朝、教室にう○こが落ちていた話

悠聡

朝、教室にう○こが落ちていた話

 朝、僕は登校中もずっと歩きながら本を読んでいる。そのジャンルは小説から雑学の本まで様々だ。学校でもわずかな休み時間があれば、すぐに図書室に直行して本をむさぼり読む。


 そんな習慣のおかげか、いつの間にかクラス一番の物知り博士なんて呼ばれるようになった。ついたあだ名は『先生』だ。


 横断歩道を渡るときも、校門をくぐって下駄箱で靴を履き替えるときも、絶対に本からは目を離さない。


 今朝も僕は本を読みながらの登校だった。最近はまっているアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』の文面を追いながら、歩き慣れた校舎の階段を上る。これくらいの道順なら、体がすっかり覚えてしまっている。


「ん?」


 だがこの日ばかりは違った。普段とは変わった空気を感じ、つい本から顔を上げてしまう。


 教室がやけに騒がしい。いや、6年2組が騒がしいのはいつものことだけど、今日はぎゃんぎゃんと、まるで女子と男子が言い争っているような騒がしさだ。


「おはよー、どうしたの?」


 扉をくぐり、僕はすぐ近くにいたハルキに声をかける。


「おう先生、見ろよあれ!」


「あれ?」


 そろそろ肌寒くなってきたというのに相変わらず半袖半ズボンのハルキは、嬉しそうに身体を揺らしながら床を指差した。その指先を追っていくと、既に登校していたクラスの全員が床に落ちている何かを取り囲んでいる。


 教室の奥側、窓際に近い板張りの床の上、落ちているのは薄い茶色の何か。細長く若干湾曲しているウインナーソーセージほどの大きさだ。そう、これは見るまでもなく。


「うんこ……だね」


 それ以外、何の答えが浮かぼうか。6年2組の教室の床、たまにトイレで流されずにまるまる残されていたりする例のアレ、まさにそのものが堂々と居座っていた。


 一歩前に出て覗き込む。床に落ちる例のブツを取り囲むようにみんなが立っているが、見事にその周りだけは人がいないのでじっくりと見ることができた。


「見た感じ健康体のバナナ形だ。これした人はノロウイルスにはかかってなさそうだから安心だね」


「ぎゃははは、冷静に分析してんじゃねえよ! どうして、朝っぱから、教室に、うんこが落ちてんだよ!?」


 ハルキが腹を抱えて息を詰まらせながら指摘する。


「ちょっと誰よ、ここで……したのは!?」


 女子のひとりが今にも泣きそうな声で叫んだ。うんこと声に出すのはさすがに恥ずかしかったらしい。


「犯人とか、そんなのきだっちに決まってんだろ」


 ハルキがひとりの男子を指差すと、教室にいた全員の視線が集中する。


 クラスメイトの視線を一身に受けたのはクラスで一番身長の低い男子、きだっちだ。きだっちは「え、ええ!?」と目を大きく開きながら口を開けた。


「違う、俺じゃない!」


 そして大声で否定する。だがそんなきだっちの懸命な姿を見て女子は一様に「うわぁ」と嫌悪の声を漏らし、男子は皆ぎゃははと爆笑を重ねた。


「でもきだっち、お前いつも一番最初に学校来るだろ? 朝イチからうんこ落ちてるんじゃ、そりゃお前しかいないだろ」


「やっだ、木田くんサイテー」


 女子のリーダー格である伊藤さんが後ろで結んだ長い黒髪をなびかせながら、きだっちに冷ややかな視線を送る。この前浅草に行って買ったばかりだというヘアゴムに付いた青いトンボ玉がきらりと輝く。


 さすがは伊藤さん、彼女の一言だけでクラス中の女子が「うっわぁ」と汚いものでも見るかのような視線をきだっちに投げつける。


「だから違うってば!」


 きだっちが目に涙を浮かべながら声を張り上げるが、誰も聞く耳を持たない。可哀想だが今日から卒業まで、彼はウンコマンと不名誉なあだ名で呼ばれ続けることになるだろう。南無。


