第2話

彼女が運転するレンタカーの中で、私は眠り姫になった。前の晩、取り憑かれたように眠気が起きず、起きていた。だが、スーパーマーケットのパート帰りで疲れていた体は、嘘をつき続けられない。気が済むまで私は寝た。光徳も同じだったろう。

「自己紹介まだでしたね。私、名前は長田正子です。長い田んぼに、正しい子。『まさこ』とよく間違われますけど、『しょうこ』です。今年で二十歳です。」

私も名乗った。車内での会話はこれだけだった。とにかく疲れていて、口を動かすだけでもすぐに疲弊してしまいそうな気がした。

家に帰ると、彼女はどっさりとした荷物を降ろした。まさか車にたくさんの荷物を積み込んでいたとは。上京し、インターネットカフェをはしごして一週間を過ごしたらしい。所持金はもう雀の涙だ。

「良い部屋ですね。どれくらい住まわれてるんですか?」

この質問に軽い苛立ちを覚えた。他人の質問を無視するのは珍しいことではなくなっていた。

「お仕事は何されてるんですか?私もバイトは始めようと思ってるんです」

彼女の言葉は鉄砲玉のように放たれ続けた。返ってくる何物も期待せず、ただひたすら引き金を引き続けていた。私は半狂乱になりながら死ぬことを決意し、それを止められた。彼女にどう振る舞って良いのか、整理がつかないでいた。

「あなた、本当にここに住む気?私、いつまた死のうとするか分からないわよ」

光徳が寝た夜。初めて彼女とまともな会話をした。

「またその時は私が止めますから。ご安心を」

正子は頬を緩めながら言った。彼女の笑顔はとても艶やかだった。

「それと、私ここに住むって言いましたっけ?ただ、泊めてもらうだけのつもりだったんですが」

狐につままれたような気持ちになった。このことだったのか。

「まあ、バイトはしますから。ご心配なく。まあ…少しはお金入れますよ」

生まれて初めてかもしれない。何も言えずに、目の前にいる人の顔を二十秒は見つめ続けた。

「じゃあ、そういうことで」

正子は断りもなく、奥の和室で寝転んだ。掛け布団もなく、畳の上で人形のようにじっと動かずに目を閉じていた。


翌朝。彼女からの書き置きを見つけた。

「お世話になりました。アルバイト探しに行って来ます。できるだけ時給が高い仕事を見つけて来ます。光徳君によろしく言っておいてください。

P.S.『お世話になりました。』はお別れの挨拶ではありませんので。ちゃんと帰ってきます。」

「P.S.で言うくらいなら最初から書くなよ」

私は呟いた。どう表現しようもない感覚だった。他人の家に転がり込み、その気もなかったのに、住処にしている。 厚顔無恥と言うべきか。大胆不敵と言うべきか。彼女の剛胆さには眼を見張るべきものがあった。この子がなぜ、東京まで一人で出てきたのか詳しく知りたくなった。

光徳を保育園に送り届け、私は一人になった。安アパートを借りて一ヶ月が経った。離婚が決まり、早速探して見つけたこの部屋。親子水入らずで暮らしているが、ここが暑い夏や寒い冬を上手く乗り切れるような代物かどうか、不安だ。

「奥さーん、ちょっと奥さーん」

昼時、二つ左隣りの部屋に住む女性が訪ねてきた。うるさいノックと怒鳴っているかのようなどら声が特徴だ。

「はい、こんにちは。村井さん」

「ごめんなさいね、昼時に。川島さんとこの坊やさあ、こういうの好き?」

村井さんは、駄菓子を持ってきた。何でも、近所のお年寄りの集まりでもらったらしい。

「一人暮らしのババアがこんなの持ってたってしょうがないからさ。私、お菓子は好きだけど、子供向けの駄菓子はあんまし要らないのよね。坊や、駄菓子は好きかしら?」

「ありがとうございます!うちの子、甘いものが好きだからきっと喜びます!」

村井さんは恐らく、このアパートの女番長だ。一人暮らしの六十代から七十代の女性。家族がいるかは一切不明だ。

彼女の大きな声には、他人を活気づける力がある。そんな彼女にはこれでもかと言うほど感謝している。

「本当?良かったあ。気に入らなかったら、あんたが代わりにでも食べてあげてよ。まだ若いんだから太んないわよ。またね、ありがとう」

「ありがとうございました!」

村井さんはにやりとし、ドアを閉めた。他の住人に挨拶をする声が聞こえた。

こんな何気ない平穏なやり取りが、私を取り巻く現実を少しだけ忘れさせてくれた。私は三歳の息子を育てるシングルマザーなのだ。他に守るべきものや突き進むべき道はない。

洗い物をした。洗濯物をした。掃除をした。全てが驚くほど日常にありふれたことばかりだった。おかしな電話も客もなく、近所で事件も事故も起こらない。そして光徳を迎えに行き、帰りに買い物をした。夜になると、正子が帰ってきた。派遣のアルバイトを探し出し、早速、会員登録を済ませたと言っていた。アルバイト探し以外に何をしていたのかは聞かなかった。

「ただいまー。お姉さん、ビールお好きですか?私、大好きなんです。枝豆と焼き鳥買ってきたから、光徳君が寝たら晩酌しましょ」

「そうね、良いわよ」

光徳を寝かせると、テーブルを挟んでお喋りを始めた。私は滅多に酒を飲まない。ましてや光徳の前で飲んだことなどない。人とアルコールを挟んで向かい合わせになるのは、数年ぶりという気がする。遠い昔、幼い頃の記憶のようだ。

