六、白刃鬼の嘆く声は未だ止まず―はくじんきのなげくこえはいまだやまず―【三】

 穏やかで優しい山の神は消えた。代わりに現れたのは鬼だ。村の守護者であろうとした山の神は、憤怒と怨嗟に塗れて鬼と化したのか。そして未だあの地獄の中にいるのだ。業火に身を焼かれて、灰になることもできずに恨みに四肢を縛られ、悲しみに暮れ血の海で溺れている。

 幻影が薄れ霧散しても、白刃鬼はゆらゆらと手を伸ばす。救えなかった命の残滓がそこにあるかのように。赦さぬ――。繰り言は擦れる。そうだとも。赦せないだろう。このような非道を、誰が赦せるものか。心の中で言ったつもりが、知らず声になっていた。歴史を紐解けばいくらでも血腥い話はある。残酷な宿命は幾重にも降り積もって、その上にまた誰かの営みが重なっていく。

 だが、幻とはいえこうして目の当たりにしてまでもこれも歴史の一部なのだ、これが現在の礎となっているのだと嘯くほどには非情になれはしない。だが、声を発したことは大きな過ちであったようだ。ゆっくりと、白刃鬼の視線がこちらに向けられる。唇が言葉を紡ぐ。

『赦さぬ』と。

 その瞬間、わたしは走り出した。わたしは膂力はないものの、逃げ足だけは速かった。山道にも慣れているから、修験者のように斜面を走ることができた。白刃鬼の足取りは重い。未だ心は半ば過去の幻影に囚われているのだろう。なんとか引き離せるかと思えた。だが、いくら走っても彼女から遠ざかることはできない。しゃん、しゃんと涼やかな音は常に一定の距離でついてくる。同じところをぐるぐると回っているような気もした。

 走り続けて、さすがに息が上がってきた。こちらは丸腰の上に手負いだ。恐怖のせいか痛みは感じない。ただ酷く熱い。ジリジリと肉を焼かれているようななんとも言えぬ不快な感覚が間断なく襲ってくる。

 村を滅ぼしたのはわたしではない。そんなことは、白刃鬼にとってはどうでもいいことなのだろう。人の言葉を解する。人の言葉を話す。だが、意思の疎通はなされていない。これも致し方がない。人同士でさえ、わかり合えぬのだ。

 ふと怖気を感じて振り返ると、白刃鬼はすぐそこまで迫っていた。焼けただれた手には長い歳月を経てなお禍々しく輝く一振りの刀。炎を背にした彼女の姿は身の毛がよだつほど恐ろしく、そして美しかった。

 これまでか。走馬灯というのは本当に見えるのだろうか。その体験を語ることは叶わぬだろうが。そんなことを考える。冷静なのではない。眼前に迫る死の恐怖を紛らわせようとしただけだ。いつか、過ぎた好奇心に殺される日がくるのではないかと思っていた。覚悟もしていたつもりだった。しかし、いざそのときになると悔恨ばかりが頭を過ぎる。成し遂げられなかった仕事。妻と子どもたちとの時間を疎かにしてきたこと。それから——。

 どす、と鈍い音がした。肉に刃物が突き立てられた音だ。血のにおいに胸が悪くなる。しかし、痛みはなかった。

 刺されたのはわたしではない。

『ええ加減にしぃ。みっともない』若い女の声がした。

 わたしの前に立っていたのは、年の頃は十四、五歳に見える少女だ。やや小柄な肢体を華やかな椿模様の着物で包み、射干玉の黒髪は背に流している。

 紫苑。名を呼ぶとさも大儀そうに振り返る。紫の虹彩を持つ三白眼は鋭い光を放ち、薄く紅を引いた唇は怒りに歪んでいたが、ふっくらとした頬には幼さが残り愛らしい。まるで三ツ折人形のような容姿に不似合いと言うべきかそれとも相応しいと言うべきか、彼女の額には真珠のごとく艶やかな角が一対、髪飾りのようにちょこんと生えていた。

 紫苑という名は昔、わたしの母が名づけた。

 お前……どうしてここへ。戦慄く声で訊ねた。彼女の腹からは血が滲み白地の着物にもう一つ赤い花を咲かせている。それはじわじわと大輪へと綻んでいく。『義正。お前さんはほんま危なっかしいて、見てられへんわ』紫苑はわたしを背に庇いながら、白刃鬼を睨めつけている。『お前は……この男を守るのか』『ん、まぁ。そやな。大事なスポンサーやさかい』白刃鬼が首を傾げる。横文字の言葉など知らないのだろう。『大事……情人か』『あほらし』大仰にため息をつき、紫苑は己の腹に突き刺さった刀を握った。瞬く間に白い手は鮮血に濡れる。

