第93話 「それは甘く苦い何か」
例えようのない気持ちになった。
気が動転しているせいかもしれない。
もしくは慣れていないだけなのかもしれない。
何に? それは甘く、苦い“何か”だ。
そして混乱しているのは、どうやら僕だけじゃない。
傍らで話を聞いていたアメリアも、豆鉄砲を食らったかのような顔をして固まっていた。
呆れているのだろうか? それとも驚いているのだろうか? 見ただけではわからない。
やがて僕は、閉じていた口をおもむろに開けて、今一度マリンに尋ねた。
「ぼ、僕のことが“好き”って、それ……ほ、本当のことなのか?」
自分で言って、少しだけ恥ずかしくなる。
それでもなんとか言い切ってみせると、マリンはやけくそ気味に頭をくしゃくしゃと掻いた。
「そんなの私の方が知りたいわよ! なんでよりによってあんたなのよ! あんたテレアにいったい何をしたのよ!?」
「し、知らないよそんなの。僕だって好かれる覚えなんてまったくないんだから」
むしろこっちの方が知りたいくらいだ。
テレアが僕のことを好き?
何かの間違いではないのか?
それともやっぱりこいつらは、僕のことをからかいに来ただけなのではないか?
と、さすがに疑いの眼差しを向けると、ふとテレアが顔を伏せたまま、ぼそりと呟いた。
「……手を、差し伸べてくれた」
「えっ?」
「流されるままに、生きてきたボクに、手を伸ばしてくれた。もう、人に流されるなって言って」
「……」
そ、それだけ?
確かにテレアにそんなことを言った覚えがある。
魔王リリウムガーデンとの死闘の末、拐われたテレアを無事に救出した後、説教くさい感じでそう声を掛けた。
もう人に流されるな、と。
でも、たったそれだけのことで僕に好意を持ってくれただなんて、にわかには信じられない。
そう怪訝に思っていると、テレアが伏せていた顔を僅かに上げて、上目遣いで僕を見てきた。
「そんなこと、言ってくれる人、ずっといなかったから。だから、その……嬉しかったの」
瞬間、テレアの新雪のように真っ白な頬が――
まるで、季節が逆戻りするように、紅葉色に染まった。
「あぁぁぁ――――!!! ノンにテレアを寝取られたぁぁぁ!!! 私の可愛いテレアがぁぁぁぁぁ!!!」
「ちょ、うるさいうるさい! 朝っぱらから騒ぐな! ていうかテレアは別にお前のもんじゃないだろ」
いきなり発狂したマリンに、僕は呆れた視線を向けずにはいられなかった。
急に叫ばないでほしい。
こっちだって色々と混乱している最中なのだから、これ以上動揺を誘うようなことはしないでくれ。
ていうか寝取られたって、人聞きの悪いこと言うな。
「と、とりあえず、何が言いたいのかはよくわかったよ。で、でもさ、テレアが僕のことを、その……す、好きになったからって、なんで聖女の天職が消えちゃったんだよ? 別に全然、聖女らしからぬことをしたとは思えないんだけど」
僕は改めて状況の整理をしようとする。
テレアの気持ちはよくわかった。
でもどうしてそれだけのことで、聖女の天職を失ってしまったのだろうか?
その気持ちと天職を失ったことは、別に関係しているとは思えないんだけど。
なんて不思議に思っていると……
「あ、あのぉ……」
「んっ?」
不意に傍らで、手を上げる人物がいた。
なんとそれは、記憶を失っているはずのプランだった。
なんだか恐る恐るといった様子で右手を上げている。
なんでしょうか? と視線だけでそう問いかけると、プランは控えめな様子で話を始めた。
「お、お話しを聞いている限りなんですけど、天職が消えてしまう原因は、その天職に不釣り合いなことをしてしまったから……で、合ってますか?」
「う、うん。それで合ってるよ」
「それで、聖女さんというのは、どんな人にも等しく愛を持って接する清らかな女性……で、間違いないですか?」
「うん。そうだと思うけど……」
今の会話だけでそこまで理解できたのか。
記憶を失っているはずなのに驚異的な理解力である。
素直にすごい……と思っていると、プランは依然として控えめな様子で、自分なりの意見を提示した。
「で、でしたら、もしかしたらなんですけど、『誰か特定の人を好きになってしまう』のは、不平等というか、聖女さんらしからぬこと……なんじゃないですか?」
「……」
特定の人を好きになってしまうのは不平等。
一人の人間に対して多大な愛情を注いだ時点で、等しく愛を持って人々に接することができなくなってしまう。
確かにそれは、『聖女らしからぬ行為』に違いないかもしれない。
じゃあやっぱり、僕のことを好きになってしまったから、聖女の天職を失ってしまったということなのだろうか?
