人見知り姫は鈴を鳴らす
ミンディ
第1話
泣くな、馬鹿。
誰かが言う。
無視するな、と言う。
ちゃんと口をききなさい、と言う。
誰かが。
そう言う。
違う、ただ言っているわけじゃない、怒鳴っている。
怒鳴って、叩いている。
体が、痛い。
何を話しても、聞こえていない。
心が、痛い。
もう、何人目かもわからない誰かが。
ただ、その子どもは、しっていた。おぼえていた。
そして忘れようとした。
わすれられなかった。
最初の二人は、彼女のりょうしんだったのだ、と。
彼女は、自分の声を嫌っていた。
何もつたえられないそれが、きらい。
ことり。
塔の中の姫君_________アリスは、本を置いて立ち上がった。
決まりごとなのか、お情けなのか。一冊だけ差し入れられたその本は、子ども向けの童話集だ。
簡単なものである。そらんじるまでとはいかないが、あらかた覚えてしまうほどには。
「困った。」
なんとも悲壮な顔をして、姫君が言う。
この一冊を読み返して耐えてきたのだが、もう限界だった。ここに連れてこられてから三日目になる、その日の夕刻。
「本が、足りん。」
言葉遣いがおかしくなったのも仕方がない。禁断症状なのか、部屋の端から端へ、行ったり来たりするという悪癖が出始めたのである。もっとも、人が一人寝転べるくらいの小さな部屋では目が回るだけだったが。
そうしてぐるぐる考え、ぐるぐる歩き………。ばたりと倒れた後。
深い青の瞳を爛々と輝かせ、姫君は再び立ち上がった。
「試してみるべきか。」
これまた小さな、ちいさな、鉄格子のはめられた窓に目を向ける。だがしかし。すぐに肩を落とすと、呟いた。
「駄目に決まっている。」
何が駄目って。ごくごく普通の教育を受けた姫君が、逃亡して図書館に行くなんて無理だ。アリスはごくごく普通ではないかもしれないが、それでも無理だ。冒険小説の主人公ではあるまいし。
それに、騒ぎを起こしたら迷惑になる。我侭なんていけない。
待とう。すぐに慣れる。小さい頃と、そう変わらないのだから。
きっと。
だがアリスは思う。
昔から、諦めるのは早かった、と。
一週間前。
第二王子が、実兄、つまり王太子暗殺を実行しようとした。
詰めの甘い計画は、あっという間に破綻する。
本人は牢へ。
そして三日前。
十六歳だった一人娘も厳重な監視下に置かれることになった。王宮の片隅にある塔で。
とんだとばっちりかもしれないが、当然の判断といえる。
具合の悪いことに、かの姫君は、薬草研究やら剣術の稽古やらに打ち込んでいたから。
彼女の父が企んでいたのは毒殺だったそうな。
つけ加えるなら、その第二王子の一人娘の名はアリスであった。
その時、アリスは何も思わなかった。
目の前に、明け方の薄闇に輝く剣が、ずらりと並んでいても。
そうなるだろうと、彼女は分かっていたから。
父親が捕らえられたと聞いてから。
驚きもせず、悲しみもせず。
淡々と、出て行くことになるであろう自室を片付けて、待っていた。
ただ、そこに、許婚で同僚だった、従兄の姿を見つけて、無表情な騎士を見つけて。
刺されたような痛みを感じただけ。
また会うことも知らず。
彼の名は、ルー_________ルー王子といった。
そうして、話は現在に戻る。
こつり。
部屋の外から響く足音に、アリスは振り向いた。長らく切っていない黒髪が、くるりと舞う。
「入ってもいい?」
軽いノックとともに聞こえてきたその声に、彼女の動きが止まった。いつものように凍りつく喉のかわり、震える手で、手近な鉄格子を叩き返す。
それから間もなく。がたごと音を立てて、重たげな木の扉が開けられた。