「なあ先生、信じてくれよ!」


 とうとうきだっちが僕に泣きつく。


「そんなこと言われてもなぁ。きだっち、腸内フローラの管理はしっかりしろよ」


「だから俺じゃないって! 朝来たときからここに落ちてたんだ!」


 クラスメイト全員から嘲笑を受けながらも、必死で僕にしがみつくきだっちは哀れを通り越してもはや痛々しかった。


 だが、きだっちの発言に僕の頭脳がひっかかる。


「え、第一発見者なの?」


「そうだよ、朝最初に教室に入ったら、もううんこがあったんだよ」


「先生、そんな嘘信じるなよー」


 男子たちが笑い声混じりに野次を飛ばす。だが僕は首を横に振りながら、「いいや」と強く否定した。


「真実は物証があれば証明できる。でも嘘はやってないという証拠がない限り証明できない」


 あんなに騒がしかったクラスが、たちまち静まり返る。


「ここにうんこが落ちていたというのは覆しようのない事実。でも誰のうんこかなんてDNA鑑定でもしない限りわからない。つまりきだっちは容疑者であっても犯人ではない、いや、考えようによってはクラス30人全員が容疑者だ」


 僕が強く言い切る。途端、ざわめきが起こり疑心暗鬼に陥る6年2組のクラスメイトたち。


 なんか推理小説の主人公になったみたいで、ちょっと気分がいいぞ。


「お前、したのか?」


「僕じゃないよ」


 互いにじっと疑いの目を向け合うクラスメイト。


「ちょっと、私たちまで怪しいって言うの!?」


 伊藤さんが強く詰め寄った。そりゃ女の子をうんこ漏らしの容疑者に数えるなんて、並みの男子なら恐くてとてもできないだろう。だが、いくら彼女が女子のリーダーで発言力があると言えど、真実の追求を止めることはできない。


「犯人が誰かわからない以上仕方がない。否定できるだけの十分な証拠があると言うのなら別だけれども」


「う、うぐ……」


 ぐうの音も出ないのか、伊藤さんがらしくもなくうめき声を上げる。


「まずは情報を整理しよう。最初に登校したのはきだっち。で、来たときには既に床にうんこがあったと、そう言いたいんだよね?」


「ああ」


「嘘つくなよウンコマン」


 男子のひとりが野次を飛ばす。教室がどっと笑いに溢れるが、僕は人差し指を立てて「静かに」のサインを送った。


「まだ情報の整理中、結論は不明のまま。で、そこからきだっちはどうしたの?」


「そりゃうんこが落ちてたら驚くだろ。先生呼ぼうかとも思ったけど、どうしたらいいかわかんなくてそのまんま立ってたんだよ。そしたらすぐにハルキたちが来てさ」


「来たのはハルキだけ?」


 僕はちらりとハルキに視線を移す。突然振られるのを予想していなかったのか、きょとんとした顔のハルキは「俺?」と言って自分を指差した。


「いや、俺とダイチとシンゴ、それからカッちゃん。いつも朝4人で来てるからな」


 ハルキが答えるなり、今名前を挙げられた3人が口々に騒ぎだした。


「そうだよ。で、きだっちがウンコ見てたんだよ」


「ちょうどそこにぼうっと突っ立っててさ」


「きっとでかさ見てたんだぜ」


「違うわ! だいたい俺がここでうんこしたとして、ケツ拭いた紙はどこいったんだよ!」


「拭かなかったらいいだけの話だろ」


 得意気にハルキが発言した直後、女子たちから「うっわ、サイテー」とドン引きの声が上がる。当たり前だが彼女たちの冷たい視線は、きだっちよりもむしろハルキに向けられていた。


