六、白刃鬼の嘆く声は未だ止まず―はくじんきのなげくこえはいまだやまず―【二】

『何用じゃ』背後で訊ねる声がした。鈴の音か、梢を渡る小鳥の囀りか。どちらに喩えようかと迷うような愛らしい声が耳をくすぐる。『我が村に何用じゃ』会いにきた、あなたに。答えると、衣擦れの音と共に首に当てられた刃はそろりと離れた。

 わたしはゆっくりと、刺激せぬように振り返る。そこには、わたしに刃を向けた者が立っていた。ようやく、姿を見ることができた。瞬間、恐怖は掻き消える。いや、まったく別種の畏怖に、わたしは息をするのも忘れて見とれていた。

 若い女……もとい、少女と言っていいほどの幼さを残した面立ちをしていた。腰に届くほどの銀色の髪は風に弄ばれるままになびき、光の加減か僅かに藍色に見える双眸は一心にわたしを見つめている。痩躯に纏うのは更紗模様の着物、帯の代わりに房や鈴で飾った紐を腰に巻きつけていた。更紗とは花や動物など自然の文様を木型で染め上げる技法のことだ。日本には室町時代に伝わった。彼女の着物は現代にも受け継がれた着物の伝統模様としての江戸更紗とは違う。それよりもエキゾチックでありながら素朴な趣があり、模様のモチーフも珍しく興味深い。そのおもても袖から覗く腕も白磁のように滑らかだったが、柄を握る指は酷い火傷を負ったのか、赤く爛れていた。

 何よりもわたしの目を惹きつけて止まなかったのは、その角だ。彼女の頭部からは、すらりと二振りの日本刀が角のように突き出ている。その容貌の可憐さと、刀の異様さが、胸の中をざわつかせた。経験が警鐘を鳴らす。この見目麗しい美姫のごとき鬼は頗る危険だと。

 わたしの考えでは、鬼は大別して二種類である。話の通じる鬼か、そうではないか。最初、この刀を纏った鬼は――仮に白刃鬼としよう――前者かと思われた。だが彼女は。

 深い闇を秘めた目がじっとこちらを見つめ、再び口を開く。『わたしに何用か』話を聞かせてもらえないか。わたしは、各地で鬼の話を集めている。その言葉に、白刃鬼は悲しげに目を伏せた。『鬼、か……』か細い声だ。若い娘をいたぶっているような心持ちになり、質問を続けるのを躊躇ってしまう。しかし白刃鬼は大儀そうに瞼を持ち上げ、再び視線をこちらへと向けた。『わたしは生来の鬼ではない』この地の守護神か。『わからぬ。しかし、わたしには守らねばならぬ者たちがあった』

 ぞわり、と肌が粟立つ。どこからか、子どもの笑い声が聞こえた。それをきっかけに、風景は一変した。熱風に顔を焼かれ、思わず後退る。目を懲らすと、土でできた炉が見えた。それは炎を吹き出し、さながら小さな火山のようだ。木製のふいごを踏む音、赤黒い肌をした男たちのかけ声。遠巻きに見守る女や子どもたち。

 あれがたたら製鉄か。幻とはいえ、当時の様子をこの目で見ることが叶うなどとは思わなかった。これを僥倖と呼ぶにはあまりに危険な状況ではあったが、わたしの目は釘づけになった。なるべく子細に記憶しようと、瞬きを忘れた。

 村の者たちから少し離れたところに若い女が立っていた。更紗模様の着物を身に纏い、白銀の髪を背に垂らした美しい女だ。そばには花と餅菓子が供えられた小さな祠があった。誰も彼女に目もくれない、声もかけない。それでも女は満足そうに微笑んで、供えられた餅菓子をそっと手にとり一口囓った。その目は優しく細められている。

 名もなき山の神を大切に祀る民を、彼女は愛した。一族の繁栄を祈る村下を、男衆に怪我がないようにと手を合わせる女を、皆が健やかに過ごせるようにと餅菓子を持ってきてくれる年寄りを、野の花を摘んでは覚えたばかりの童歌を披露する子どもたちを、慈しんだ。姿は見えずとも、彼らは自分の存在を信じている。それが不思議で面映ゆく、嬉しいことだった。

 名もなき山の神は、村の守護者となろうと思った。彼らがこの山に住み着いた頃はただ煩いとしか感じなかったが、いつの間にか、慕わしく感じるようになったのだ。

『わたしが、間違うておった。質のよい玉鋼ができれば高く売れ、村の暮らしも楽になる。乳の出ぬ女も飢える子もおらんようになる。それが、愚かだったのだ』かつての自分の姿を眺める白刃鬼は、震える声で誰にともなく懺悔さんげする。

