五、黄泉童鬼—よもつどうき—
子どもの頃は、夢の中の食べ物は決して食べることができなかった。どれほど空腹でも、どれほど美味しそうでも、口に入れようとした途端、目が覚める。夢の中の食べ物というのは、そういうものだと思っていた。ご馳走の夢を見て目覚めたときには、ひどく残念な気持ちがしたものだ。
ところが近頃になって、夢の中で食事ができるようになった。口に運び咀嚼する。味もわかる。だが完食はできない。食べ始めたところで目が覚めてしまう。
これは
加えて、眠りを死に喩えることは往々にしてある。齢を重ね刻刻と死に近づき、あの世の物を口にできるようになったのだろう。
——これはただの戯れ言である。もしも読者の中で夢の中の食物を味わえる方がおられても、どうかお気を悪くなさらないでいただきたい。
夢の中の食物は黄泉戸喫ではないか。こう考えるに至る体験が、わたしにはある。
子どもの頃、生死の境を彷徨ったことがある。確か十にも満たない年の頃、季節は夏だった。
元々、
その日、庭で珍しい蝶を見かけた。
一瞬の迷いはあった。いつも通る道以外には決して足を踏み入れるなと言われていたからだ。しかし、家からそう離れていない場所に危険があろうとは努々思うはずもなく、わたしは蝶に誘われるがままに木立の中を分け入った。そのときに、藁でできた道切りが落ちているのを見た気がする。だけど蝶を見失うまいと必死だったわたしは、よく確かめもせずに奥へ奥へと進み——落ちた。
暗く深い穴だった。身体が何度も回転して前後左右もわからないまま、わたしの身体は落ちていった。痛みにしばし気を失っていたと思う。しかしほどなく目を開くと赤い
煌びやかで美しいその設えに目を奪われた。それに仄かに酩酊を誘うような甘い香りが漂う。すっかり夢見心地で呆けていると、愛くるしい童子が何人もわらわらと出てきて、わたしを取り囲んだ。血縁者なのか、同じような顔つきをしていて、皆、一様に笑っている。男か女かはよくわからない。くるくると好奇心旺盛な目を輝かせて、口々に童子たちは言う。『遊ぼ』『遊ぼう』『遊んでよ』鈴を転がすような声音は心地よく耳に響いた。好奇心に抗えず、わたしは一番近くにいた子の手を取る。小さい。だけど冷たい手だ。このときには恐ろしさなど感じなかった。母も、とても冷たい手をした人だったから。
そばで見ると、童子たちの額には団栗ほどの角が一対、生えていた。鬼か。宝角の生まれの者は鬼を恐れない。先祖代々、鬼の力を信じ敬い、または搾取してきた。そういう一族なのだ。悪しき鬼も善き鬼もない。鬼は鬼、それとして在る。彼らには彼らの理があるのだ。善悪を決めるのは人であるわたしたちの単なる一方的な都合に過ぎない。母はことあるごとにそう言っていた。だから不用意に近づくな、とも。
この者たちも鬼か。鬼の子どもだろうか。自分も子どもだからか、幼い姿に警戒心はあまり湧かなかった。わたしは誘われるままに共に踊った。彼らは澄んだ声で歌い、笑う。そのなんと心地好いことか。
一頻り踊って疲れたとわたしが言うと、童子のうちの何人かが連れ立って、わたしを次の間へと誘う。そこには漆塗りの食卓があり、皿の上には見たこともないような艶やかな果物や、凝った細工の珍しい菓子、それから硝子の杯には小さな泡を立ち上らせている色鮮やかなソーダ水。わくわくするようなものばかりだ。わたしはごくりと喉を鳴らす。『お食べよ、甘くておいしいよ』そう言えば、酷く腹が減っていて、ずいぶん長い間何も食べていないような感じがした。それに気づくと堪らなくなり、思わず手近にあった饅頭を手にした。表面は艶やかで、持つとずっしりと重みがある。餡がたっぷり詰まっているようだ。
『あかん、
『しっかりしぃや、義正!』先ほどの少女の声がまた聞こえる。甲高く澄んだ声は憤りに震えている。それに気を取られていると、焦れたように童子がさらに言う。『お食べ、お食べ。わたしたちと遊ぼう。ずっと、ずっと』そう囁いた声は途中から低く嗄れる。にぃと笑った口元から僅かに牙が見えた。先ほどまで愛らしく澄んでいた目は赤く濁り爛々と輝いている。
怖気が走り、わたしは手にした饅頭を落とした。ぺしゃりと割れて、中からは餡の代わりに蛆がわらわらと這い出てきた。悲鳴は上げなかった。このとき気づいたのだが、声が出なかった。そういえばここでは一言も発していない。
『早くお食べよ。ほら』差し出されたのは腐った鼠だ。肉が溶けて骨まで見えているのに、悲しげな鳴き声を上げて残った髭をひくひくとさせている。それを、ほら、ほらと言いながらわたしに押しつけてくる。童子があまりにぎゅうぎゅうと握るので、鼠の小さな目玉は押し出されるように零れて落ちた。
恐ろしくなって、わたしは逃げた。だが足がもつれて上手く走れず、すぐに服の襟首を掴まれる。童子とは思えない凄まじい力だった。『ほらほら、おいしいよ。食べて』腐った肉が押しつけられる。必至に抗ったが、臭気に咽せ、唇が開く。食わされる——そう思った、そのとき。
突然腕に走った痛みに、わたしは強引に眠りから引き剥がされた。目を開くと、恐ろしい形相の少女がわたしを睨みつけていた。追いかけてきた童鬼たちよりもずっと凶悪な目つきだった。おかっぱに揃えた黒髪からは真っ白な角が二本、生えている。口元は赤く濡れていた。
『戻ったか、義正』嘆息しながら少女は呟く。戻った……。そうか、ここは家か。安堵してようやく、自宅の一室にいることを理解した。
『賤しいこっちゃな、そないに腹が減っとったか』少女の鬼は言う。彼女にはわたしがどのような目に遭ったのか見えていたらしい。どうやらわたしは蝶を追っているうちに、禁足の領域に迷い込んでしまったようだ。
『お母ちゃんに言われとるやろ。宝角の家のもんは、悪いもんを寄せる。一人であないなとこ行ったらあかん』悪いものではない。人が自分の都合で悪いと決めつけているだけだ。母がいつも言う言葉をなぞってみる。『お前に害するもんは、悪いもんや』少女はしかめっ面のまま、わたしの頬をギリギリと抓る。痛い、痛いと泣き声を上げても容赦してはくれない。
『……あれを食うとったら、うちでも呼び戻せんかったわ』鼻息荒く言って、それからふと唇を緩める。『そないに泣けるんやったら、もう大丈夫やな。桃でも剥いたろか』頷くと、呆れたようにわたしを見据えたあと、彼女は立ち上がり、台所へと向かった。そのときちらりと見えた彼女の脹ら脛には、黒く醜い痣がいくつも浮かんで、白磁のような肌を蝕んでいた。
わたしの腕を嚙んだときに、穢れを吸い出してくれたのか。彼女が呼び戻してくれなかったら、わたしは今頃あの童子たちと共に笑いさざめきながら次の生け贄を待っているのかもしれない。
悪しき鬼も善き鬼もない。鬼は鬼、それとして在る。確かにそうだ。だが、彼女は確かに、わたしにとっては善き鬼であった。
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