スイサイノガレ

天河佑久

第1話

 ――――海の水が、どうしてしょっぱいか知ってる?


 海岸にいるというのに、チカは一歩も海に浸からなかった。じりじりと夏の太陽が照りつけても、ミネラルウォーターのペットボトルが空になっても、頑なに砂浜近くの階段から動こうとしない。コンクリートの地面には夏の光がまぶしいほどに照っているけど、チカの肌は日本人形のように白く、生気を感じさせなかった。そのままじゃ熱中症になるぞ――というタクミの言葉に対して返ってきたのは、前に記した素っ頓狂な問いかけだった。タクミは眉をひそめる。

「海の水?」

「そ。どうして海水がしょっぱいのか、タクミは知ってるかなって」

「んなもん、簡単な話だろ。太古の昔に降った雨が、陸の岩石を削りながら海を作って、その時から塩分が少しずつ溶け出してるっていう……」

「ちょっぴり図鑑をかじった人は、みんなそう言うよね」

 チカは、たはは、と笑いながら話の腰を折る。タクミはムッとして、何か言い返してやろうかと思ったが、無駄なことだとわかっていたのでやめた。チカと口論をしようとしたところで、体よくかわされるに決まっている。エネルギーのムダづかいになるのがわかっているなら、初めからそうしないのが楽だ。

「ね。こっち来てよ、タクミ」

 麦わら帽に身を潜めたままのチカが手招きするので、タクミは仕方なしに近くに座った。石階段の上に座ると、服越しにもじんわりと熱が伝わってくる。このところ暑い日々が続いている。こめかみのあたりに汗がにじんだ。部活の練習をしているときはあまり意識しないものだったが、日光というのは想像しているよりも早く体力を奪っていく。生きるための活力が汗となって、じわりじわりと染み出していく。

 タクミの隣。

 潮風もないのに、海に浸かったわけでもないのに。

 チカからは、の匂いが漂っていた。

「もうひとつ。浦島太郎、って実在したと思う?」

 浦島太郎。

 文学に疎いタクミでも、それくらいの童話なら知っている。

「そいつはさすがに、空想上の人物じゃないか」

 足元で、貝殻の破片がぱきっと鳴く。

「常識的に考えれば、ウミガメに乗って海底の竜宮城に行けるわけがない。玉手箱を開けたら爺さんになるってのもご都合主義というか、唐突すぎる。遊び呆けている間に長い時間が経っていた、だから時間は無駄にしてはいけない、人間は汗水流して働くべきだ――っていう教訓としての寓話なら、納得できるけどな」

「ほんと、難しい考え方をするよね、タクミは。本当にいたと思うか、そうは思わないかのどちらかだけでいいのに」

「性分だ」

「でも好きだよ。タクミのそういうところ」

 チカは立ち上がり、海の彼方を見つめる。

 色素の抜けた髪は短く切られているが、それでも陽光を浴びるとシルクをすいたようにきらきら光る。白いブラウスにピンクのフリルスカートの服装は、初めて会った時の格好に比べるとだいぶ歳相応になった気がした。少なくとも、生まれる世界を履き違えたガキには見えない。それどころか少し大人びて見える気がして、タクミはぷいっと顔を背けた。

 遠く向こう――南北に続く海岸の北方から、賑やかな声が聞こえる。じゃきじゃきと激しい電子音はエレキギターだろうか。かすかに響いてくる音が少しだけ耳障りだった。若者に人気のバンドとか、そういうのが得意げに演奏しているに違いない。あれだけ人がいたのだ、ステージはきっと盛況だろう。今日はそこかしらで文字どおりお祭り騒ぎなのだ。もう少し音の方向に近づけば、焼きそばのソースの香りも、とうもろこしの焼け焦げた匂いも、わたがしの甘ったるい味も、線香花火のかがやきも、きっと、みんなそこにある。夜がやってくれば、沖合いから打ち上げられる花火を目に焼き付けることもできるだろう。

 でも、タクミとチカは、離れた寂しげな海岸に座り込んでいた。祭りから距離を置いて、打ち寄せる波の音を聞きながら、とりとめのないことを話し続けていた。まるで、世界に忘れて行かれているみたいな感覚だった。

 そう感じているのは、タクミだけかもしれない。

「私はね」

 チカが言う。

「海の水がしょっぱいのは、それが『涙』だからだと思う」

「涙? 地球が泣いてるっていうのか?」

「勘がいいね。そう、海は地球の涙なんだよ。苦しんだこの惑星が、痛いよ、助けてよ、っていうSOSのサインの代わりに発してる救難信号なんだと、私は思う」

「浦島太郎レベルの空想だな」

「バレたか」

 風になびくスカートをおさえながら、笑う。

「でも、私は信じているんだよ」

 不意にチカがしゃがみ、タクミに顔を寄せる。

 ざわめきが遠のき、チカの息づかいだけがやけに聞こえた。透き通るように白いチカの肌は、太陽の影となっても水晶のようにかがやいていて、汗をかいていないのに、海に入ったわけでもないのに、白亜の髪の毛からは、ぽたぽたと滴が落ちていた。

 そして――――、

 チカと顔を合わせてしまえば、『それ』は嫌でも目に入った。


「海の水はしょっぱいのは、地球の涙だから。

 そして、人の涙がしょっぱいのは――――人の眼が、だから」


 長めに残された前髪の奥で、右眼が輝く。

 チカの眼は、紛うことなきだった。透き通る碧眼のなかで黒い影のようなものがぐるりと動きまわり、とぷんと波紋を広げている。瞳のなかには魚を飼っているのだという。縁日の金魚すくいにでも行けば、同じような形の生き物を捕まえることができるだろう。チカの眼にはそれが棲んでいた。透きとおるビー玉のような小さな眼球では、確かにチカ以外のが息づいているのだ。

「……俺は、幻覚でも見ているのかな」

「痺れるほどの幻覚なら、見ているのかもしれないね」

 チカの細い指が、つう、とタクミの肩に触れる。少し前まで、タクミの身体は海水に濡れて冷たくなっていたはずなのに、チカが触れた瞬間、まるで世界の温度がそっくりそのまま下げられたかのように――――氷像にでも触られているかのように、全身に冷気が走った。それでもなお、身体は熱を帯びていた。

 本当に、タクミは幻覚を見ているのか。

 それなら――、

 それなら今、目の前にいるチカという少女は、何者なのか。

 タクミにはわからない。

 わからないからこそ――――


「ねぇ、タクミ」


 その深淵を、知りたくなる。


「私にキス――――してみない?」


 中学三年生のうだるような夏。

 間違いなくタクミと、その世界を幻惑し続けた少女。


 濱野千歌ハマノチカは、碧い瞳で、そこにいる。

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