02.
その日はひとつ早い電車に乗った日だった。時計のアラームが鳴る前に目が覚めて、二度寝する気にはならず憂鬱な中で起き上がる。改札を出ていつもより遅いペースで歩いてバイト先へ向かえば、ほぼいつもと変わらない時間。着いた時にはもう普段通りになっていた。
「先輩おはようごさいます」
「おー、おはよ佐伯」
「あー!佐伯先輩おはようございまーす!急なんですけどー明後日のシフト交代してもらえないっすか?」
一番家から近かった高校を何となく卒業して、やりたい事も特に見つからず大学には行かず就職して家を出た。そして就職したはいいが毎日毎日同じ事の繰り返しの生活に飽きてすぐに辞めた。
母子家庭で仕事をしながら高校まで通わせてくれた母さんに仕事を辞めたことはまだ言えず隠したまま四年フリーターをしている。
「いいよ、明後日。どうせ暇だし」
「よっしゃ!ありがとうございます!」
趣味は無いしこれといってこだわる物も無い。仕事することくらいしかやる事がなかった。だから金を使う事もあまり無く貯金だけはそれなりにあって、いっそこの金で当てもなく旅行でも行くかと考え始めるくらいだった。
「そうだ佐伯、絵とか興味ない?」
「絵、ですか?」
「俺の大学美術科あんだけどさ、後輩の友達が個展するらしくて。周り声かけて欲しいって言われてんの。なんかすげー上手いらしいんだけど俺知らねー奴だし、絵とか興味なくて」
絵。正直に言えば興味は無かった。子供の頃に少しだけある子に憧れたが美術の授業で描いた自分のあまりに酷い作品に向いていないと悟った。
「…へぇ」
「でもそいつちょっと変な奴らしいんだよなー」
「変な奴?」
ひらり、とポケットから出した紙。無理やり仕舞われていたそれは少しくしゃりと皺になっていた。伸ばしながら机に置かれた紙に描かれていた絵。
「こんな感じでさ、海しか描かないんだってよ」
それは見覚えのある海だった。
「俺こういうの上手いのか分かんねーし全く知識ないし。まあいいや、他のやつにも声かけるし無理に」
「行きたいです」
海の絵の横には『Ranko.』と書かれていた。彼の言葉を遮って告げれば驚いた様で目を見開いてその後笑った。
「オッケー、後輩に連絡しとく。一人見つかったって。喜ぶよ」
「はい」
そのまま渡された皺の寄った紙。来週の水曜日。ちょうどその日は休みだった。
なるべく綺麗に取っておきたくて鞄に入れっぱなしになっていた本の間に挟んで大事にしまった。
「あ、もしかして佐伯さんですか!?」
「えっ…と、そうですけど…」
迎えた水曜日。会場であるその場所は小さなカフェの様なお洒落な雰囲気で。入るのを躊躇ってしばらくして、中を覗こうとした時に後ろから声を掛けられた。
振り返った先にあった白髪に驚き一瞬言葉が詰まる。その白髪の男は顔や手が鮮やかに絵の具で染まっていた。いかにも美術系といった雰囲気の男で自分が目的の人物だと知りニコニコと満面の笑みを浮かべていた。
「先輩から聞いてます!ありがとうございます!」
「いや…こっちこそ。君とは直接知り合いって訳じゃ無いのに来ちゃって。良かったのかな」
「全然!あいつまったく友達居なくて来るの先生とかばっかで。見ててなんて言うか…勿体無いなって思ったんです!絵の腕は確かなんで、やっぱ色んな人に知ってもらいたくて…!」
嬉しそうに話す彼は、聞けば俺の一つ下で名前は
「あいつは俺の一個上…あ、多分佐伯さんと同い年なんですけど高校一年留年してて。高三の時に一緒のクラスになってそっから大学も一緒なんですよ」
「高校留年?」
不思議に思ってそう問い返す。彼女は中学の時、一日も休んだことが無く皆勤賞で卒業式に賞状を貰っていた程だった。それに友達がいないと言うのも気になった。明るい性格で絵が上手いと言うのもあってかなり交友関係は広かったはずなのに。
「…色々あって。まあ、そんなことより!絵見てって下さい!ささっ」
一瞬暗い顔をした斉画はすぐに笑って俺の背を押した。言われるがまま厚めの木製の扉を押せば視界一面の海がそこにあった。
青、青、青、海。
深い、黒に近い青の海だった。
「…これ、は」
「海しか描かないんですよ。しかも最近は海の中からの絵ばっかり。なんでも自分で色んな海に潜りに行ってるみたいで」
知らない絵ばかりが広がっていた。彼女が描く海はいつも波と太陽のキラキラとした海だった。まるで彼女自身の様で憧れていたあの海はそこに無かった。
「びっくりしますよね。あ、でも普通の海!って絵も少しだけあるんでよかったら奥のも見てください」
「ああ…ありがとう」
「なんか本人の強い希望だったらしくて招待用の葉書とかチラシにはこの明るい海を載せてるんです。こう言う画風目当ての人には詐欺みたいになっちゃうんですけど」
導かれるがままに後ろを追う。斉画はあれこれと絵の説明をしながら歩いていたが、それも耳に入らないくらいに彼女の海を眺めるのに必死だった。
そして一番隅に飾られていたその絵は、昔見たあの三枚の大賞を取った海だった。
「………」
「そしてこの三枚は中学生で描いたらしいんですけど、その歳でこれだけの描けるって凄くないですか!?良かったら佐伯さんのご友人にも紹介してもらえると」
「白木、誰がそんなことしてって頼んだ?」
後ろからの声にぴたりと斉画の動きが止まって、ゆっくりと彼が振り返る。それに合わせて自分の体も後ろに向ければ、そこに居たのは知らない長い白髪の女性だった。
「ご、ごっめん蘭子!!俺さ蘭子の絵色んな人に見て欲しくてそれで」
「うるさい、私は別に見て欲しい訳じゃないって言ってるでしょ。全部自分のため。自己満足」
「でもさ…みんなが蘭子の絵を知らないまま…お前が…」
知らない女性だった。見た目も、声もしゃべり口調も、性格も。別人の彼女は顔を歪めながら斉画を睨みつけた。
そしてしばらくするとその視線は俺に向いた。目が合うとその表情は驚きへと移り、顔を背けた。
「白木…誰」
「え…あ、ごめん、先輩の知り合いで。この人は悪くないから!俺が誘って」
「そんなの聞いてないでしょ。誰って聞いてるの」
「えっと…佐伯、さんって人で…その」
彼が自分の名前を口にした瞬間、彼女は大きくそして深くため息をついた。まるで二度と会いたくなかったと告げられた様な、そんな感覚。そして少し長い間の後に彼女はこちらを向いた。
「久しぶり、佐伯侑海くん…会いたくなかったよ」
白い髪を搔きあげながら悲しそうに笑った。会いたくなかった、その言葉が頭の中で反響した。
深絵心中 雪ノ瀬いちか @iti_eureka
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