四、子宝鬼—こだからおに—

『だども、旦さん……』情けない声を出しながら胸の前で手を組むのは、背丈は二メートル近く、横幅は成人男性三人分はありそうな大男だ。日焼けした肌に濃い眉、くっきり二重に大きな目、角張った鼻にがっしりとした輪郭、そして額には角が生えている。質感は木に近い。角以外は、お伽話に出てくる典型的な鬼のルックスだ。しかし、その表情は人が好さそうで、愛嬌があった。

 この鬼がどうも近隣住民に迷惑をかけているようだから説得してくれと、旧知の友から連絡がきたのである。やれやれである。わたしは民俗学者であって、不思議現象解決屋ではないのだ。鬼を退治できるような特殊能力もなければ人並み外れた膂力りょりょくもない。人に誇れるといえばフィールドワークで鍛えた健脚くらいのものである。しかしまぁ、出るのが鬼となれば足を運ばざるを得ない。

 この鬼はとある地方都市に住む。人口減少が顕著だったが近年、再開発により大規模ショッピングセンターやマンション、学校等が出来、新たに鉄道が敷かれ住民が増えた。古びた神社の裏でひっそりと暮らしていた鬼は、騒がしくなったことを厭い、通りかかる住民に嫌がらせをするという話だった。しかし。

『そらぁ、じゃじゃまちがいだで、旦さん』鬼は朗らかに笑う。聞くと、住民が増えて賑やかになったことをむしろ喜んでいるというのだ。では、何故通行人に嫌がらせをするのだ。女性の尻を撫でるというような卑劣な行為は悪戯ではすまされない。そう、この鬼は女性の尻を撫でるのだ。うら若き乙女の臀部を。尻派か、なるほど。気が合いそうである。などと納得している場合ではない。人間であろうが鬼であろうがけしからん。

最近せんどころのおなごしは、えどが薄いの。昔に比べて食うもんには困っとらんようじゃが』首を傾げる鬼に、心の中で密かに同意する。

 とにかく、通行人の尻を撫でるのは金輪際やめたまえ。わたしの言葉に、鬼は寂しそうに極太の眉毛を下げ、潤んだ目で見つめてくる。駄目なものは駄目だ。同意もなくご婦人の身体に触れるなど不埒な行為はやめるように。畳みかけるようにそう言うと、大きな鬼はしょんぼりと項垂れる。『だども、旦さん……子は可愛いがや』子? それが何の関係がある。『人間の世界では子が減っとるて聞いて、こらぁ、わしの出番じゃと思うたがや……』

 話が見えない。詳しく話してくれるか。鬼は頷くと、わたしに切り株へ座るように促した。自分は地面にどかりと胡座をかき、話し始めた。

 聞くところによるとこの鬼は、江戸中期頃からこの土地に住んでいるようだ。当時、働き者の娘がこの村の大地主の家に嫁にきた。美しく気立てのよい娘であったが、なかなか子ができずに舅姑に責められ、肩身の狭い思いをしていた。娘は小さな神社で隠れてよく泣いていた。鬼はいつもその姿を眺めては胸を痛めていた。ある日、憐れに思うあまりに、娘の背をさすった。最初驚いて怖がっていた娘だったが、神社という場所のせいか、神様が慰めてくださったのだと思ったらしい。日ごとお詣りにきては、涙を零すのだという。よほど家では居場所がないのだろう。鬼は次第に、娘を可愛く思うようになった。

『ほいで……つい、な。子ができんとは思えんような立派なえどじゃったで』照れたように鬼は笑いながら、両手で丸みを表現する。つい、じゃないし立派だからとかそういう問題じゃない。だいたい、人間なら社会的に抹殺されてもおかしくない事案だ。わたしの渋面に、鬼は面倒そうに頭を掻き、続きを話す。