「例えばの話だよ。つまりきだっちのケツ見てうんこ付いてたら犯人だな。つーわけでケツ見せろ!」


「できるか!」


 ハルキ、勝ち誇ったつもりで名推理を披露してくれているようだが、今現在女子からのお前の株は最安値を更新中だぞ。


「そんなにきだっちに押し付けようとするなんて、ハルキあんたも怪しいわね」


 伊藤さんが道端のうんこを見るのと同じ目でハルキに言い放つと、他の女子も「だよねー」だの「そうよそうよ」と一斉に賛同する。これが支配者の影響力だ。


「は? 俺じゃねーし、勝手にすり替えんなよ」


 なぜ嫌疑が自分に振りかかってくるのか。ハルキは口を歪ませながら伊藤さんに詰め寄った。こいつはクラスでも唯一、伊藤さんを恐れない、というかバカだから何も考えていない。


「そうやって必死に隠すところが余計に怪しいわ」


「それ言うならお前だって怪しいだろ。実はお前がやったんじゃねえのか?」


「うっわ、ハルキって前々からサイテーだと思ってたけど、今日は今までで一番サイテーだわ」


 ハルキはまたしてもサイテーを更新したようだ。こいつは今後ウンコマン以上に凄惨な扱いを受けることになるかもしれない。


「ふん、お前みたいな女、俺の好みでも何でもないですよーだ」


「はあ!? あんたみたいな下品な奴に好かれるなんて、死んでも御免だわ!」


 睨み合う2組の女帝と2組イチのバカ。このふたりは何事につけても結局こんな感じだ。


 こうなるとお互いに譲らないのは目に見えている、僕はふたりの間に割って入ると両手で「まあまあ」と両者を宥めた。


「はいはい、そんな風にののしり合ってばかりじゃ何も見えてこないよ。うんこはひとつ、真実もひとつだ」


 ちょっとうまいこと言っただろ?


「じゃあよ、きだっち以外にしたって奴がいるなら誰がいつ、ここでやったんだよ?」


 ハルキは不満そうに頬を膨らませると、今度は僕に噛みついた。


「きだっちは朝ここに来た時には既にあったと主張している。つまり証言が正しいなら、それより前から落ちていたことになるね」


 人差し指を立てながら僕が言うと、感化されたのか他のクラスメイトたちもううんと考え込み始めた。


「昨日最後に教室を出たのは……誰だ? 放課後は先生しかここにいないぞ」


「じゃあ先生が?」


 どよめき立つ一同。だがそこにひとりの男子が待ったをかける。


「それはさすがに無いだろ。ひとりで漏らしたとしても誰も見てないんだから、掃除すればいいだけだし」


 その発言にクラス全員が同意する。あ、もちろんここで言う先生ってのは僕のことではなく、担任教師のことだ。僕のあだ名とこんがらがって、なんだか複雑な気分だな。


「まさか夜に誰かが忍び込んで?」


「野良犬かしら?」


 女子もそれぞれ考えを巡らせている。確かに、その可能性も十分にある。


 だがもしそうなれば、もう僕たちだけの問題では収まらない。監視カメラの記録でも見ないと、犯人はわからないぞ。


 結局、いつ誰がこのうんこをしたのか、議論は堂々巡りに陥ってしまった。振り出しからの再開だ。


 僕は改めてうんこを見る。少しばかり湾曲したバナナ型の見事な造形。


 だが待ってほしい。最初これを見たときから、妙な違和感を抱き続けていたのだ。そう、この見事な曲線、あまりにも完璧すぎる。


「そもそもさ」


 僕はいよいよずっと疑問に思っていたことを口にする。


「みんなうんこうんこ言ってるけど、これって本当にうんこなの?」


 その場にいた全員が「え?」と固まり、教室の時間が止まった。


 よく思い返してほしい。全員朝からうんこだうんこだと騒いでいるが、それはいずれも見た目からの推察のみ。誰も触ったりにおったりして、うんこであると実証していないのだ。