マリンを見ると、その通りだと言わんばかりに、ムスッとした顔を僕の方に向けていた。
次いで彼女は、ため息まじりに僕に言う。
「だからあんたの協力が必要だったってわけ。私たちがこの治療院に来たのはそれが理由よ」
「……なるほどな」
「それで、テレアの天職を取り戻すのに協力してもらえないかしら? テレアの聖女の力さえ戻れば、ルベラとシーラを元に戻すこともできる。それならあの変な魔族の魔法にも対抗できるようになるし、次は絶対に勝つことができるわ」
だからお願い。
と、実際に口にはしなかったけれど、いつも以上に真剣な眼差しをこちらに向けて、視線だけでそう伝えてきた。
ふむ……
「あぁ、別にいいよ。こっちもテレアにお願いしたいことがあったし、テレアの天職がなかったらものすごく困るからな。ただその代わり、天職を取り戻せた暁には、こっちのお願いも聞いてもらっていいか? 治療費の代わりとしてさ」
「え、えぇ、もちろんよ」
マリンは鈍い頷きを見せ、次いでチラリとテレアの方にも視線を振った。
テレアも、特に何も言わなかったけれど、こくりと微かな頷きを見せてくれた。
二人の了承は得られた。
というわけで僕は、テレアの聖女の天職を取り戻すために、勇者パーティーの依頼を引き受けることにした。
……んだけれど、具体的に何をしたらいいのかいまいちわからないな。
僕のせい、と言えば僕のせいなんだろうけど、だからって僕から何かアクションを起こして解決できる問題なのだろうか?
「んー、どうやってテレアの天職を取り戻したらいいんだろう?」
思わず唸り声を漏らしながら首を傾げる。
するとマリンが、まるで『待ってました』と言わんばかりに、急に胸を張って笑みを浮かべた。
「ふっ、そんなの簡単よ。テレアがあんたのことを好きになって天職が無くなったなら、あんたのことを“諦めさせれば”いいのよ」
「あ、諦めさせる? でも、それって具体的にどうすれば……」
という僕の素朴な疑問に、マリンはズバッと答えてみせた。
「フリなさい。今すぐテレアのことを」
「へっ?」
「『僕はあなたのことが好きじゃないからお付き合いはできません』って言って、テレアのことを完全にフればいいのよ。そうすればテレアはあんたのことを諦めて、『聖女』の天職が元に戻るわ。まさに一石二鳥の作戦よ」
「……どこに二羽目がいたんだ今?」
まったく一石二鳥じゃないだろ。
ともあれ、その作戦については一応理解できた。
確かにそうすれば聖女の天職が戻る可能性はありそうだな。
と思っていると、傍らのアメリアが前触れもなくその作戦に同意を示した。
「ふふっ、なんだなんだ簡単ではないか。そんなことで依頼が達成できるならお安い御用だな。ほらノン、さっさとその聖女の娘をフってしまえ。一言でバッサリとフってしまえば、あっさりと諦めてくれるに違いないぞ。さあやるのだ今すぐに」
「う、うん、わかった……けど。なんでそんなにノリノリなんだお前」
まあいいか。
とりあえず僕は気持ちの丈をテレアに伝えることにする。
そうすることで、テレアの中にある感情を変化させ、僕への想いに諦めをつけさせようとした。
「テ、テレア、急にこんなこと言われても、なんだかよくわからないだろうけど、あの……僕はあなたのことが、その……す、好きじゃないから……おつ、お付き合いは……」
「……」
マリンに言われた通りの台詞を復唱しようとする。
しかしすんでのところで、意図せず言葉が詰まってしまった。
なんとか喉から絞り出そうとするけれど、これがなかなかに難しい。
恥ずかしさはもちろんなのだが、何というか例えようのない罪悪感みたいなものが、否応なく込み上げてくる。
というか……
「だあっ! やっぱり無理だこれ! 告白もされてないのに相手をフるなんて絶対に無理! 意味わかんないもん! 自分で何してんのか訳わかんなくなってきた!」
「はあっ!? 何言ってるのよあんた! さっさとテレアをフリなさいよ! じゃなきゃ『聖女』の天職が元に戻らないじゃない! これは世界の滅亡が掛かってるかもしれないのよ!」
「そうだぞノン! さっさとフって可能性の一つを確実に潰しておけ! お前の周りにはただでさえ女が多いのだからな!」
マリンとアメリアがものすごい剣幕で僕を責め立ててくる。
そんなこと言われても無理なものは無理なんだよ。
告白もされてないのに一方的に相手をフるとか、そんな超絶特殊なシチュエーションに出会したことなんて一回もないんだから。
本当に自分が何をしようとしてるのか、訳がわからなくなってしまった。
「あっ、それとも何よあんたっ!? まさかテレアのことが好きだから、ここでフるのは勿体ないとか考えてるわけじゃ……!」
「違うっつーの! どんだけ恋愛脳なんだよお前!」
別にテレアのことが好きで、彼女からの好意を無下にするのが勿体ないとか、そんなことを考えているわけでは決してない。
