第35話 「金の余裕は心の余裕」

 

 冷めた頭でもう一度よく考えてみる。

 どうして懐に入れたはずの財布がなくなっているのか?

 宿部屋を出る直前、確かに僕は袖の大きな服の中に財布を仕舞った。

 ゆえに部屋の中に忘れたという可能性は最初に除外される。

 となれば次の可能性は、どこかに落としたということになるはずだが……

 懐と財布の大きさから考えると、まず自然に落ちるということはないと思う。

 というか単純に落ちたのなら腰帯の部分に財布が引っかかっているはずだ。

 じゃあ、残された可能性は……


「……えっ? もしかして、スられた?」


 観光に夢中になるあまり、人ごみに紛れたスリにまったく気付かなかったのではないか?

 もうその可能性しか考えられない。

 むしろこの場所で財布を失くしたとなれば一番有力な可能性だろう。

 ここは有名な観光地であり、観光客が大勢押し寄せてくる。

 そういう懐の潤っている観光客たちを狙ってスリを実行している奴がいてもおかしくない。

 同じく財布がないと騒いでいたプランも、僕と同様の予想に辿り着いたようだった。


「えっ? じゃ、じゃあ、もしかしてアタシの財布も盗られたってことッスか?」


「……た、たぶん」


 紐で口を縛ってある布袋の中から、いったいどうやって盗ったのかは見当もつかないけれど。

 しかし二人して同時に財布を失くしたとすれば、もうそうとしか考えられない。

 温泉旅行で幸せな気分に浸っている中、僕たちは無慈悲にも財布をスられてしまったのだ。


「…………マジかよ」


 あまりに残酷な事実に、しばし僕はその場から動くことができなかった。

 やがて温泉卵の出店の店主さんから、心配されるような視線を受け、注文を出さずに店の前から退く。

 そして一度落ち着くために宿部屋に戻ることにした。

 その間、僕とプランは魂が抜けたように呆然とし、先ほどまでの浮ついた様子はすっかり鳴りを潜めてしまった。

 それから宿部屋に到着すると、一応確認のために部屋の中で財布を探してみるが、当然見つかることはなかった。

 今一度財布をスられてしまったことを理解すると、プランが信じられないと言わんばかりに掠れた声を零した。


「ひ、人の物を、勝手に盗む? 温泉旅行を楽しんでいる時に、その雰囲気を一瞬にしてぶち壊して、どこかでほくそ笑んでいる奴が本当にこの世に存在するんスか?」


「うんまあ、まさしくおっしゃる通りなんだけど、僕の記憶が正しければお前も似たようなことやってなかったっけ?」


 元盗賊団所属のプランさん?

 と、呆れた視線を向けると、不意に彼女は顔を真っ赤にしてこちらを振り向いた。


「み、見くびらないでくださいッス! アタシらがやっていた盗賊活動は人助けになっていましたし、誰かを一方的に貶めたり私利私欲のために盗みをしたことはないんスから!」


「す、すまんすまん、そういえばそうだったな」


 遅まきながらそのことを思い出し、手刀を切りながら謝罪をする。

 プランの所属していた盗賊団は、人から頼まれて盗みを実行していたホワイトな盗賊団なのだ。

 困っている人たちを助けるために活動をしていて、私利私欲のために盗みを働いていたわけではない。

 まあ、それはいいとして、僕は今一度話を戻すことにした。


「ていうか、マジでこれからどうすんだよ? 財布の中には持ってきた金が全部入ってたんだぞ? これじゃあお土産どころか飯も食えねえし、何なら帰りの馬車の運賃だって払えないぞ」


 どうやって治療院まで帰ればいいんだよ?

 そう言うと、プランも同様に弱ったように眉を寄せた。


「アタシも全部入れちゃってたッス。お土産とかいっぱい買うつもりでいたので、10万ガルズくらい入れてたんスけど……」


「あぁ、僕もまったく同じだ。本当にこれからどうするかな……」


 僕たちは揃って頭を悩ませる。

 手持ちの金がなければ家に帰ることもできない。

 馬車を使っても丸二日かかったし、徒歩だと余裕で五日くらい掛かりそうな気がする。

 何より途中の飯代とかだって必要なんだぞ?

 絶対にこのままじゃやばい。と人知れず冷や汗を滲ませていると、ふと傍らから不意な視線を感じた。

 ちらりとそちらに目を向けると、そこにはアメリアがいて、なぜか彼女は僕のことをニヤついた表情で見ていた。


「……んだよ? なに見てやがんだ?」


「あっ、いやいや、別になんでもないぞ」


 なんでもないという顔ではなかった。

 明らかに僕のことをバカにしている顔である。

 というか奴の表情から、『ほらな? 私の言った通りになったろ?』みたいな台詞が嫌というほど感じ取れるのだが。

 心の底からムカつくな。

 けれどそれは事実なので何も言えずに固まっていると、アメリアは見るからに調子に乗り始めた。


「私も二人の財布が盗られてしまってとても悲しい。これでお土産も美味しいご飯も買うことができなくなったのだからな。だがな、私はこうなるのではないかと薄々予想はしていたのだ。だからこそノンに『気を抜くな』と口を酸っぱくして言い聞かせていたのだが、このような結果になってしまって本当に残念で仕方がない」


