第3話
「光徳〜帰るよ。おいで」
女同士の晩酌から数日後。幼稚園のお迎え、光徳は大好きな母親のもとへ駆け寄ってきた。この姿をずっと見ていたいと感じる。
「今日は何して遊んだの?ウルトラマンごっこした?」
「今日はライダーだよ。ウルトラマンはでかいし喋れないし。格好良いから僕は大好きだけどね!」
男の子は特撮ヒーローを見て育つ。最低男もまた、子供の頃は戦隊ヒーローや仮面ライダーを見て育ったらしい。そこで学んだ正義感は微塵も活かされず、私と光徳を苦しめている。ふざけるな。
「さっ、買い物して帰ろうね」
行きつけのスーパーマーケット「スーパーカオル」に着くと、すぐに自転車を停めた。ちなみに私がパートを勤めているスーパーではない。一時間以内の利用なら無料で停車できる。私が停めたものを含め、駐輪機械は三つしか空いていなかった。隣に停めていた中年女性は、三つもいっぱいの買い物袋を抱えている。前の自転車籠に一袋、後ろの籠に二袋を入れた。前の袋からは、人参と玉ねぎが漏れ出しそうになっている。困ったような苦笑いを浮かべた彼女は走り去った。
店に入ると、若手の男性店員が笑顔で挨拶をしてきた。天真爛漫な雰囲気の女性店員はまだ高校生だろうか。すれ違う客に挨拶をしながら、品出しの作業に勤しんでいる。
私と光徳は冷凍食品のコーナーへ行った。離婚前、義博の朝食は冷凍食品であることが多かった。彼はそれを美味しそうに丁寧に食べてくれた。冷凍のグラタンやお好み焼きは、私たちの朝に確実に息づいている。よりどりみどり、品揃え多数。値段は安くないが、私はこのスーパーをえらく気に入っている。光徳はこのスーパーに来ると、必ず二三、質問を投げかけてくれる。
「ママ、あのおじさんの持ってる魚は何?マグロ?」
「あれはね、『シャケ』。おにぎりに入れるとね、美味しんだよ〜。光徳のお弁当にも入れてあげるからね」
「ありがとう」
こんな瑣末な会話がいかに幸せか。この子の手を知らず知らずのうちに強く握りしめていた。
「えっ…ちょっと…」
次の瞬間だった。私たちの前にあってはならない光景が映し出された。憎むべき最低男が、例の浮気相手と一つの籠を持って楽しく話していたのだ。あちらが気づいたかは不明だ。私はなんとかして光徳を連れてここを出ようと思った。あの最低男!私がここに通っていることを知らないわけがない!最低だ!本当に最低だ!
「ママ〜、あれ何て書いてあるの?」
「あれはね、『半額』って書いてあるの。いつもスーパーが売ってるお値段の半分で売ってくれるのよ」
光徳は何も答えなかった。私が早口だったせいかもしれない。彼は理解できないことには反応を示さないことが多い。聞き返すか相手の目を見つめることもある。
「ごめんね、光徳。そろそろ行きましょ」
「え〜、おもちゃ見たい〜。キャンディー欲しい」
三歳児のこねる駄々は一筋縄ではいかない。かわしてもかわしても繰り出される技は、私をなし崩し的に倒していく。あの男は女と手をつないでいる
「あっパパー!」
遅かった。久しぶりに見る父親の姿を長男が見紛うはずもない。
「パパー!パパー!」
息子は必死に父親を呼び求めた。しかし、父親の対応は卑劣で残酷なものだった。なんと、全くの無反応。女も事情を察しているのか、何一つ周囲に関心をもたない。奴は女だけを見つめ、女も奴だけを見つめていた。
「光徳行くよ!」
光徳は何も察することができなかった。父親と暮らしていないのは分かっている。だが、父親が自分の呼びかける声に全く反応しないのはまるで理解できない。
「光徳、帰るよ。もう今日のお買い物は終わり」
カップルはさっさと私たちの目につかない場所に行き、私たちも会計をそそくさと済ませた。光徳は納得がいかない顔で私を見つめていた。私は敢えて彼と目を合わせなかった。買ったものの袋詰めを、手慣れたレジ打ち店員のように猛スピードでこなし、店を出た。
気が付けば、私は泣いていた。少しずつ目に涙が溜まっていくのを感じ取っていた。そして、それが堤防が決壊した川の水の如く流れ出してきた。どうしても光徳に見せてはいけなかった。そして思った。彼にどうしても、父親とは今後、暮らしていけないことを理解させなければならない。時計は午後五時半を指し、私は二つの買い物袋と息子を自転車に乗せ、帰路に着いた。雲一つない晴れやかな空は私の気分とは裏腹だった。
帰ると、正子がぐったりとしていた。今日はずっと家にいたのだ。彼女がアルバイト以外で何をしているのかいまだに分からない。別段、彼女に対して不満はない。お金は入れてくれるし、家事や光徳の子守を手伝ってくれている。「いつか話す」と言うその言葉を今か今かと信じて待つしかないと思っていた。
「優子さん、お帰りなさい。光徳君、保育園楽しかった?」
それだけ言うと、彼女はまたぐったりとして目を閉じた。光徳は質問には答えず、カバンを投げ出すと台所に行ってしまった。帰ると、大好きなヤクルトを飲むのが彼の習慣になっている。
「優子さん?」
ことを察した正子は私を心配そうに見つめてきた。
「何かあったんですか?」
私は何か言おうにも言葉が出てこなかった。頭の中にも言葉どころか、何ものも浮かばなかった。ただ、悲しみと悔しさやその他ネガティヴなあらゆる感情があるだけだった。
「ビールまだありますよ。光徳君寝た後、一杯やりましょう」
しかし、私はそんな気分でもなかった。いいから一人にさせて、そんな気分だった。辛くなった時の私は二パターンに分かれる。とにかく人に話を聞いて欲しくて喋くる。もしくは、とにかく一人になりたくて閉じこもる。今の私は後者だった。
「ごめん、今日はいいや。ありがとう正子ちゃん。また今度ね。一人になりたいの。悪いけど、今日は先に寝ててくれるかな」
「分かりました。まあ、飲み過ぎも良くないですもんね。すみません、先に寝ますね」
正子は少し面食らったような反応をした。だが空気を察したのか、素直に私の言うことに従ってくれた。夕食を食べている間、誰も口を開かなかった。いたたまれず正子がテレビをつけた。笑い声はおろか、誰一人それに反応すらしなかった。テレビが大好きな光徳すらも。
その晩、私は何も考えず、無心で一人泣いた。正確に言うと無心ではなくある意識を持って泣いた。出来るだけ外に声が漏れぬよう、すすり泣くことを意識した。大声でギャーギャーと泣いても体力を消耗するだけだ。私の癒えぬ心の傷は、いくら泣いてもその痛みが和らぐことすらなかった。リビングのテーブルでうつ伏せになり、泣き疲れた私。気がつくと、時計の針は朝五時半を指していた。
怒涛 @shb1019
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