 いや、そんな実証すすんでやる勇者なんていないだろうけど。


「うんこ以外に何だってんだよ、こんなうんこっぽいの」


 ハルキが口をとがらせる。どうもこいつは床の上のうんこのような不審物が、うんこであってほしいらしい。


「でもさ、全然臭い無いし」


「臭くないうんこだってあるだろ、ウサギみたいに」


 いや、これは草食動物のコロコロしたうんことは見るからに違うのだが。犬のフンならまだわかるが、あれだって結構臭うぞ。


「そ、そうだよ!」


 逆転の糸口を見出だしてか、きだっちが目を輝かせて力説する。


「授業中のすかしっ屁でさえあんなに臭いんだ。でもこのうんこ、全然臭くないぜ!」


「お前、授業中に屁こくなよ、くっせーな」


 きだっちに辛辣な言葉を投げかける男子。今朝だけでハルキだけでなく、きだっちの学級における立ち位置も一緒に凋落してしまったのではなかろうか。


「それにさ、これ小さすぎるんだよ。僕の人差し指と同じくらいだよ、普通もっと大きいでしょ? もしかしたらこれ、本当はうんこじゃないのかもしれないよ」


 そんな級友を心配しつつも、僕は床の茶色い物体を指差して皆に言い聞かせる。そもそもこんな所にうんこが丸々一本落ちていること自体が不自然なのだ。なぜトイレでしない。


「じゃあ証拠出せよ」


 すかさずハルキが口をはさむ。


「それは臭いがしないっていう――」


「うんこじゃないなら何なんだよ。先生、調べてくれよ」


 ハルキの言葉に男女問わず「そうだそうだ」と乗っかる。


「へ?」


 あれ、この流れ、ちょっとまずくないか?


 全員が期待するように僕をじっと見つめている。先生ならこの謎のうんこのような物体を、調べてくれると。


 いやいやいや、ちょっと待て。確かに調べるのは有効だと思うが、僕がやるのか!?


 そりゃ状況からうんこでない可能性が高いとはいえ、もしかしたらうんこかもしれない謎のブツ、実際に触りたいと思う人はいない。


 こうなると調べる人間が決まってくるのは当然のこと。非うんこ説を唱える者、つまり僕だ。


「言い出しっぺだからな。先生、よろしく!」


 きだっちも一緒になって僕の背中をポンと叩く。僕はこの時ほど軽はずみな発言はするものでないと痛感したことは無い。


「あ、ああ、そう……だな」


 僕はすべてをあきらめた。ポケットからティッシュを取り出すとそれを3枚重ね、指先から手の平まで全体を隠す。


 そして床にしゃがみ込むと、ごくりと唾を飲む。


 掃除の時ゴキブリの死体を手掴みする気分、いや、それ以上の緊張感だ。万が一これがうんこなら、僕はうんこを掴んだ男として未来永劫語り継がれることになる。ウンコマンに匹敵する不名誉、むしろ新境地を切り開いた先駆者パイオニアになるのではなかろうか。


 僕は何度も深呼吸し、ようやく決心を決める。6年2組全員が見守る中、床の上のブツにゆっくりと手を伸ばした。


 そしてティッシュ越しに指先が表面に触れようとした、まさにその時だった。


「うんこちゃーん!」


「ばっちーい!」


 調子ノリの一部男子が煽るように声をあげる。不意をつかれた僕は「うわ!」と驚き、つい指先に力を強く入れてしまった。


 普通、成分のほとんどが水分であるうんこを強く圧迫した場合、どうなるか想像してみよう。言葉にするのもイヤだが、ぶちゃっと、つぶれてしまうのが世の常だろう。


 だが、僕は「あれ?」と指先の感触を何度も確かめる。そして確信した、これはうんこではない!


