第88話 「勇者パーティーで勇者だった私は」
標的を取り囲むようにして降る、実に局地的な雨の中。
一人の幼女はその雨水に触れぬよう、慎重に体を縮こまらせて、水のカーテンの向こうを目を凝らして見つめていた。
(ちっ、鬱陶しい魔法じゃな)
朧気な景色を前に内心で毒づく。
上を見れば勇者の聖剣がいまだに回転を続けて、勢いよく雨を降らせていた。
勇者に仕掛けられたこの雨は、魔族にとって有害な”毒物”と言っても過言ではない。
触れれば力を奪われて、本来の半分くらいの魔力しか出せなくなる。
先刻リリウムガーデンは、これとまったく同じ水を頭から被り、すでに弱体化している状態だ。
ゆえにこれ以上の接触は望むところではない。
顔をしかめて忌々し気に雨が止むのを待っていると、やがて上空の聖剣がぷしゅぷしゅと不可解な音を出しながら回転を緩めた。
勢いよく噴射していた水が、徐々に威力を弱めていく。
やがて完全に雨が止み、聖剣も力を失ったように落ちてくると、リリウムガーデンは右手の魔剣でそれを弾きながら、前方に視線を移した。
(ふっ、これでようやくまともに動けるわ……)
まあ別に、無理をすれば脱せないことのない結界ではあったのだが。
と、人知れず強がりを抱いていると、視線の先に勇者たちを捉えた。
やはりまだ逃げていない。そのことに少しだけ安堵するが、反対にリリウムガーデンは目を丸くして驚いてしまった。
(な、なんじゃ? 何をしておるんじゃあいつ……?)
そこにいたのは、先ほどの勇者とまったく違う勇者だった。
真っ青な鎧を脱ぎ捨て、代わりに黒いドレスを着ている。
よくよく見ればそれは、自分の部屋に置いてあった、人形に着せるためのお気に入りの一つだ。
今の僅かな時間に着替えたのだろうか?
おまけに聖剣は、ついさっきこちらが部屋の端に弾き飛ばしたため、武装もなし。
勇者と言われなければただの黒ドレスを来た美少女にしか見えない、そんな勇者マリンが、心なしか頬を染めてこちらを見つめていた。
(妾が見ていない間に何をしていた? それにいったい何の意味がある?)
リリウムガーデンは混乱の渦に呑まれる。
元々おかしな奴だとは思っていたが、とうとうぶっ飛んだことをしでかし始めたぞ。
あまりに衝撃的なその光景に、思わず挑発的な声を掛けてしまう。
「な、なんじゃ? 水に濡れたから着替えがほしかったのか? それとも妾の人形になることを自ら選んだとでも言うつもりか? 勇者マリンよ」
「……」
勇者マリンは答えない。
ただ眼前の魔王をじっと見つめて立ち尽くしている。
その異様な姿に思わず息を呑んでしまい、手にしていた魔剣も取り落としそうになった。
そんな中、突如マリンが走り出してくる。
隣にはあの厄介な治癒師も一緒だ。
(来た――!?)
ドキッとしたリリウムガーデンは、すかさず力いっぱい魔剣を構える。
いったいどんな狙いがあるのか皆目見当もつかないが、魔剣で振り払えばそれで充分だ。
何なら返り討ちにしてしまっても構わない。
そう思って身構え続けるが、やがて我慢ならず大剣に魔力を集中させた。
「そんなに死にたいのなら望み通りにしてくれるわ! はあぁぁぁぁぁ!!!」
上段に振り上げた魔剣を、轟々と振り下ろす。
その瞬間、刀身から紫色のオーラが迸り、三日月形の刃と化して飛び出した。
魔王の魔力が込められた、限りなく研ぎ澄まされた飛ぶ斬撃。
勇者マリンを両断するべく放ったその一撃は、狙い通り彼女を迎え撃つように射出された。
(当たった!)
