第2話
夏休みが迫ってきた頃。前触れなく朝の教室に現れた白髪の転校生は、それなりに綺麗な文字で黒板に名前を書いた。「はま野千歌」。漢字の使い方が中途半端だった。多分、はまってのは「浜」じゃなくて難しい感じのほうだから書けないんだろうな――とタクミが適当な考えを浮かべていると、隣の女子が脇腹を小突いてきた。
「タクミ。あの子、何だか変じゃない?」
話しかけてきたのは喜多川アコだった。同じ陸上部で、幼なじみで、何かと話したがり気質のアコは、ことあるごとにこうやってタクミに意見を求めてきた。中学生になって眼鏡をかけ始めたけど、あまり似合ってはいない。だからといって馬鹿にされるような人柄ではない。クラスの中心たるカリスマ性と人望に満ち足りているというところで、タクミとはかけ離れていた。
「変って、何がだよ」
「いや、だって。ここのところ猛暑が続いてるといっても、髪の毛から滴が落ちてるのは、どう考えても変でしょ」
そうか?
タクミはもう一度はま野、もとい濱野に視線を移した。
濱野はまだ、ぎこちない様子で教卓の横に立っている。制服に張り付いている長い髪の毛からは、たしかに水の粒がいくつも落ちていた。ぽたぽたぽたぽたとプールから出てきたばかりかのように透明な滴がひっきりなしに垂れている。よほど暑いのかと思ったが、おかしなことに真っ白な肌は汗ひとつかいていない。当然のことだ。冷房がガンガンに効いている以上、汗なんてかきようがない。それにしても整った顔立ちだった。白人のように透き通った肌は柔らかそうであり硬質性を持ってそうでもある。伏せられた目はどこか絵画的だ。日本人形を今風に作るとああなるだろうか。
「いてて」
タクミがぼんやり眺めていると、アコが頬をぎりりとつねった。
「何すんだよ」
「なに見とれてんのよ。おかしいと思わないの? 何回でも言うけど、暑がっているようには見えないのに髪の毛から汗が流れてるのよ」
「そうだな。たしかにおかしいな」
「あー、大して興味ない時の答え、それ」
お説ごもっとも。
なるほど濱野の様子はおかしかったが、興味がないといえばそれまでだ。今でこそ陸上部の短距離走ブロック長なんてやっているが、タクミは元々他人に興味がなかったし、アコのように人の上に立ちたいとも思っていなかった。こう言うと、社会人の姉には「出た、中二病」と茶化されていたが、年齢的には極めて正しいことだ。ブロック長という立場も、アコが推薦しなければやる羽目にはならなかったのだから。
やりたいことなんて考えていない。
将来の夢なんて決めようとも思わない。
高校生になったら、適度に勉強して、適度に良い大学に入って……将来のことを考えるのはそれからでいいと考えていた。その結論は担任も受け入れてくれたので、さしあたって問題はない。進路指導を行う担任自ら「これから考えればいいよ」と笑うのだ、間違いないだろう。
「それじゃあ、濱野。簡単に自己紹介を」
その担任――菊池が、濱野の背中をぽんと叩く。
今さら気付いたことがある。
濱野は右目を長い前髪で隠していた。全体的に髪は長いが、タクミから見て左――つまり右目にかかるほうの前髪は意図的に長い。運動をするには不便そうだなと月並みに思う。うまい具合に隠れているせいで掻き上げない限りはどんな目をしているのかわからなさそうだった。前の席の生徒が覗き込むようにしていると、濱野の薄い唇がかすかに開く。
「濱野――――」
ぽた、ぽた。
滴が落ちる。絞りだすような声で、濱野がぼそりとつぶやく。ざわざわしていた教室が俄に静まり返って、静寂がやって来たところで、濱野は堰を切ったように喋り出した。
ダムが決壊するように。
滝が轟々と地面を穿ち始めるように。
「濱野千歌です。漢字はうまくわかりません。私は、海からやって来ました。ああ、海っていうのはみんなの知ってる海です。これは漢字もわかります。ああ濱野じゃ味気ないと思うので、金魚姫って呼んでください。よろしくお願いします」
――これはとんでもない奴が転校してきた。
と、何人が思っただろうか。タクミは一貫して冷めていた。
「あ、ええと、濱野が前にいた学校は海辺中学校と言って……」
すかさず菊池がフォローするが、もう遅い。教室はすでにざわつきはじめている。やだーどういうことーなんて囃し立てる女子だとかなぜかガッツポーズしている男子だとか反応は様々だ。タクミといえば、今日の晩御飯が何なのか想像するのに必死だった。姉は何を作っておいたと言っただろうか?
「海?」
「なんだよ海から来たって……人魚か何か?」
「でも、人魚姫って確か、泡になって消えたんじゃ?」
「おとぎ話じゃん、ソレ」
喧騒が大きくなるなか、アコがぴっと右手を挙げる。
「濱野さん。海から来たってのはどういうことですか?」
「そのまんまの意味です。私は海から来たんです。なんというか、海そのものって感じです。だから、ほら」
濱野は滴の垂れる髪先を持ってみせる。相変わらずぽたぽたぽたぽたぽたぽた無限級数的に教室の床を穿ち続けるそれは、放っておけば木張りの床を腐らせてしまいそうな勢いだった。菊池は慌ててハンカチを手渡す。
「あ、わかりやすいように『ハマちゃん』でもいいですよ」
アザラシじゃねーんだから。
誰かがそう言った気がした。タクミもほぼ同意見だった。
こうして海からやってきたという濱野千歌は、ちょっとした引っかき傷とともに、緋扇中学校へ転入したのだった。
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