無人駅にて
秋永真琴
無人駅にて
スマホしか持っていないから、長いレポートを書くときは、大学のゼミ室で共用のパソコンにかじりつきになる。どうにか今日までの提出に間に合わせて、学校を出たのは夜の九時すぎだった。
闇につつまれた長い坂をくだって、駅に向かう。
山の上にあるこの大学に、僕は隣の市から三年以上、通いつづけている。快速列車なら三十分で帰れるが、もう鈍行しか走っていない。倍の時間がかかる。
ガラガラの列車の窓ぎわに坐った。趣味の小説を読むどころか、スマホをいじる気力もなく、窓の外をぼんやりとながめる。
列車が動き出す。
六月の夜が流れてゆく。
ガタコン、ガタコン――規則的な振動と音にうつらうつらしかけたころ、車内アナウンスが無人駅の名前を告げた。快速なら素通りする。
僕は目をみひらいた。
屋根も壁もない、寂しいホームのベンチに、リクルートスーツを着た女のひとが坐っていたのだ。うなだれて、列車の到着に顔をあげようともしない。
かばんをひっつかんで、転がるようにホームへ降りた。閉まるドアにはさまれかけて警笛を鳴らされた。
「
声をかけると、女のひとはのろのろと僕を見やった。
「
「和海さんこそ、なんで、こんなところで」
僕が所属しているゼミの先輩だった。
「別に、なんでもない」
「いや、別にって」
「坐って」
隣りをすすめられたので、腰を下ろした。
思いがけないところでふたりきりになれた幸運を、僕は素直に喜べなかった。和海さんはあきらかに憔悴している。こんな時間にこんな場所でしょんぼりしていて、なんでもないわけがない。でも、重ねて尋ねて、うるさがられるのが怖くって、口をつぐんだ。
あたりは静まりかえっている。
少し湿った涼しい風が、僕たちをさやさやと撫でていく。
そっと、和海さんをうかがった。
気が強そう――というよりは、自分のやさしい部分を隠すために強がっているような顔つきだと、はじめて会ったときに、そんな不遜なことを思った。その印象は今も変わらない。
ほどけば背中まである黒髪を、うなじで束ねている。
「――寿くんは、どうしてここに」
「和海さんがいるのが見えたので」
「わたしがいると、途中の駅で降りるの」
「そうです」
怒りと照れがまざって、声が大きくなった。
「ふーん」
和海さんはおもしろそうに目を細めた。
これだ。僕の気持ちを知っていて、からかわないでほしい。それでも、相手にされると嬉しさが
「またゼミ室にいたの」
「はい。レポート、やっと出来ました」
「いいかげんにパソコン買ったら。やっぱりスマホだけじゃ、来年、不便だよ」
「考えときます」
来年というのが何をさしているのかは明白だった。
「――忙しいですか、就活」
「忙しいっていうか、精神的なゆとりがなくなる」
「
「ううん。最近は小説もごぶさた」
僕と和海さんが親しくなったきっかけは、読書の趣味が似ていることだった。新井沙織を愛読しているひとに生まれてはじめて出会った。まだマイナーな存在だけど、あざやかな筆致でせつない物語を書くのだ。
「疲れちゃったな」
雫がひと粒、ぽつりと落ちるようなつぶやきだった。
「疲れちゃった」
と、和海さんは繰り返した。
就職活動にか。それとも。
「今日はなんにもいいことがなかったよ。寿くんは?」
「――ひとつ、ありました」
「なに?」
「わかりませんか」
「わかんない」
「じゃあ、いいです」
「そう。わたしは、寿くんと意外なところでお話しできてよかったのに」
むくれてみせる和海さんを、僕はじろりとにらんだ。
「なんにもなかったっていったじゃないですか」
「なかったけど、いま、あったの」
だめ? と小首をかしげる。
髪がゆれて、うなじがのぞく。目がとろりと光っている。
一瞬で、さまざまな感情が泡だって弾けた。
そのうちのどれかが、思わず言葉になって出そうになるのを、僕はどうにかこらえることができた。
ため息をついて、ベンチの背にもたれる。
「ひとの気持ちをなんだと思ってるんですか、あなたは」
「ありがたく思ってるよ。――なんで、わざわざ、望みのないわたしなのかな、とも思う」
「和海さんとは本の話がたくさんできます」
「ツイッターでもやりなよ。新井沙織のファンもみつかるよ」
「そういうことではありません」
「弱っている女を狙うのが趣味なの」
「そうです」
限界だった。
僕は白い手をとった。
和海さんははずそうとしたが、僕が強めににぎると、あきらめて、そっとにぎり返してきた。
「寿くん、悪いやつだ」
「そうですか」
「――ううん、悪いのはわたし。ばかで、だらしない、わたし。寿くんは、いいやつだよ」
「そう思ってくれますか」
「思う。だから――ごめんね」
いつもの怜悧な表情がゆるんで、和海さんは泣きだしそうにみえた。僕は黙って、さらに固く手をつないだ。
スマホの震える音が、和海さんのかばんの中から漏れてきた。
「見ないんですか」
「今は、いい」
「じゃあ、見ないでください」
「うん」
和海さんは微笑んだ。
音がやんだ。
手と手をむすんだまま、僕たちは無言で夜風に吹かれ続ける。和海さんに触れている部分だけが、熱い。心臓が手に移動したような気分だ。
このまま次の電車が永遠に来なければいいと、僕は本気で願った。
無人駅にて 秋永真琴 @makoto_akinaga
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