怒涛
@shb1019
第1話
別れた旦那は連絡一つよこさない。それもそのはず。あの人はもう私と光徳なんか眼中にない。人類史上最低・最悪の旦那であり父親であるあの男は、もう二度と私の前に姿を現さないだろう。
私は奴に復讐することに決めた。いや、復讐という名の現実逃避だろうか。ニヒリズムなんかじゃない。絶対に違う。でも、何も考えたくないし、これ以上何をして生きる気力も起こらない。
何れにしても私は目の前の荒波に向かって叫んだのだった。
「幸せー!」
人生史上最大の皮肉だった。三歳の光徳は、私をただ見ているだけだった。私の可愛い一人息子。この子だけは守りたい。幸せになって欲しい。だけど、そんな願いも捨てることにした。
怒涛の響きは風に乗って喚いていた。私の耳には、バッハの音楽みたいに心地良く聞こえた。こんな激しく強い波に飲まれて最期を迎えられるのなら、私は幸せ者だ。そんなこじつけじみた気持ちが私を狂わせていた。そして、この冷たい海の中に身を投じる決意を固めたのだった。
「優子。今日は早く帰れると思うから。上司休みだからさ。飲みに付き合わされることないと思うし」
「本当?今日こそは期待してるからね。」
「行ってきます」
別れた元旦那の名前は義博。彼の朝は早い。三度の乗り換えで片道一時間ほどの電車通勤。歩く時間を含めれば、一時間十五分はくだらない。
六時には起きて、六時四十五分には家を出る。朝九時の始業には十分間に合う。くそ真面目なこの男は早めに出勤しないと気が済まないらしい。専業主婦の私の仕事は、彼の昼食作りから始まる。朝五時には起きる。
彼は時たま、同僚と外食をするらしい。しかし、営業で外周りが多い彼にとって何より大事なのは「手軽に素早く」食事ができることだそうだ。毎日のように、私が作るおにぎりとコンビニのフライドチキンで昼を済ませていたそうだ。
そんな愛すべき最低男の異変に気がついたのは、結婚して三年ほど経つ時期だったと思う。
終電帰りや帰宅が遅い日が増えてきたのだ。悔しいが彼がハンサムなことは確かだ。それが仇になったのだろう…。
結論から言う。奴はとある女とできていた。私以外の女と以ての外の関係を結んでいた。彼は元来、真面目な男で酒をほとんど口にしない。家計の負担になるからと、結婚してからタバコをやめたほどだった。奴を信頼し切っていただけにショックは大きかった。
「もしもし。ねぇ、優子。この前、新宿であんたの旦那を見たわよ。それでさあ、ちょっと良い?…あれは浮気してるね」
唐突な電話だった。親友の悠香は躊躇いなくはっきりと物事を言う性格である。だが、そんな彼女が「ちよっと良い?」とワンクッション置いた。これは画期的なことで、エジソンが電球を発明したり、ベルが電話を発明したような衝撃的な出来事だった。初め、私は彼女の言葉を鵜呑みにしなかった。だが一方では、鵜呑みにできるほどの説得力を有している気もした。彼女の鋭い観察眼とストレートな性格がそれを根拠づけていた。
「密かに写メ撮ったけど、送ってもいい?…覚悟はできてる?」
「一応…送って…」
熊に遭遇した方がもっと震えないかもしれない。私はそれくらい、震える声で彼女に返事をした。
彼女から写メールが届いた。私は一瞬だけスマートフォンの画面を見た。恐る恐る、恐る恐る。奴が見知らぬ若い女と手をつないで歩いていた。 しかも一つの傘を一緒に差して歩いている。
直ぐにホームボタンを押し、二度とそれを見ることはなかった。探偵に調査を依頼し、証拠がこれでもかと出てきたのはそれから二週間ほど後のことだった。
「おばさん!何してんの?」
後ろを振り返ると、髪の長い女の子が立っていた。私より十歳くらいは若いだろうか。
このタイミングで声をかけられたことも「おばさん」と言われたことにも腹が立ったので、無視した。
「その子、子供?危ないよ!落ちたら死んじゃうよ!」
女優か歌手でもやっているのだろうか。強靭な腹筋から放たれる力強い声が、彼女の喉から響き渡っている。周囲の全てを奪う波の音に全く負けていない。
「良いからこっち来なよ!」
気がついたら彼女は近づいてきて、私と光徳の腕を引っ張っていた。不安そうな光徳は、私の顔を見つめている。硬直した彼の顔は、どこにも逃げ場のない猫に睨まれた鼠のそれのようだった。
「放してよ!誰よあんた!」
「いったっ!」
この子、腹筋だけじゃなく腕力にも長けている。私は彼女の腕に噛み付き、なんとか振りほどいた。甲高い彼女の悲鳴に少し心が揺らいだ。見知らぬ女の子を傷つけたのはやり過ぎだった。
「何があったか知らないけどさ!話はいくらでも聞くから!いいからこっち来てよ!」
私はそれでも心を鬼にした。怒涛の中に露と消えてしまおうと頑なに思っていた。だが、彼女の諦めの悪さは想像以上だった。何度、崖の方に戻ろうとしても追いかけてきた。
それから十分ほど格闘しただろうか。疲れ果てた二人の女は、岩場の上にへたばっていた。私たちは互いを睨みつけ、目を血走らせた。
光徳は部外者のように呆然と立ち尽くしている。生まれて初めて、「どうして良いか分からない状況」を経験したのではないか。
「おばさん、力、強いじゃん。そんなんだったら、これから何十年も生きられるって」
「おばさんて言うのをまずやめなさいよ…あんた、失礼極まりないないわね」
これ以上、言葉が続かなかった。彼女は私と光徳の命を助けた。それ以上でもそれ以下でもない。何より尊い命の恩人なのだ。
「言葉が悪かったのは…謝ります。申し訳ございませんでした。でも、お姉さんが何か悩んでて飛び込もうとしてるなら、せめてその話を聞いてあげようと思って…。迷惑でしょうか」
さりげなく、呼び方を「お姉さん」に変えやがって。可愛い奴め。彼女は続けた。
「私、一人で東京に出てきたんです。茨城から。知り合いは誰もいません。一人暮らししようと思って部屋を探してますけど…まだ見つかってないんです」
彼女の身の上話には不思議な魅力があった。私は冷静さを取り戻し、荒波に身を投じるのを素直にやめようと考えた。そして、私は生まれて初めての即決を下した。
「分かった、うちに来な」
彼女は焦点の合わない目を瞬かせた。やがて、誰かに頬を操られたかのようにゆっくりと微笑みを見せ、私と目を合わせた。
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