 山の神は、炉の中で生まれたばかりの鉄の赤子であるけらに手を伸ばした。小さなマグマのようなそれに触れると、白い指先はジュッという音と共に焼け焦げる。たたら製鉄は現代製鉄に比べれば低温で行われるが、それでも千度は優に超える。素手で触れられるようなものではない。神の肉体がどのようなものであるのかはわからないが、人間ほどではないにせよ、ダメージを負うらしい。

 鉧には刀の原料となる玉鋼のほか、純度の低い銑というものが含まれ、これは生活の道具となる。無論、高価で取引されるのは玉鋼である。山の神が触れた鉧は玉鋼の含有量が格段に多く、しかも良質であった。

 村は豊かになった。それでも変わらず村の者は素朴でありつづけた。山の神がそんな彼らが愛おしくてたまらなかった。彼らならば欲に絡め取られることなく、この営みを未来永劫、紡いでいくだろう。

 彼らを豊かにしたい。幸福にしたい。もっと、もっと――。

『わたし、わたしの咎だ。欲を掻いたのはわたしのほうだ。すべては、わたしが招いた禍だ』山の神の力が宿った玉鋼は、あまりに上質過ぎた。人の世にあってはならぬほどに。そしてその刀に、狂わされた者があった。

 村が薄暮に覆われる頃、とある男が一人、村にやってきた。見るからに身分が高そうな着物を纏っていたが、それは返り血で赤黒く染まり、白髪の混じった蓬髪、目は爛々と見開かれている。手にした抜き身の刀は風一つない湖面のような静謐な輝きを纏うくせにその実、禍々しく光を放つ。何用かと訊ねた年寄りが斬られた。老いて乾いた肌から鮮血が迸る。

『赦さぬ。赦しはせぬ』白刃鬼の声が戦慄く。彼女が見据える幻影の中には、逃げ惑う人々が見えた。男は高らかに笑いながら、刀を振るう。幼子が無残に斬り捨てられる。柔い肉はすっぱりと切れ、鮮やかな断面が覗く。獣のような声を上げて泣き叫ぶ母親らしき女の首がごとりと落ちる。戦いを挑んだ男たちはすでに地に伏せ動かない。

 山の神は村の者を守ろうとした。だが彼女の姿は村の者にも男にも見えず、凶刃はその身をすり抜けるだけだ。その声さえも届かない。

 村の中にまだ息をしている者がいるのかどうかも判然としなかった。刀を手にした男は乾いた笑いを零し続けている。刃は血で鈍ることはなく、冴え冴えと光る。

 幻といえどもさすがに、目を背けずにはいられなかった。やめろ、やめてくれ。それが遠い過去から聞こえた誰かの声なのか、わたしの心の叫びなのか判然としない。

 山の神を祀る祠の裏で、震える子どもが一人蹲っていた。目は限界まで見開かれ、歯の根が合わずガチガチと音を立てている。それが妙に大きく響いた。

 男は小さな祠を蹴飛ばし、子どもに近づく。『やめろ――!!』立ちはだかった山の神の後ろで、小さな骸がまたひとつ。

『赦さぬ……赦さぬ……!』山の神の慟哭が地を揺らす。同時に、炉が火を噴いた。火の粉は舞い、村は炎に巻かれる。

 男の目が、山の神を捉えた。どれほど叫ぼうと、前に立ち塞がろうと、その姿は誰の目にも留まらなかったというのに。

 新たな獲物が若い女と知り、下卑た表情で舌舐めずりをする。振り下ろされた刃が為す術もなく立ち尽くす山の神の腹に突き立てられる。噴き出す鮮血を浴びて、男はにたりと笑った。『痛い……痛い……』か細い声は、今にも息絶えそうだった——しかし。山の神の目は、炎を映し妖しく揺らめく。ほっそりとした手が、腹に刺さった刃を掴んだ。『皆、このような痛みの中、息絶えたのか……! おのれ、おのれ……——っ!』呟きはやがて絶叫に変わった。指に刃が食い込むのも構わず、強引に腹から引き抜くと、山の神は刀を大きく振り上げ、男を斬った。刀など手にしたのは初めてだろう。型も何もあったものではないが、驚いた男の首から胸を袈裟斬りに、刀は振り下ろされた。血の赤と炎の赤が酷く鮮やかに、禍々しく月明かりに浮かぶ。さらに山の神は一心不乱に刀を振り回し、すでに絶命していた男の首が飛んだ。

 かつて人であったものがただの肉片に変わり果てても、山の神は男を斬り続けた。何度も、何度も。戦慄く唇からはひび割れた叫び声が迸り続けている。赤く染まった彼女の顔に二筋、筆で掃いたように白い模様があった。血が涙で洗われた跡だ。

 何もかもが赤く赤く染まる中、彼女の頭部から二振りの刀がすらりと生えた。白々と穢れなくまるで双子の月のように輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る