二、梅花薫風、切嵌の鬼—ばいかくんぷう、もざいくのおに—

 昔は花見と言えば梅の花であった。まだ雪もちらつくような寒さの中で綻ぶ花を慈しむ。春を待つ古の人の心に思いを馳せながら梅を愛でるのも風流と言えよう。

 と、言いたいところではあるが、寒い。梅が咲く頃はまだまだ春とは呼べぬ気温が続く。ときたま気まぐれに暖かい日もあるが、のんびりと腰を据えて花を愛でていると、身体の芯から冷えてしまう。

 わたしは寒さが苦手である。男のくせにというなかれ、脂肪の少ない身体は寒さには弱いものなのだ。こういうと、しっかり着込めと叱りつける声が頭の中で谺する。慕わしい声だ。わかっている。だが、モコモコと着ぶくれるのは動きにくい。寒い季節は好かぬ。

 愛用の古いコートを掻き合わせ、手を息で温める。手袋をしてくればよかった。

 昨日、昔話をよく知るという老人を訪ねた。方言と歯の数が足りないせいでずいぶんと聞き取りづらかったが、興味深い話をいくつも聞くことができた。年寄りの話は面白い。いくら文献を漁っても出てこないような話が飛び出てくることがある。口伝は廃れつつある。早く、もっとたくさん蒐集しなければと焦りを覚える。彼らがこの世にいるうちに。

 その老人が言うには、遠い昔、不思議な梅林を見たそうだ。山中を歩いていると突然視界が開け、一面の梅が見えるという話だ。しかし、もう一度訪れようとしても、決して辿り着くことはできない。地図を調べてもそのような地形は存在しないのだそうだ。

 もちろん、わたしは花を愛でるためにこの寒い中、ハイキングをしているわけではない。老人は子どもの頃、その梅の園を見たのだと言う。山菜を採りに行って親とはぐれ、一晩中彷徨った。そのとき、美しい少女に出会った。少女が手招いたその場所には、月明かりの下、息を呑むほどに数多の梅が咲き誇っていた。紅、薄紅、白、そして同じ枝から紅と白の花を咲かせる輪違い。少女は朝までそばにいて、そして陽が昇る頃には村への道まで送ってくれた。別れ際、再度彼女を見た。朝陽に照らされるその額には、髪に埋もれるほど小さいけれど、確かに角があった。そう、老人は話してくれた。



 その話を聞いて、いても経ってもいられずにその場所を目指すことにした。梅と鬼とは、またなんと心をくすぐる組み合わせか。それに、少女の鬼ならば是非とも一目会ってみたい。話ができるのなら、僥倖だ。その一心で教えられた道を歩いていた。冬枯れの山は日陰には雪の名残がある。しかし幸い、足場は乾いて悪くはない。緩やかな坂道も歩きやすく、ご婦人でも容易に散策できることだろう。しかしどのように自分を慰めたとて、寒さには変わりなかった。

 道端の草の間では、ふきのとうがちらほらと見えた。淡く薄い花被が綻び、白く細かな糸が集まったような花が顔を出している。こうなっては苦みが強くて食べられたものではない。ふきのとうは好物だ。特にふきのとう味噌がいい。酒が進む。蕾みであったなら摘んで帰るのにと残念に思いながら春の息吹を眺めていると、ふと、鼻孔を甘い香りが掠める。わたしはその匂いを確かめようと、深呼吸した。

 確かに、梅の香だ。しかし見渡しても梅の木などない。不思議に思いながら、匂いに誘われるままに歩いた。坂を登っていると、木立が不意に消える。そして一陣の風が吹き、砂埃が舞い上がり思わず顔を覆う。コートの裾を煽られ、寒さに身震いした。

 風が止み目を開けると、切り立った崖にいて、眼下には一面に花が咲いていた。梅だ。手前に咲くのは紅く、そして薄紅、奥には白梅がまるで雲海のように果てなく広がっている。鳥肌が立った。深く息を吸うと、肺が梅香で満たされる。

 わたしは香りに誘われるがまま、九十九折りの坂を急いで下り、梅林へと向かった。それはどこまでも続いているように見えた。匂い立つ花の香に酩酊を覚える。

 いつの間にか、目の前には少女が立っていた。十五、六歳くらいだろうか。長い髪は結わずに流したまま、花顔を縁取る。着物は上質な物のようだが、帯結びは出鱈目だった。そして額には確かに、小さな突起がある。

 いや……よく見ると少女ではなく、少年のようだ。優しげな面差しだが、どこか凜とした強さを感じる。こんにちは、と声をかける。すると少年はにっこりと笑って挨拶を返してくれる。鬼というよりは天人のようだ。清廉とした空気を纏っている。

 少年は『何かご用でしょうか』と行儀よく訊ねてくる。鬼に会いに、などと言えば警戒されるだろう。返答に迷っていると、少年はわたしを促すように歩き始めた。梅の木の間をしばし散策することになる。歩きながら、わたしは話始めた。

 昔――八十年以上前かな、君に救われたという人から話を聞いた。山菜採りの途中で迷子になって、梅林の中で朝まで一緒にいてくれた子どもがいた、と。覚えているかい? 『さあ……はちじゅうねんがどれくらいの時間か、よくわからないです』少年は申し訳なさそうに答える。その人が、もしも君に会えたら、礼を伝えてくれと。そう言うと、少年は少しはにかんだように瞼を瞬かせる。『おじさんは、それを伝えにきてくれたの? ありがとう』なんとも愛らしい言いようである。いや、君に会いたくてきたんだ。少年の邪気のなさにつられて、わたしも素直に目的を告げた。『おじさんは、鬼が好きなの』わたしは迷いもなく頷く。『どうして。人間は鬼が恐ろしいのではないの。嫌いではないの。憎んでいるのではないの』不安そうに問う少年に答える。わたしは、好きだよ。昔、鬼に命を救われたことがあるからね。少年は驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに唇を綻ばせた。

 君は、一人なのか。こんなに広い場所で一人だなんて、寂しくはないかい。『寂しい』心細そうな声だった。『だけど』まっすぐに顔を上げて言う。

『ここは、僕が守らなくちゃいけないからね』その言葉と共に、ざあっと風が吹く。少年の着物と長い髪を舞い上げる。花びらが散る。紅、薄紅、白、混じり合って空を染める。渦を巻き翻弄される花びら、一際香る梅にふらりと酩酊を感じた。あまりに激しい風に思わず目を覆う。コートの裾がはためき、風が服の隙間から忍び込む。寒くはなかった。春の風だ。


 風が止み目を開けると、もう少年はおらず、梅林も消えていた。

 肩にはひとひら、紅白切嵌もざいくの花びらが留まっていた。

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