第83話 「癒やしの光」

 

 視界が真っ赤に染まっていた。

 血塗られたように濃い赤色が一面に広がっており、辺りの景色がぼんやりとしか認識できない。

 おまけに耳に届く音も、水の中にいるようにくぐもって聞こえてくる。

 いつ頃からだろうか。あまりよく覚えていない。

 坑道に入り、たくさんの魔物たちと遭遇したところまでしか、アヤメの記憶は残っていなかった。

 否、記憶だけではない。

 意識そのものも、今はどこか遠くの場所にあるように思える。

 そんな不明瞭な意識の中、アヤメは動くものを自然と目で追っていた。

 そして視界に捉えるや、右手に握った“果物ナイフ”で切り刻んでいく。

 魔物の大群と遭遇したという最後の記憶に従って、今のアヤメは目に映るすべてのものを“敵”として認識していた。

 また一匹、魔物を一撃で葬る。

 すると次に、ジャリッという足音が後ろの方から聞こえてきた。

 アヤメは反射的に振り向く。

 視界の先には、薄闇の中に佇む一つの“人影”があった。

 人の影、なんだろうか?

 視界が真っ赤に染まっていて、よく見えない。

 よく見えないけど、たぶん“敵”だ。

 敵だから、すぐに倒さないと。


「ア……アアッ!」


 人が熱いヤカンに触れ、咄嗟に手を引いてしまうのと同様。

 アヤメは動くものを視界に捉えた瞬間、即座に始動していた。

 ナイフを構えて洞窟を走り出す。


「――! ――っ!!」


 影は何かを言っているみたいだったが、アヤメの耳には雑音にしか聞こえなかった。

 いや、雑音というより、言葉が理解できないと言った方が正しいか。

 不明瞭な視界同様、頭の中もぼんやりと霞がかっている。

 普段のように思考がまとまらなかった。

 今の彼女の頭にあるのは、『目の前の敵を倒す』という一心のみ。


「ガ……アアッ!」


 アヤメは凄まじい速度で人影に肉薄すると、先刻と同様に躊躇いなくナイフを振るった。

 たとえ果物ナイフでも、使い手の技量によって恐ろしい凶器に化ける。

 事実、アヤメの振るったナイフによって、凶悪な魔物たちがそこら中に切り伏せられていた。

 しかし、目の前の人影は、目覚ましい反応速度によって紙一重でナイフを回避した。

 避けられたとわかった瞬間、素早くナイフを引いてまた振りかぶる。

 息つく間もなく二撃目の突きを放つと、これまた人影は攻撃を躱した。

 偶然ではない。連撃を避けられてそうと確信し、アヤメはぼんやりとした頭ながらも驚愕した。

 かなりの実力者だ。倒すのは容易ではない。

 アヤメは一層力強くナイフを握ると、今度は手脚も使って乱撃に打って出た。

 左拳、右脚、左脚と次々と殴打を繰り返す。

 人影は反撃してくる様子がなく、ただその連打を受け流すようにあしらい続けた。

 だがさすがに、アヤメの全力攻撃をすべて綺麗に躱すことは叶わなかったようだ。

 人影に一瞬の隙が見える。

 ここなら刺せる。

 アヤメはすかさず右手のナイフを突き入れた。


「アアッ!」

 

 ナイフの先端が人影の胸元に触れる。

 殺した! そう確信した刹那――


「――っ!」


 人影は咄嗟に体を捻り、胸に刺さるはずだったナイフを左肩までズラした。

 ずぶりという鈍い感触がアヤメの右手に伝わってくる。

 一撃で殺すことはできなかった。

 だがそれでも、かなりの深傷を負わせることができた。

 右手に伝ってきた感触のみで、アヤメは勝利を確信した。

 しかしその後、目の前に佇む人影は、足を一切引かずに、むしろアヤメの方へ近づいてきた。

 ずずっと、より深くナイフが刺さっていく。

 通常の人間ならば、肩にナイフが刺さった時点で即座に抜きたくなるはず。それが当然の心理だ。

 だけどなぜかこの人影は、肩の深傷を無視してアヤメに近づいてきた。

 驚くアヤメをよそに、その人影はおもむろに右手を上げる。

 そしていきなり、アヤメの傷だらけになっている左手首をガシッと掴んできた。


「――!」


 その瞬間、奴は何かを唱えた。

 何らかの抵抗をするつもりなのか?

 そうと訝しむアヤメの目の前で、人影の右手に淡い“光”が灯った。

 薄暗い洞窟内をほのかに照らしてくれるような、白くて愛おしい光。

 その光は驚くほど温かく、それでいてとても、優しかった。

 アヤメの左手首についていた深い切り傷が、一瞬のうちに塞がってしまう。

 とめどなく流れていた血が完全に止まると、同時に冷たくなっていた体が熱を取り戻した。


「ア……アアッ……!!」


 真っ赤に染まっていた視界が、次第に薄れていく。

 ぼんやりと霞がかっていた思考も、徐々に晴れていく。

 深い水の底にあったアヤメの意識が、空気を入れたように水面に上ってきた。


「ア……アアッ…………あっ」


 そしてアヤメは、人影の放つ言葉の意味を、ようやく理解できるようになった。


「――ヤメさん! アヤメさん! 大丈夫アヤメさん!?」


「ノ……ノンさん……?」


 言葉が理解できるようになったと同時に、視界も完全に正常に戻った。

 そして目の前にいる人影が、治癒師のノンであることに、遅まきながら気が付いた。

 思わぬ事態に脳が混乱する。

 頭の芯がズキッと痛む。

 

「わたし、どうなって……?」


 アヤメはおもむろに自分の体を見下ろして、思いがけずはっとした。

 服が血塗れになっている。

 魔物の返り血と自分の血によって、青いロングエプロンが真っ赤に染まっていた。

 それを見ただけで、アヤメはここで何が起きたのかすぐに理解した。

 同時に、自身の犯してしまった取り返しのつかない事態に気が付き、思わず血の気が引いた。

 なぜなら……


「ご、ごめんなさい……ノンさん……」


 自分の突き出しているナイフが、今もなお、恩人のノンの左肩に、深々と突き刺さっているからだ。


「ご……ごめん……なさい……本当に……ごめんなさい……」


 アヤメは震えながらナイフから手を放す。

 そのまま数歩だけ後ずさると、力なく地面にへたり込んだ。

 どれだけ言葉を尽くしても許されることではない。

 本当に自分は、なんてことをしてしまったんだ。

 頭を抱えて涙ぐむアヤメに対し、ノンは目線を合わせるようにゆっくりと屈んだ。

 そして肩口に刺さっているナイフなどないように、いつもの優しい声音で声を掛けてくれた。


「こっちの方こそごめんね。悪いと思ったんだけど、『診察』のスキルを使わせてもらったよ。それでもしかしたらと思って、回復魔法を掛けてみたんだけど、正気に戻ってくれて本当によかったよ」


 アヤメはビクッと肩を揺らす。

 端から聞いていたらどういう意味かさっぱりわからないだろうノンの台詞に、アヤメは強い罪悪感を覚えた。

 そしてノンは改めて確認をとるように、アヤメに言った。


「アヤメさんの天職は……『狂戦士』なんだね」


「……」


 まるで慰めてくれるようなノンの言葉に対し、アヤメは悪びれた様子で顔を伏せた。

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