「……の割に、今日一番の笑顔で嬉しそうにしてるな」


 今回の旅行中で一番の笑みを見せやがって。

 怒りと呆れが半々の視線を向けていると、アメリアはさらに挑発的に続けた。


「ん~、そういえばなんだったかな? お前がだらしない格好で私に聞かせた言葉は? 確かえっと、『金の余裕は心の余裕』……だったか? 実際にその言葉を口にした身として、是非今の心境を聞かせてもらいたいのだが?」


「……」


 悪戯的な笑みを浮かべる幼女の顔が迫る。

 僕の我慢も限界に近づいていた。

 もしこいつが小さくて幼い少女じゃなかったら、手を上げていたかもしれない。

 次いで奴は鼻を鳴らし、とても慰めているとは思えない声音で言い放った。


「ふっ、これに懲りたら、金が手に入ったからといってもう気を抜くことはせず、仕事にも真剣に取り組んだ方がいいと思うぞ。一度くらいの失敗ならまだやり直せるからな。わかったなノン?」


「だぁもう! さっきからグチグチグチグチうるせえんだよ! 予想通りの展開になってそんなに嬉しいのか!? ていうか勝ち誇ったような顔でそんなこと言ってるけど、お前だって一緒に家に帰れなくなったんだからな! 余裕ぶっこいてられる立場じゃねえんだぞ!」


 僕は怒声を上げて怒りを露わにした。

 マジでなんなんだよさっきから!

 確かにこいつは温泉旅行に行く前から、怠けるなとか天罰が下るとか言っていたけど、実際に予想通りの展開になってそこまで嬉しいのか!?

 まさか旅行の計画を立てた時に少しからかったことを根に持っているのか?

 いや、そんなことは今はどうでもいいとして……


「つーかお前の財布はどうしたんだよ? お前だってそこそこ持ってきてるんだろ? ならそれでお土産とか飯とか買ったり、馬車の運賃だって払えばいいじゃねえか」


 僕は今さらながらのことをアメリアに言った。

 僕とプランの財布が盗られたとしても、まだアメリアの金が残ってるじゃないか。

 それがあればお土産とかご飯とか買えるし、帰りの運賃だって支払うことができる。

 と思って問いかけてみたのだが……


「んっ? 私は金を持ってきていないぞ?」


「はっ? なんで?」


「私は誰かさんと違って、豪遊するための金は持ってきていないのだ。どうせ旅行の代金はお前が払ってくれるだろうし、私が持ち合わせる必要はないと考えたのだ」


「……」


 ……嘘だろおい。

 アメリアの返答を聞き、思わず僕は放心してしまった。

 そして改めて手元に1ガルズもないことを自覚し、僕は叫びを上げる。


「マジで僕たち詰んでんじゃねえか! どうやって家まで帰ればいいんだよ! 歩いて帰れる距離じゃねえんだぞ!」


「おい、静かにしろノン。騒いだところで財布が返ってくるわけではないのだぞ。もう少し落ち着け」


「これが落ち着いていられるか! 普通に死活問題なんだぞ! ていうかお前はさっさとその勝ち誇ったような顔をやめろ!」


 どんだけ自分の予想通りになって嬉しいんだよ。

 あぁ、マジでどうすればいいんだよこれ。

 金がなくちゃ何もできないんだぞ。

 自分で言っておいてなんだが、確かに金の余裕は心の余裕だと今まさに痛感している。

 と、そんなことを考えている僕は、ふともう一人の声がしないことに気付き、そちらに目を向けた。


「ていうか、さっきからプランはやけに大人しいな。なんでずっと黙り込んで……」


 プランの方を見てみると、彼女はじっと床に目を落として俯いていた。

 かなり落ち込んでいるのだろうか?

 おまけに心なしか、誰に言うでもなく独り言を零している気がした。


「盗まれた? このアタシが財布を? 盗賊団に所属していた大盗賊のプランが、素人に後れを取ったって言うんスか? あり得ないッス。そんなのは絶対に認めないッス……」


「……?」


 その不自然な様子に訝しい気持ちを抱いたが、今は特に言及しないでおく。

 代わりに僕は現状の打破を図るために一つの提案を掲げた。

 

「と、とにかく、このままじゃ治療院に帰ることはおろか、飯を食うこともできないから、とりあえずどこかで金を作らなくちゃいけないな。財布が戻ってくる可能性は皆無だろうし」


「……とは言うが、どのようにして金を作るというのだ?」


 アメリアに首を傾げられてしまう。

 確かにそう簡単に金を作ることはできない。

 まったく知らない地でいきなり商売を始めるのはかなり難しいだろうからな。

 それに僕たちではできることが限られている。

 一応、手持ちの物を売るという手も残されているが、特に高価な物を持ってきたわけではないので三人分の運賃を賄うことは叶わないだろう。

 僕はしばし思案した後、不意に自分の右手に目を落として、ぼそりと呟いた。


「……まあ、これしかないよな」


「……?」


「とにかく一度”冒険者ギルド”に行ってみよう。冒険者じゃない僕たちは依頼を受けることはできないけど、もしかしたらギルドがなんとかしてくれるかもしれないし、スリについての情報も得られるかもしれないしな」


 そう言うと、アメリアはこくりと頷き返してくれた。

 ギルドなら色々と融通が利くし、困った時に訪ねるなら一番の場所だからな。

 幸い小金を稼ぐ手もあることだし。

 というわけで僕たちは一度、冒険者ギルドに向かうことにした。

 …………にしても、楽しかったはずの温泉旅行が、どうしてこんなことに。

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