付け足していた。それくらい適当なものなんだろう。意味があって名づけられたものなんてそう多くはない。

 街全体がなだらかな坂になっていて、その中でも上の方に位置している緋扇中学校の立地は「どうして朝から坂道を登らないといけないんですか」と遅刻常習犯の恨みを買っている。遅刻した生徒は罰として放課後に校内の清掃をしなければならないのだ。つまりは部活の時間が減ってしまうというわけで、少しでも記録を伸ばしたいタクミとしては遅刻なんて絶対に許されないものだった。

「タクミ」

 姉の寝室から、寝ぼけた声が聞こえる。

「今日夜いないから、冷蔵庫のカレー温めて食べといて」

「ああ」

 宮永家は父子家庭で、姉はたまにバイトで夜も家を空ける。

 どういう仕事をしているのかは聞いていない。曰く、後ろめたいことではないが、通り一遍でもないらしい。タクミとしてはなぜそこまで働こうとするのか理解に苦しんだ。特別、生活が苦しいわけではないのだ。というのも、宮永家で主に生計を立てているのは、高校卒業以来バイト漬けの姉――ではなく、まともに部屋から出た試しのない、もう一人の住人だからだ。

 少し歪んだドアの向こうには、生命の気配を感じられない。

 だがそこには、一応の稼ぎ頭が居候している。

 宮永行成。

 タクミの父親、ということになっている。

 かつては名を馳せた小説家らしく、今でもその時の名残が、収入となって通帳の額面に現れる。食事も作らない、片付けもしない、子育てすらしない奴のどこが父親だと追いだそうとしたこともあったが、生きるための資金を稼いでいることを知ってからは、文句のひとつも言いづらくなった。行成も別段文句を言おうとはしなかった。それで構わない。

 行成の部屋からは、こうこうと明かりが漏れている。タクミが扉の前を通ると、「タクミ」と名前を呼ぶ声が聞こえた。嗄れた声だった。酒は飲まず煙草も吸わないので、もともとそういう声だ。

「通学路、気をつけろよ」

 タクミは立ち止まりも受け答えもせず、玄関を開ける。


 遅咲きのあじさいから、きらきら光る朝露が一滴落ちていた。

 列車が通過する踏切の前に立ちながら、考える。

 今は一〇〇メートル走の記録を縮めることに躍起になっているが、それがなくなったら――たとえば県体で負けて早々に引退するようなことになったら、これから一体何に打ち込めばいいんだろうか。

 高校に入っても陸上を続けるというのは一つの手だ。でも、そうなるとスパイク、ユニフォーム他でまた金がかかることになる。稼ぎがあると言っても裕福というわけではないので、やりたいことを続けていられる余裕はない。そもそも「部活をしていいのは中学まで、高校からは自分のなりたいものを見つけろ」というのが母代わりである美貴との取り決めだった。美貴もその宣言に則って、高校卒業とともに働きだした。姉が有言実行している以上、弟であるタクミも従う必要がある。それが道理というものだ。


 なりたいもの。

 それは一体何だろうか。

 どうやったら見つけられるんだろうか。


 問いかけはいつも、タクミの前にふわっと浮かんで、何も答えずに消える。つかみとろうとしても絶対に届かない、さしずめ空に浮かんでいる雲のようなものだった。あいにく今日は快晴で、雲ひとつ見当たらない。はあ、と溜め息が虚空にとけた。

 電車の警笛で、現実に引き戻される。

 遮断機が上がって、人々の止まっていた流れは、静かに動き始める。タクミも人の群れの中に混じって歩き――――


 反対方向に歩く、一人の少女を見つけた。

 髪先から滴の垂れている、同じ学校の制服を着た少女だった。


「……濱野?」

 踏切を渡り終わったところで、振り返る。

 かすかな潮の香りが鼻孔をくすぐる。もちろん背中しか見えないが、間違いなく濱野だった。すれ違う人々の好奇の目が見える。濱野が歩いたあとには不規則に水滴の痕跡があって、それがずうっと――まるでヘンゼルがちぎったパンくずのように――濱野が歩いて行く先を示していた。

 もしかしたら、本当に導いているのかもしれない。

 誰を?

 どこへ?

「何してんだ、アイツ」

 濱野の姿はもうどこにもなく、点々と道筋が残っているだけになっている。どうやら路地裏に入っていったらしい。誰もその後を追いはしない。水滴の跡も、時間が経てば太陽という名の小鳥に喰われてしまうだろう。そうすれば濱野がこんな朝早くに何をしていたのかわからなくなる。タクミは少しだけ表情を厳しいものにした。

 何を隠そう、どうして坂を登らないといけないのか――と文句を垂れていた遅刻常習犯というのは、他でもない濱野千歌だ。

 濱野千歌は、最初こそちやほや持て囃されていたけど、そのうち濱野の周りからは男子も女子も遠ざかっていった。見た目だけならテレビで見かける芸能人の誰かに似ていそうなほど整った顔立ちだ。男子を一瞬で魅了し、女子を一瞬で嫉妬させる程の威力はあるのかもしれない。

 だが、身から錆が出るとはこのことか。

 濱野の問題は、自己紹介でも露わになったとおり、中身にあった。

 極端な例を挙げると、給食時間。その日はメニューにゆでたまごがあったのだが、濱野はこれをことごとく床に投げつけて楽しいお昼の時間を台無しにした。菊池にどうしてこんなことをしたんだと言われても濱野は何も答えなかった。その後も何度かゆでたまごが出てきたが、濱野は同じことを繰り返した。まただんまりを決め込んでいた。そのうち「給食にゆでたまごが出るときは濱野に知られないようこっそり食べる」という奇妙なルールができあがってしまった。タクミも仕方なくそれに従った。

 これだけではない。いちばん酷かったのは、濱野自身が給食当番の時の話。確かその時はおかずがカレーで、濱野がそれをよそう担当だった。それで女子生徒の誰かがふざけて「濱野さんよそうのおそーい早くしてー」と急かすと、急に顔色を変えてお玉に入っていたカレーを浴びせたのだ。ゆでたまごとは比にならない騒ぎだった。当の女子は泣き出し、菊池は顔面蒼白で、ひとりの男子生徒が濱野に思いきりつかみかかっていた。下手したら退学・懲罰ものの一大事だったが、先生達の尽力でなんとか大事にならずに済んだそうだった。それでも濱野は三日間の謹慎処分を受けていた。悪いことをしたのに学校を休めるのはいいなというのがタクミの感想で、あの男子と女子って付き合ってるのかなというのがアコの感想だった。

 ともかく、これはもう歓迎ムードというわけにはいかない。

 濱野は一週間も経たないうちに独りとなった。当たり前のように遅刻して、授業で指名されても「わかりません」の一点張りで、休み時間になるとどこかへ立ち去って、そのまま午後の授業には出ない。保健室登校の噂もあったが、それ以上はタクミの預かり知るところではなかった。

 疑問に思う。

 この時間に家を出ているのなら、遅刻なんてするはずがない。

 だとしたら、どうして濱野は。

「…………」

 言葉にする前に歩きはじめていた。

 朝練のために向かっていた学校とは逆方向。

 濱野がおぼつかない足取りで進んでいった、薄暗い路地裏へ。

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スイサイノガレ 天河佑久 @amakawa_tasuku

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