と、思った刹那――
隣を走っていた治癒師の青年が、すかさず間に割り込んできた。
何をしているのじゃ!? とリリウムガーデンは困惑する。
聖剣を失い、鎧も脱ぎ捨てた今の勇者では、確かにこの一撃は防ぎ切れないかもしれない。
だからといって一端の治癒師が代わりに受け止めようなど、さらに困難な話ではないか。
やはり奴はただの死にたがり屋……と考えているリリウムガーデンの視線の先で、青年は自前のナイフを構える。
すると奴は恐ろしいことに、その短い刀身で、飛んできた斬撃を横からトンッと小突いてみせた。
斬撃は軌道がズレ、勇者たちの隣を通り過ぎてしまう。
「なっ――!?」
想定外の邪魔をされて、思いがけず声を上げてしまう。
今の一撃をいなすなどあり得ない。
針に糸を通すどころではないぞ。業と奇跡が重なり合って、ようやく実現できることだ。
おまけに、勇者の仕業ならばまだ納得がいくが、今のを達成したのはただの治癒師である。
やはりあいつはただ者ではない。危険な男だ。
「小賢しい!」
攻撃を捌かれたことに腹を立てて、リリウムガーデンは続けざまに剣を振りまくった。
三日月形の斬撃が高速で連射される。
治癒師の青年はそれらを一つ一つ丁寧に捌いていき、決して後ろにいる勇者を傷つけることはさせなかった。
しかし、いくら強者とはいえ、これほどの魔力の斬撃を、そう何度も完璧にいなすことはできない。
やがて青年の体にはかすり傷がついていく。
「くっ……ヒール!」
彼はその傷をお得意の高速回復魔法で素早く癒し、倒れることはなかった。
だが、このまま攻め続ければ行ける!
そう確信して、リリウムガーデンはぶんっぶんっ! と大剣を振り続ける。
徐々に迫ってくる勇者と治癒師。負けじと斬撃を放ち続ける魔王。
両者が全力をぶつけ合う中、先に青年が動いた。
「う、らあぁぁぁぁ!」
勇者よりも先行してこちらに突っ込んでくる。
驚いたリリウムガーデンは思わず力を入れて、大上段に魔剣を振り上げてしまった。
このまま……斬ってやる!
そう思い、急接近してきた青年に剣を振り下ろすと――
彼は寸前で、大剣そのものの横腹を、ナイフで直接殴ってきた。
「ぐぬっ!」
当然斬撃は、目標から大きく逸れてしまう。
が、反対に青年のナイフと腕も、その衝撃に耐え切れなかったのか、音を立てて折れてしまった。
無理をした結果である。
やはり最後に勝つのは、魔王であるこの妾じゃ! と内心で勝利を確信したリリウムガーデンは、にやりと頬を歪ませた。
刹那――
「せ、やあぁぁぁぁ!!!」
「――ッ!?」
青年は諦めず、飛びかかってきた。
腕を痛めたせいで、ひどく顔をしかめながら、それでも懸命に立ち向かってくる。
先ほどの両目からの光線を警戒してか、すかさず後方へ回り込むと、リリウムガーデンを”抱え込む”ように左腕を回してきた。
「な、何を――!?」
するんじゃ! と声を上げようとした、まさにその瞬間。
青年の叫びが、部屋の中を響かせた。
「今だマリン!」
反射的に前方に向き直ると、そこには黒ドレスを着用した勇者マリンがいた。
すでに、手を伸ばせば届く距離。
自分で選んだ服だけあって、リリウムガーデンは勇者のドレス姿に思わず見惚れてしまう。
青色の長髪と相まって、黒のドレスが一層魅惑的に映った。
と、そんなことを考えている場合ではないと、リリウムガーデンは正気に戻る。
(め、目から魔力の光を――!)
押さえつけられていて、剣は触れない。
青年を振り解こうにも即座には無理で、魔王は再び両目から魔力を放出しようとした。
…………いや。
魔王リリウムガーデンは唐突に頬を緩ませた。
そうだ。この勇者は、可愛いものを攻撃することができない。
それは魔王も例外ではなかったのだ。
先刻、ちょっと泣き面を浮かべて可愛い子ぶっただけで、奴は聖剣をピタリと止めてしまった。
それほど意志の弱い勇者が、今さらこちらを攻撃できるはずもない。
絶対的な確信を持ち、リリウムガーデンは余裕の笑みを浮かべてみせた。
(不意は突かれたものの、最後の最後でおぬしらは妾を倒すことができない。欠点だらけの勇者と単なる治癒師の小僧では、どうやったってこの辺が限界なのじゃ。さあ、来るならなんでも来い! 勇者マリンよ!!!)