 崩れないのだ。柔らかくふにゃふにゃしてはいるものの、形自体が崩れることはない。


 少し持ち上げてみても元のバナナ形を維持している。もしこれがうんこなら、粘りが重力に負けて変形したり折れてしまうだろう。


「これ……」


「先生がうんこ触った!」


 見計らったようにハルキが声に出す。たちまち調子ノリの男子を中心に「いええええい!」だの「えんがちょおおおん」だのと楽しそうに歓声が上がった。


「違うよ!」


 僕は鋭い声で騒ぐ連中を鎮め、手にした茶色の物体を高々と掲げる。


「やっぱりこれ、どう考えてもうんこじゃないよ」


「嘘だ、うんこだろ!」


「ほら、うんこならこんなことできないでしょ。全然形が崩れないんだ」


 ぶらぶらと振り回したり、軽く力を込めてみたり。多少の力を加えても無事なことを全員に見せつける。


 何をされても形を保つ物体を見て、みんな「ほ、本当だ」とざわつくと同時に「なぁんだ」と少し残念そうに言う。内心はうんこであって欲しかったのだろうか、まあそっちの方がおもしろいし。


「うんこだけど!」


「うんこじゃなかった!」


「うんこだけど!」


「うんこじゃなかった!」


 男子ふたりがシンクロしながら嬉しそうに声を出す。こいつらはハルキに次ぐクラスのお騒がせ野郎だが、何の真似だ?


「正しくはうんこのように見えるけどうんこじゃない、だね」


 こうして無事、うんこでないことは皆納得してくれたようだ。だがそうなると次の問題が浮かび上がる。


 このうんこのような物の正体は、一体何だ?


 改めて顔に近付けてよく確認する。においはしないが、水を吸っているのかティッシュが湿ってきている。


「何だろう……ちょっと硬いかも」


「きっと便秘なんだろ」


 相変わらずうんこ説を主張し続けるハルキが口を挟むが、そういうわけではない。まるで味噌汁に入れた麩が、一度水を吸ってさらに時間が経ったような感触だ。


「うんこみたいだけど、うんこじゃないもの……みんな、思い付かない?」


 不意に僕がクラスの皆に訊くと、大多数が「うーん」と頭をひねらせ始めた。


「バナナ、チョコレート」


 惜しい、けど違う。


「揚げパン、エクレア」


 あと一息。


「かりんとう」


「それだ!」


 僕はポンと手を打った。


「思い出した、昔テレビで見たよ。かりんとうは水を吸ったら、うんこみたいな外見になるんだ!」


 誰かが「昔って、何年何月何時何分何秒だよ」と口を挟むが、論題はそこではないので無視しておこう。


「なるほど、だから臭いもしなかったのか」


 きだっちがほっと息を吐く。うんこでないとわかり、晴れて冤罪を証明できたことに安心しているようだ。ただすかしっ屁の常習犯であることに変わりはないから、どの道クラス内での扱いがひどくなるとは思うがな。


