第67話 「自傷」

 

「……はっ?」


 窓の向こうで真っ赤な鮮血が散る。

 目を疑う景色を前に、思わず僕は口を開けて固まってしまった。

 どうやら隣に立つプランも窓の奥を見てしまったらしく、ぽかんと間抜けな顔で立ち尽くしている。

 その後僕たちは、なぜか物音を立てないようにそぉーっと屈んで、窓よりも姿勢を低くした。

 二人して目に映った光景を再確認する。


「み、見間違い……だよな? 今、あの女の子、自分で自分の腕を……」


「み、見間違いに決まってますッスよ。そんな意味不明なことする乙女がこの世に存在するわけないじゃないッスか。き、きっと、シュワシュワベリーを擦り潰してジャムを作ってただけッスよ」


「そ、そうだよな。は、はは……」


 果樹園ならジャムを作っていても何らおかしくない。

 血だと思っていたのはベリーの果汁で、女の子は一生懸命それを搾り取っていただけに決まっている。

 現実逃避のような思考を巡らしながら、僕は再びすっと立ち上がり、窓の奥に目を向けた。

 どんな風にジャムを作っているんだろう、なんて呑気なことを考えながら。


「これじゃ、まだ足りない。もっと、モット……」


 またも少女の声が聞こえると同時に、『スパッ!』と赤い線が少女の腕に走った。

 生々しい赤色が散り、『ピチャッ』と目の前の窓まで付着する。


「ヒッ!」


 これには思わず、プランも口元に手を当て、小さな悲鳴を漏らしてしまった。

 瞬間、その声に反応するように、中の少女がぐるりとこちらを振り向く。

 薄暗いせいだろうか、彼女の目が充血したみたいに赤く染まっている気がした。


(あっ、これやばい――)


 ふとそう思った僕は、咄嗟にプランを片脇に抱え、その場から逃げ出していた。

 全速力で、木々を縫うように走る。

 出来る限り見つからないよう、少しでもあの小屋から遠ざかるように。


(やばいやばいやばいっ!)


 何がやばいかは説明ができないけれど、僕の勘が今すぐにここを離れろと訴えてくる。

 勇者パーティーにいた頃、似たようなことが何度もあった。

 まだマリンと旅を始めて間もない時、あいつとの実力の差が天と地ほどもあった。

 それなのにマリンはどんどんと魔大陸の奥地へと足を進めていき、それについて行くのが大変だったのを覚えている。

 強大な敵を前にして、平気そうなツラを浮かべているマリンと違い、僕はどんな時でも命懸けだった。

 そんな時に助けになったのが、恥ずかしながら『逃げ腰の精神』だ。

 勝機が見えたら戦うのが常人。勝機がなくても戦うのが勇者。敗色が窺えた時点で逃げるのが僕だ。

 勝率100パーセントは当たり前。1パーセントでも負ける可能性があるならマリンの後ろに隠れる。

 そうすることでなんとか生き延びることができた。

 その時に培われた勘が訴えてくる。『ここはやばい』と。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」


 一分ほど走っただろうか。

 そろそろあの小屋からかなり離れただろう。

 そう思った僕は、それを確かめるために後ろを振り向いた。


 すると、すぐ後ろに少女がいた。


「ヒッ!」


 今度は僕が悲鳴を上げてしまった。

 橙色のおさげ髪を激しく揺らしながら、片手に血の付いたナイフをぶら下げ、走って追いかけて来ている。

 前髪が長いため、どんな表情をしているのか窺うことはできないが、隙間から覗く眼光が確かに僕を捉えているのは理解できた。

 

(つーか速すぎだろこの子っ!)


 プラン抱えてるとはいえ、僕だってそれなりにはすばしっこいつもりだぞ。

 勇者パーティーでは敵から狙われやすい回復役を務めていたし、敏捷性はかなり磨かれているはず。

 加えてあの少女は小屋の中にいた状態からのスタートなので、開始時点ですでにハンデがあったはずだ。

 それなのにもうここまで……!

 心中で驚いている僕をよそに、少女はさらに加速した。

 瞬く間に追いつかれ、『ガッ!』と腕を掴まれてしまう。


(なんとか、プランだけでも――!)


 僕は咄嗟の判断で脇に抱えたプランを放った。

 その勢いで足がもつれ、こちらの腕を掴んでいる少女と共に転んでしまう。

 馬乗りに乗っかられて、身動きができない状態に持ち込まれてしまった。


(このままじゃ――!)


 確実に殺られる。

 いくら無詠唱で回復魔法が使えるからって、首を切り落とされたり心臓を一突きされたら治癒は不可能だ。

 即死したら回復魔法もクソもない。

 なんとかしてこの状態から抜け出さないと……


「ノンさん!」


 傍らに放ったプランが、地面に倒れながらもこちらに手を伸ばしていた。

 瞬間、彼女の手元に血の付いたナイフが突如現れる。

 代わりにおさげの少女の手からはナイフが消え、虚しく空気を握りしめていた。

 今のは、プランの『窃盗』スキル。

 対象者から無作為に物を奪うことができる、盗賊系のスキルの一つだ。

 器用さに応じて奪いたい物が盗れるという仕組みになっており、プランの類い稀な器用さを持ってすれば、欲しい物が必ず盗れるという反則級の技になっている。

 これでとりあえず刺殺の可能性はなくなった。

 しかし少女に馬乗りで押さえつけられている事態は変わらず、僕は冷や汗を滲ませて固まる。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」


 対して少女は走ったことで疲れたのか、顔を赤くしながら息を切らしていた。

 たとえ凶器を無くしたって、狂気はある。

 何をしてくるかわかったものじゃない。

 かといって、見知った少女を無情にも突き飛ばすこともできず、ただ下敷きになって硬直していると、やがて少女の口から細々とした声が漏れてきた。


「ち、違うんです……」


「……?」


「わ、私は、ただ……」


 治療院に来た時と、まったく同じ様子。

 怯えるように肩を窄め、そよ風に消え入ってしまいそうな声で彼女は話していた。

 てっきり別人かとも思っていたが、どうやら本人らしい。

 この子は間違いなく、連日のようにノンプラン治療院に足を運び、腕の怪我を治していたあの少女だ。

 そして少女は、いつもの震えた声で、意を決したように胸の内を吐露した。


「ち、治癒師さんにお願いしたいことがあって、こんなことをやってたんです」


「…………ど、どゆこと?」


 わけがわからなかった僕は、思わず釣られて半泣きになりながら首を傾げた。

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