『その男を守るのか』『せやから、そう言うてるやろ』呆れたように吐き捨てた紫苑を見つめながら、白刃鬼は大粒の涙をひとつ、またひとつと零した。『……いない。もう、いない。村下もその奥方も、たたら踏みの若衆も、子どもも、年寄りも、誰も、いない』震える声で呟きながら、彼女は紫苑の腹から刀を抜き取る。夥しい血が噴き出し白刃鬼の頬を濡らす。紫苑は不快そうに眉を寄せただけだった。『わたしには、もう守る者がいない……』『そうか。そら、身軽なことでよろしいやないか』白刃鬼は喉から引き攣った声を発した。形のよい唇を半ば開いて、呆気にとられたように紫苑を見つめている。『もう、休んでもよろしいということや。ご苦労さんやったな』『休む……?』『ほれ。別嬪さんが台無しや』紫苑は着物の袖でぐいぐいと白刃鬼の顔を拭った。仏頂面で乱暴な仕草だが、白刃鬼のほうは大人しくされるがままになっている。『いない』『そやな』『いない……守れなかった、わたしは、守れなかった』『そやな。けど、あんたが悪いわけとちゃう』幼子に言い聞かせるように紫苑は言う。だが、彼女の言葉はもう白刃鬼には届いていないようだ。いない、いないと呟きながら、血で汚れた頬を自らの涙で洗い流す。

『いこか、義正』だけど、彼女は。『早う、ここ離れるで。あの娘がべそ掻いてる間に。涙でうちらの姿が見えんうちに』紫苑に急かされて斜面を下った。



 しばらく歩いたあと、ふいに紫苑は振り向いた。機嫌は頗る悪そうだ。『義正、腕出し』わたしよりお前の傷が。『こんなん、かすり傷や』腹に穴を空けられてしれっと言ってのける。紫苑は汚れていないほうの袖を咥えてピリリと裂き、わたしの腕をきつく縛った。

『道切りでもしてここら一体禁足にするしかあらへんな』あれを救う手立てはないのか。『そんなもん、あらへん。どんなけ堕ちても神さんや。人ごときが救うやなんておこがましい。ましてや』卑しい鬼の身である自分に何ができようか。紫苑はきっぱりと言い放つ。卑しいなんてことはない。お前だけではない、どのような鬼であってもだ。わたしの言葉に、紫苑は肩を竦めて呆れたようにじろりと睨む。それから、ふぅと息をついて、困ったように唇を歪めた。『お前は変わってるな。母親そっくりや』そうかもな。亡き母は宝角家の代々の当主の中でも、相当な変わり者だった。

 母を思い出したのか、紫苑は口を噤むとわたしを追い越し、静かに山道を下った。その後ろ姿は頼りない。さきほどわたしの前に立ちはだかり白刃の角を持つ鬼から守ってくれたとは到底信じられない。

 傷を負った痛々しい姿を見つめながら歩いていると、ふと紫苑が振り返った。『なぁ、義正。着物、誂えてもええ? よさそうな反物見つけてしもうて』上目遣いで強請ってくる。『結城紬のええのんが入ったて、馴染みの店から連絡もろて。見してもろたらほんま顔映りがようてなぁ。渋い色やけど、兎の柄の帯合わせたら可愛らしいと思うねんなぁ。ほら、赤地に兎の絵が描いたぁるやつあるやん?』そない高うないで、ほんま、ほんまに。甘えた声で言いながら、目を輝かせる。お前は本当に、着道楽だな。呆れて零した言葉に、紫苑は澄ました顔で応じる。『うちは綺麗なもんが、好きやさかい』言ったあと、悲しそうに血で汚れた袖を摘まんだ。仕方がない。命の値段だと思えば安いものだ。買ってもいいと返事をすると、紫苑はそれはそれは愛らしく微笑み、両手を胸の前で組む。『……ほんで、ほんでな、義正。可愛らしい骨董の帯留め見つけてん。それはな、ちょっとだけ……値ぇ張るんやけど』わかったわかった。買えばいい。ここ最近雑誌に寄稿した原稿料が全部飛ぶだろうが、構うものか。打診がきている細々とした仕事を思い出し、全部引き受ける覚悟を決める。

 目当ての品が手に入ると知り、紫苑はこの上もなく可憐に笑みを零す。そして鼻歌交じりにてくてくと足取り軽く山を下っていく。

 この娘が、わたしがこれまで出会った中で最強最悪の鬼だ。

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