「でもよ、どうしてかりんとうがここに落ちてんだ?」


 椅子に座り、机に顎を載せたハルキがつまらなさそうに聞いた。すでにうんこでないとわかって興味を失ったのだろう。


 たしかに、駄菓子屋ならともかく学校内にかりんとうを買える店は無い。


「何でって……あ!」


 そこで僕は思い出した。かりんとうといえば、つい最近見た覚えがあるぞ。


「伊藤さん、昨日おみやげ配ってなかった?」


 突然の質問に伊藤さんは少しばかり戸惑ったものの、すぐさま答える。


「え、うん。この前家族で浅草に行って……あ!」


「そうだよ、おかきとかりんとう、配ってたよね?」


 ついこの前の休みの日、伊藤さんは浅草に行った。そのおみやげとして給食の時間に、かりんとうとおかきを配っていたのだ。


「そのかりんとうか!」


「ほら見ろ、俺じゃなかっただろ」


 きだっちがえへんと胸を張る。


 だがそんな彼の誇らしげな様子など誰も見ていなかった。男子たちは思わず生まれてしまった新しい『標的』を、おもしろおかしくからかい始める。


「伊藤、お前きだっちになすり付けてんじゃねえぞ」


「そうだぞ、お前のかりんとうのせいで、きだっちがどれだけ嫌な思いしたと思ってんだ」


「やーい、かりんと伊藤」


 なんという手の平返し。お前たちだってきだっち責め立ててたじゃないか。


「何よ何よ、みんなして寄って集って!」


 顔を真っ赤にした伊藤さんはぶるぶると全身を震わせていた。クラスの女王としてなんたる屈辱、だが決して涙を見せない彼女の気丈さは脱帽物だ。


「ちょっと男子、女の子いじめてんじゃないわよ!」


「そうよ、だいたい最初に騒ぎ出したのはあんたたちでしょ!?」


「何だよ、お前たちだっていっしょになってうんこうんこ言ってただろーがよ」


 そして勃発してしまった男子女子戦争。今年に入ってからはもう第30次くらいかな?


「にしても、何でかりんとうが水吸ってんだろ?」


 すぐ近くで繰り広げられる言い争いを聞き流しながら、僕の手にしたかりんとうを見ながら、きだっちがぽつりと漏らす。


「たしか配られたのって、給食の時だったよね」


 なぜその時のかりんとうが今ここに? 僕はぼうっと中空をながめながら、当時のことを思い出す。




「眉毛」


 机を班ごとに島状に合わせて給食を食べていると、かりんとうを使ったハルキのくだらない一発芸に男子一同がぎゃはははと笑う。


「いいからさっさと食べなよ」


 ちょうど食後の歯磨きを終えて戻ってきた僕は呆れながら言った。


 誰よりも早く図書室に行くため、僕は給食をいつも早く済ませている。当然おかきとかりんとうも完食済みだ。友達とべらべらしゃべってばかりのハルキは僕が教室に戻った時点で、味噌汁とかりんとうを残していた。


「ちえっ……と、ピノキ……あっ!」


 ネタに走るばかりに加減を誤ったのか、ハルキの手からかりんとうが滑り落ちる。そして無情にも、甘そうなかりんとうはまだ残る味噌汁の容器にダイブしてしまったのだった。


「あーあ、もったいない」


「あとで水で洗ったら食えるだろ」


 そう言ってハルキは水没したかりんとうを手でつかんで引き揚げた。小学生独特の謎味覚、特に低学年の頃は味噌汁に牛乳混ぜる奴とかいるよな。


「バカだなハルキは。とりあえずほら、これ使いなよ」


 僕は今しがた使ったばかりの歯磨き用のコップを差し出した。持ち手のついてない、緑色のプラスチック製だ。


「サンキュー先生」


 ハルキは味噌汁に濡れたかりんとうを一時避難させるため、受け取った僕のコップにかりんとうを放り込む。自分のコップはまだこれから歯磨きで使うので、使った後に返してもらえればいい。


 そして残った味噌汁を飲み干したハルキが自分の歯磨きコップとかりんとうを入れた僕のコップ、両方を持って教室を出ようとしたときだった。


「おいハルキ、昼休みサッカーしようぜ」


 すでにサッカーボールを持ってスタンバイしている男子の提案に、ハルキは「お、いいね!」と廊下を駆け出す。さっさと歯磨きを済ませてサッカーに加わるつもりらしい。


 そして再び教室に帰ってきた時、ハルキが手にしていたのは自分の歯磨き道具一式、そしてすっかりどぼどぼに水のしたたるかりんとうを入れた僕のコップだった。洗うというよりは、流水で余計に濡らしてしまっただけのようにしか見えない。