「久しぶり。」
明るく話しかけるその青年は、ルーだ。足元しか見ていないけれど、多分。
古びた灰色のドレスの裾をつまみ、膝を折って礼を返す。
「アリス。」
何も話さないのを咎められるのか。
「アリス。」
父親のことで責められるのか。
「アリス。」
彼にも、あの毒を作ったと疑われるのか。息が止まりそうだったけれど。
「アリス。大丈夫だって。」
一つだけ年上の従兄の、思いのほか優しい声と温かい手が、彼女に届いた。
「そんなに怖がらなくてもいいだろ? ちょっと前まで、同じ騎士団にいたのに。」
「………今は違います。」
「言葉遣いまで変えるなよ。」
すぐ大笑いするところも、頭をなでる癖も変わっていない。
だから、掠れたちいさな声だけれど、姫君も返事を返せた。
翌日。
アリスのもとに現れたルーは言った。
「おはよう、アリス。」
なぜか、銀の鈴と、紙の束、鉛筆を持ってきた彼に、姫君は首を傾げた。昔のようだ。
騎士は言う。
「昔に戻ったみたいだな。」
そうして、昼寝をする猫のような、やわらかい笑みをうかべた。
ほんの一瞬、姫君も微笑んだ。もっとも、すぐにいつもの無表情に戻ってしまったけれど。
いつの間にか、塔に忍び込んでいた黒猫がないた。
にゃあ。
暖かい冬の日の午後。
ありがとう、と書かれた紙が舞った。
翌日。
小さな鈴が、りーんと鳴って、がたごと扉が開けられた。
彼女は好きだった。
「アリス」と名前を呼んでくれて。
どんな理由があったにせよ、笑って話しかけてくれた彼のことが。
ただ、どれほど嬉しくて、楽しくて、愛おしかったのかを。
つい先日まで彼女は知らなかったのだ。
真っ暗闇に落っこちて、どん底にごーんとぶつかるまでは。
おそろしいとしか思えなかった実の両親か、そもそもいないきょうだいか。
そのかわりを求めていただけなのかも、しれないけれど。
初めて胸の痛みを知るくらいには、好きだったのだと。
アリスは思う。
これだけは、と。
だから彼女は決意した。
とある春の日。
自分が塔を出て行くと、知らされたときに。
想いを告げようと。
優しい従兄へ。
かつての許婚へ。
かつて、ともに剣を振った同僚へ。
「ルー。好きだ。」
と、姫君は王子に言った。
すこしくだけた言葉遣いで。
ただ、自分の、こえで。
この前の冬。
第二王子が、王太子暗殺に失敗した。
彼は牢へ。
疑いの晴れた一人娘は、王太子の家に引き取られた。
その家の一人息子が、そう願ったそうな。
かつて、王と王妃がいた。
よく笑う優しい彼と、黒髪に青い瞳の彼女は、大変 仲が良かったそうな。
今は昔。
「アリス。」
とある夏の日に、ルーが言った。
「はちみつ漬けのレモンだ。」
「まあ。美味しそう。」
「母上特製だからな。あの人は意外に料理が上手い。」
ひと口食べた姫君が微笑む。
「本当だ。」
傍らの騎士も、穏やかに笑う。
「そうだ。」
ふと、思い出したようにルーが切り出す。
「この猫、家で飼わないか?」
アリスの膝の上にふてぶてしく寝転がる黒猫を指す。
「いいの?」
きらめく青い瞳をした彼女は問うた。
「ああ。許可は取ってあるし、俺も猫は好きだ。」
「良かった。最高に嬉しい。」
ふわふわの毛玉をなでながら、アリスが言う。
「ありがとう、ルー。」
「どういたしまして、アリス。」
猫と恋人たちの休日は、今日も平和である。
姫君が微笑む。
騎士が笑う。
黒猫がなく。
にゃあ。
人見知り姫は鈴を鳴らす ミンディ @Mindy
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