「おつまみがありきたりですみません。私、ポテチとか、たまに魚介類とかよくつまみにするんです。でもハズレがないのが良いなと思って。この二つにしました」

「良いわよ、そんなこと気にしなくて。私、そんなに嫌いなものないから」

「ありがとうございます」

単調な会話が続いた。互いに無感情でも聞いていられるほど、平凡な話しかしなかった。しかし三十分ほど経ち、正子がカメレオンの模様替えのようにガラリと表情を変えた。

「あの…そう言えば。お姉さんが何で死のうとしたか、聞いてませんでしたよね」

「そんなに知りたいの。あと、『お姉さん』じゃなくて名前で呼べば良いわよ。『優子さん』で良いよ」

「あっ…はい。優子さんの身に何があったか知りたいんです」

「分かった。そうね。誰かに聞いてもらった方が良い。団地の人も気を使ってるのか何も聞いて来ないし。友達にも誰にも死のうとしたことは打ち明けてなかった」

「無理しなくて良いですよ。話せることだけ、話してくだされば」

「ありがとう。私ね。とっ…てつもなく素敵な旦那と結婚したの」

皮肉たっぷりに切り出し、身の上話を彼女にすることにした。一呼吸置いて、スタート。

「お見合いで出会った人だったんだけど、本当に良い人で。真面目で優しい、おまけにハンサム。頭も良くて仕事も出来る。酒もほとんど飲まなければ、結婚してからタバコだってやめたくらいだったの」

正子は大きな瞳で私を見ていた。彼女の微動だにせぬ頬を見て、彼女が真剣に私の話を聞いてくれていることが分かった。

 「結婚して三年くらい経った頃、彼の帰りが遅くなる日が増えた。同僚やお付き合いで飲んで帰ることもあったけど、それでも夜十時くらいには帰ってくる。休みの日は光徳と遊んでくれるから良かったんだけど、どうも匂うなと思ったの」

 そして私は、悠香から最低男の浮気写真を見せてもらったこと、探偵に調査を依頼して証拠を見つけてきたことを一気に話した。

 「バカ女と二人でいちゃつく写真がこれでもかと出てきたの。私に残業だ飲み会だと嘘ついてそいつと密会してたのよ。食事にも行ってたし、ホテルに入っていく写真はなかったけど、それ以外に恋人同士がするようなことは全部やってた」

 「つかぬことを聞きますけど、どれくらいの期間、浮気してたんですか?」

 正子が口を開いた。喋っている間中、とめどなく緊張し、興奮していたし、腸が煮えくり返る思いにもなった。だが、彼女の落ち着いた口調は、私の気持ちをひと段落させてくれた。

 「あいつによれば、だいたい半年くらいだって。たまたま飲み屋で会った女みたい。スペックは聞いてないし聞きたくもない。まあ、私よりは若いみたいだけど。あの男、私より三歳上だから、けっこう年は離れてたでしょうね」

 私たちは暫しの沈黙の後、同じタイミングでビールを口に入れた。

「気が向いたらもう少し話すからさ。まあ、その後は皮肉なことにとんとん拍子で離婚よ。あの人の支払う少ない養育費と私がパートで稼ぐお金が全て。あのバカは今頃、その女と毎日、楽しく楽しく、暮らしてるでしょうね。それでさあ、私ずっと思い詰めてたのよ。考えていたのは二つのこと。光徳をどう守っていくか、そしてあいつにどうやって復讐するか。それで死のうと思ったの。奴に後悔させたくて。結果、光徳を捨てることになるのに…軽々しく言うわね、私」

私は昨日出会ったばかりの素性も知らぬ小娘に惹かれていた。ここ最近の身の上話をこんな若い子に話すとは思ってもみなかった。

 「そうだったんですねぇ…光徳君もお父さんがいなくてさぞ寂しいでしょうに」

 「本当にそうよ。『パパは何で帰ってこないの?』っていまだに真顔で時々聞いてくるの。幼心に分かってはいるんだろうけど、受け入れられないのよね」

 その直後、彼女は何も言わずにトイレに行った。まるで自分の家にいるかのように、最大級のリラックスを味わっているようだ。別にいいけど。戻ってくると、彼女に言っていなかった大事なことを言った。

 「ごめん、ずっとちゃんと言ってなかったんだけどさ、ありがとう。助けてくれて。ありがとね。私はまだしも、まだ何も分からない光徳の未来まで奪うところだった」

「今更ですかあ。いいですよ、そのことは。私も失礼なこと言っちゃったし。貸し借りなし、これからは仲良くしましょう」

 気が付いたら私の目がしらは熱くなり、悲しみと怒りが噴き出す涙となって頬を伝っていた。

「私の身の上話もしますね…また時間が空いたら…」

気がついたら私は、彼女の胸に顔をうずめていた。彼女は孫を慰める優しいお婆さんのように、私の頭を撫で、頬を頭に擦り寄せてくれた。十歳下の女の子にこんな風にしてもらえる私。光徳を守っていこうという気構えと彼女への感謝の気持ちで心が満たされていた。

翌朝聞いたことだが、私は缶ビールを六本も空け(これまでの最高記録は一晩で三本だ)、泥酔して彼女の膝枕で眠りこけたらしい。

「もうお姉さん頭重くて、なかなか寝付けなくて大変だったんですよ〜」

翌日が土曜日で本当に良かった。平日なら光徳を保育園に送り届けなければならない。花金が私に、儚い安らぎと慰労をもたらしてくれた。朝から二日酔いの頭痛が激しい。漸次、私は後悔の念に苛まれていったことも事実だった。

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