「待てよ、今日こそ俺のハットトリック見せてやるからさ!」


 そう言ってハルキは窓際の長机に僕のコップを置くと、またも教室を飛び出したのだった。


 まあいつものことだと僕はため息を吐く。そしてコップは後で返してもらえればいいかと、そのまま図書室に向かったのだった。


 その後、水に濡れたかりんとうはとコップのことはすっかり忘れ、そのまま窓際で放置され続けた。


 そして放課後、解放されたハルキたちがいつものように――。




「まさか!」


 ぎゃんぎゃんと暴言をぶつけまくる男女陣営の真ん中を突っ切り、僕は窓際の床に顔を擦りつけた。


「どうしたんだよ、先生?」


 僕の行動が気になったのか、男子軍も女子軍も一旦休戦して僕の背中を見つめる。


 そして目当ての物はあった。窓際に置かれた長机の下に、緑色の僕のコップが隠れるように転がっていたのだ。


 つまりハルキがここに放置しておいた濡れたかりんとう入りのコップが、放課後の慌ただしさに巻き込まれて机から落下してしまったのだろう。


 水分を吸いまくったかりんとうはふやけ、まるでうんこのような見た目となった。一方でそれを入れていた僕のコップは落下の際に中身だけを飛ばして机の下に転がり込んでしまったのだ。もしもかりんとうのことをハルキか僕が覚えていたら、こんな珍事には発展しなかっただろう。


「あ、原因僕だ」


 ころっと小さく口から滑り、てへっとわざとらしく笑ってみせる。


 だがそんなちょっとしたミスを、うちのクラスメイトが見逃すはずが無かった。


「先生だったのかよ!」


「うんこの原因先生じゃないか!」


「なんだ、先生がやったことだったのかよ」


 真相が解明され、一斉に呆れかえる6年2組男子一同。


「あーあ、朝からいらないエネルギー使った気分だわ」


 一方の女子は疲れ切ったようだ。6年生にもなって下ネタで騒ぎ過ぎたのを、少しばかり後悔しているようだ。


 だがいつまでもバカみたいに騒ぐ男子が約1名。


「あっはははは、うんこ先生!」


 ハルキだった。本当に小2の頃から進歩の無い奴だ。


「その呼び方やめてくれない?」


「うんこ先生やーい!」


 皆が散々飽きてもなお、こいつだけは元気にうんこネタにとびついている。


 だがその時、教室の誰もがしんと静まり返っていた理由について、入り口に背中を向けたハルキはまったく気付いていなかった。


「ほう、先生のことをうんこ呼ばわりとは、なかなかいい度胸してるじゃないか」


 ハルキの顔がさっと青ざめる。そしてゆっくりと振り返ると、すぐ後ろでこめかみに青筋を浮かべて立っていた『本物』の先生を見て固まるのだった。


 うちのクラスの担任はごつくて強面、そしてそんな見た目とまったく期待に違わぬ中身の持ち主だ。


 先生の大きな手がハルキの頭をがっしと鷲掴みにし、そのままずるずるとハルキの身体を引きずる。


「ハルキ、ちょっとこっち来い」


「あああああ、違うんです、これはすべてうんこが、うんこが!」


 必死に弁解するハルキだが、それが聞き入れられることは無い。ハルキは悲痛な声を挙げながらそのまま廊下の向こうまで引きずられ、やがて声さえも聞こえなくなってしまった。


 教室から連行されていったハルキを見届け、黙り込んだ6年2組。残された全員の視線は、なぜか僕に向けられていた。


「ま、まあ、その……何だ」


 28人の何とも言えない顔をぐるりと見回し、僕は苦しまぎれに言葉を続けた。


「真実が解けて良かったね」


「良くねえよ!」


 きだっちが後ろから蹴りを入れ、僕は「うわあ」と倒され、同時に教室がどっと沸き立つ。不本意な結果になってしまったが、まあ丸く収まったので良しとしようか。


 こうして6年2組はハルキという生贄によって、またいつもの日常が戻ったのだった。

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