いや、女性陣から見たらそう捉えられても仕方ないんだろうけど。
ともかく、告白をしてきたわけでもないテレアをフるのは精神的に無理だ。
ていうか、今のやり取りを見ていたテレアが、特にこれといった反応を示していないところを見ると、そもそも作戦自体に問題があったのではないかと思えてくる。
どうやらマリンとアメリアも同じ結論に至ったらしく、再び首を傾げて別の作戦を考え始めた。
僕も頭を捻ってみる。
すると先にアメリアが、一つの案を提示した。
「ノンのことを好きになって天職が消えた。なら今度は逆に、ノンのことを嫌いになればよいのではないか?」
「嫌いに?」
「諦めさせるだけでは弱いように思える。それだったらとことんまで嫌われて、好きという気持ちを完全に消し去った方が、確実に天職が戻るのではないか?」
ふむ、なるほど。
確かに先ほどのマリンの作戦よりかは、確実性が高そうだ。
で、何か具体的に嫌われる方法があるのか? と視線だけで問いかけると、アメリアは得意げな様子で答えた。
「何かこの娘に嫌われるようなことを言うのだノン。なんでもいい。とにかくこの娘の癇に障る言葉や台詞を吐き散らし、好きという気持ちを完全に消し去るのだ」
「……って、言われてもなぁ」
言われてパッと思い付くものでもない。
言葉や台詞で嫌われるという発想は悪くないけれど、残念ながら僕には悪口の才能がないのだ。
的確に少女の心をえぐる悪態をつける自信がない。
ともあれ、一応考えてみる。
嫌われるようなこと、嫌われるようなこと……
「んーと、えーと……」
必死に考えた。頭を捻り回した。テレアに嫌われる悪口を絞り出すために。
そして数十秒の思考の末、僕はたった一つの答えを導き出した。
女性に嫌われる最上級の悪口。
これが一番効果的に違いない。ていうか絶対にこれしかない。
僕は意を決し、テレアの童顔をじっと見つめながら、捻り出した悪態を吐きつけた。
「……ブ、ブース、ブース! このブス女!」
「……」
テレアは、何も言わなかった。
怒ることも、呆れることも、泣いたりすることもなく、ただぼんやりと僕の目を見返している。
ダ、ダメなのか?
今の悪口では、嫌われることができなかったのだろうか?
と思いきや、まったく予想外の方向から怒声が上がった。
「誰がブスよこのクソゼノン! 私のテレアのどこがブスだって言うのよ! もっぺん言ってみなさいよ!」
「あぁもう、ややこしくなるからお前は出てこないでくれ!」
テレアじゃなくてマリンが怒ってどうすんだ。
お前に向けて言ったわけじゃないのに。
すると今度はアメリアが、呆れた視線を僕に向けてきた。
「幼児かお前は。もっとマシなことは言えないのか。どんな悪口のセンスをしておるのだ本当に」
「し、仕方がないだろ。いきなり嫌われるようなこと言えって言われたって、パッと出てくるもんじゃないんだよ」
なんだったらお手本でも見せてもらいたいものだ。
しかしテレアに嫌われるためには自分で考えるしかないと思い、僕は仕方なく幼児並の悪口で罵り続けることにした。
「ブースブース、このドブス! 無表情女! 地味頭! えっと、コミュニケーション障害!」
「おっ、今のは良い感じだぞノン。その調子だ」
よ、よしっ、こんな感じでいいのか。
少しずつだけど感覚が掴めてきたぞ。
この調子で行けば、いずれはテレアの心に突き刺さる悪口を言えるに違いない。
そうすればテレアは僕のことをとことんまで嫌いになって、聖女の天職も元に戻るはずだ。
このまま押し切ってやる! と、勇んで悪態をつき続けようとした、その刹那――
「……?」
見間違い、だろうか?
僅かに俯きがちなテレアの顔が、火照るように赤らんでいた。
最初は僕の悪口に対して怒っているのかと思った。
計画通り気持ちを揺さぶって、“好き”という気持ちが“嫌い”という感情になりかけているのかと。
けれど、たぶんそうじゃない。
「……んっ」
テレアの閉じた唇から、微かに声が漏れ出ている。
もじもじと華奢な体をよじって、時折小さな肩をビクッと揺らしている。
決定的だったのは、いつも眠そうに半開きになっているつぶらな瞳が、今は幸せそうにとろんと緩んでいた。
これは怒っているとか恥ずかしがっているのではなく、誠に信じがたいことに……
「……よ、喜んでおるのかこの娘?」
そう、悪口を言われて喜んでいる。
気分を害すどころか、むしろ心の底から舞い上がっているように、僕たちの目には映った。
ゆえに、サキュバスのアメリアも、さすがに慄いた表情で、『とんでもない変態だ……』と我慢できずに呟いていた。
今回ばかりは僕も、彼女のその意見に同意せざるを得なかった。
悪口作戦失敗です。
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