 尻を撫でられさすがに気味悪く思ったのか、娘は逃げ帰った。しかしその後すぐ懐妊し、娘は喜び、神社に報告にきた。子ができてからは家庭内も円満であると。その後、噂を聞きつけた子に恵まれない嫁御が次々に神社を訪れては、子を授けてくださいと願うのだ。そのたびに鬼は尻を撫でた。そして撫でられた女はほどなく身籠もる。ついには他の村からも子を欲する女が訪ねてくるようになった。鬼が尻を撫でると子は増え、村は栄えた。

『あんときはいしこじゃった。ほんに、いしこじゃった……』ただでさえ赤い顔を赤らめて言う。尻を撫でて感謝されるとは羨ましい……ではなく、この助平がと心の中で呟く。

『子どもも遊びにきてな。ほんに賑やかじゃった』鬼は少し寂しそうに呟く。一時は栄えた村であったが、緩やかに人口は減り、時代が進むにつれ過疎化が進む。いつしか神社も寂れ、訪れる者もなくなった。さらに時が過ぎると、再開発で住民が増えた。それを鬼はとても嬉しく思ったのだそうだ。

『また人がようけ増えて賑やかになった。じゃが、世の中では子が減ってるて』そうか。そこで自分の出番だと思ったのか。鬼は近くを通りかかる女性の尻を片っ端から撫でたそうだ。自分の力で子宝を授けようと。結果、誰もいないのに尻を撫でられるという怪現象が発生し、人々を騒がせる羽目になったのだ。

 ため息が出た。鬼にまで少子化を心配されている人間社会もさることながら、やっていることは痴漢そのものなのに、動機が純粋過ぎることに当惑する。これでは、闇雲にやめろとも言いづらい。わたしは言葉を選びながら、説得を続けた。今の世の中は多様な生き方があり、すべての女性が子どもを望んでいるわけではないということ。

『祝言を挙げても、子作りせんということがや?』鬼は不思議そうに赤ら顔を傾ける。そうだ。子を望まない夫婦もいる。俄には信じがたいという表情で目をぱちくりとさせていたが、やがて鬼は項垂れた。

『そうか……。そらぁ、すまんかったなぁ……。えど撫でたおなごしにあんたからめんたしてもらえんか』尻を撫でてすまなかったと? それではわたしが撫でたみたいではないか……。しかしとにかく、わかってもらえたようだ。

 これからは通りかかる女性の尻を撫でたりはしないな? 念を押して訊ねると、鬼は大きな背中を丸めてしょげかえったまま、うんうんと頷いた。再び、わたしは堪えきれずにため息をついた。



 後日、再びわたしは鬼の元を訪れた。工事のための業者も三人伴っている。わたしは彼らに目的の場所を指示し、作業を始めてもらった。

『旦さん……何をしてるがや』不安そうに呟きながら鬼が姿を現す。もちろん、業者たちには見えていない。少し待っていてくれたまえ。後で説明するから。わたしがそう言うと、鬼は素直にその場に胡座を掻き、物珍しそうに作業を見守っていた。業者が帰ったあと、改めて鬼に向き直る。これは君の祠だ。そう言って指を指す。古びた神社の片隅に、小さな祠と説明書きの立て看板を設置したのだ。わたしに鬼の説得を依頼した友に相談し、責任者にかけ合ったのだ。この土地に残る、子宝を授ける鬼の心温まる故事を記してはどうかと。

 現代の生き方は多様になり、誰しもが子を望むわけではない。しかし子宝に恵まれず苦しむ人は今の世にも大勢いる。それは紛れもない事実だ。その人たちの拠りどころになってはくれないかと、鬼に提案した。すると鬼はぱっと顔を明るくして、人懐っこい笑みを浮かべる。『その、お詣りにきたおなごしのえどは撫でてもええってことがや?』まぁ、そういうことだ。鬼は何度も頭を下げて礼を言い、大きな手で握手を求めてきた。なんとも温かく優しい手だったことをよく覚えている。

 何年かあとに聞いた話では、この祠に願掛けをし、実際に子宝に恵まれたという報告が後を絶たないという。彼の力はどうやら本物のようだ。



 ところで、この祠に男性がお詣りした際には……どこを撫でられるのか、わたしは知らない。勇気のある御仁は試されるがよい。

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