黒ドレスのマリンが、リリウムガーデンの前にたどり着く。
治癒師の青年は、変わらず魔王の小さな体を抱き上げ続けていて、いよいよ三者が一堂に会した。
決して攻撃されることがないとわかっているリリウムガーデンは、終始余裕の表情を崩すことはない。
来るなら来い。攻撃されぬとわかっていれば、怖いものなど何もないからだ。
そう思って隙だらけの体勢で待っていると、ついに勇者が動き出した。
何をやっても無駄だということを知らしめて、そこで止めの反撃を加えてやる! 密かに戦いの終わりを見据えるリリウムガーデン、だったのだが……
次に勇者がとった行動は、まるで予想もしていなかったことだった。
ゆえに、幾千幾万の戦いを越え続けてきたリリウムガーデンですら、しばし理解が追いつかなかった。
現実を、受け入れることができなかった。
だって……
温かく、そして柔らかなものが、唇に触れたからだ。
(…………はっ?)
魔王の思考が停止する。
頭の中が真っ白になる。
視界には、天敵であるはずの勇者マリンの美顔だけが映り、青色の瞳がすぐ目の前にあった。
不覚にも、透き通って綺麗だと思ってしまった。
(な、何をしておるんじゃ……こやつは?)
頬っぺたを真っ赤にしながら、恥ずかしそうに顔を近づけている。
互いの髪の匂いだけでなく、些細な吐息すら感じられるほどの距離に、勇者マリンがいる。
向こうの体温が上昇するにつれて、こちらも体がぽかぽかと火照ってきた。
遅れて魔王リリウムガーデンは気が付く。
――あっ、これ知ってる。
――キスってやつじゃ。
――チューってするやつじゃ。
ぼんやりとした思考の中で、どうにかそれだけは認識する。
キス。口づけ。接吻。
恋人同士がするとされている、愛情表現の一つ。
リリウムガーデンは、空に浮かぶ孤島で、一人寂しく人形遊びだけをしてきた。
何十年、何百年、もしかしたら何千年かもしれない。
しかしかといって、この行為がいかなるものかわからないわけではない。
むしろよく知っている。深く興味があったからだ。
何か愛する存在がある者ならば、必然愛情の表現方法について学ぶことはあるだろう。
だがしかし、魔王リリウムガーデンが愛する存在は、なんと可愛い女の子だったのだ。
そして自分自身も、魔族ながら可愛いらしい幼女に分類されてしまう。
女の子同士でそんなこと、できるはずもない。そんなのおかしい、間違っている。
人攫いなどを平気でする大胆さとは裏腹に、そんな初心な考えを抱いていた魔王リリウムガーデンは、キスという行為自体を知ってはいるが、今までそれを経験したことがなかったのだ。
ゆえに、今起きている事態について、激しい混乱が生じていた。
衝撃的だった。
温かいとか柔らかいとか、そういう次元の話ではない。
何かが満たされていく。正体不明のもやもやが心の中をいっぱいにする。
不思議と体もふわふわと浮いている気がして、楽しい気持ちすら湧いてきた。
ずっとこうしていたい。離れたくない。無意識のうちに小さな手が伸びる。
きゅっと黒ドレスの肩を掴むと、それが敵であることすら忘れて、控えめに体を寄せてしまう。
気が付けば瞳もぎゅっと閉じていて、唇に触れる感触だけに意識を集中させていた。
(気持ちいい……)
やがて、柔らかい感触がゆっくりと離れていく。
いい香りを残して温かさが遠ざかっていく。
釣られておもむろに瞳を開けてみると、そこにはとろんとした目でこちらを見つめる、勇者マリンがいた。
おそらく自分も、こんな目をしていることだろう。そんなことすら、今はどうでもよかった。
もう一度、今の感触を……。その思いは彼女も同じだったようで、勇者マリンは再び顔を近づけてくれた。
気持ちが、繋がった。そう確信し、嬉しく思った瞬間、リリウムガーデンの見ている視界に、突如異変が起こった。
部屋の模様のせいでは、おそらくないだろう。
何か物足りないと感じていた、この空っぽの世界が……
不思議と、ピンク色に輝いた気がした。
「マ、マリンさまぁ……」
今までにない感情がリリウムガーデンの心に芽生え、いつの間にか手からは魔剣が滑り落ちていた。
すでに自分の意識は、どこか遠いところにある気がした。
…………あぁ、そんなのも、もうどうでもよいわ。
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