一、導鬼—しるべおに—

 某県の山深くの村に伝わる話である。

 昼日中でも暗く陽の光を遮り茂る常緑の森は、いつの季節も煙るように濃霧が立ち籠め、視界を曖昧なものにする。巨木で覆われた天蓋の隙間を縫うようにして差し込む光の中、小さきものが浮遊する。それはただの塵芥であろうが、中には意思を持って飛び回るこの世ならざる者も紛れているのだろう。

 現代では、プリミティブなフォークロアはずいぶんと生活から遠ざかってしまった。しかし幽玄の古道には、未だ力強く息づいている。濃密に満ちた何かの気配は、深く呼吸をすると肺にまで忍び込んできそうだ。

 とはいえ、古を訪ねる旅を恐れることはない。道標を頼りに歩けば、迷わず目的地に辿り着ける。

 だが、くれぐれも、決められた道を逸れないことだ。ひとたび参道を離れると、現世は一足ごとに遠のいていく。

 何かに導かれるように歩みを進めれば、行く先はさらに緑の闇が立ち籠める。道は細くなり獣道と区別がつかなくなっていく。湿った朽ち葉のにおいが鼻をつく。どこからか小川のせせらぎが聞こえるが、それが本当に水の音なのか、愚かな闖入者を嘲笑う声なのか、判然としない。

 草に覆われた、あるかないかの道を進んでいくと、やがて三つ叉に分岐する。これは、どこで参道を逸れようが関係なく、同じ分岐に辿り着くらしい。

 そしてそこに、一人の女が立っている。

 聞いた話では、ある人は、自分が見たのは老婆だったと言う。ある人は、祖父から聞いた話では見目麗しい若い女だったと言う。

 道に迷った者に、女は問う。行く先は里か、社か、と。

 里、あるいは社と答えた者には親切に道を教えてくれる。

 しかし、三つ目の道の残る選択肢を指差そうものなら、たちまち女は牙を剥く。額には薄闇に白々と光る角がある。それに気づいて逃げ出しても遅い。女は恐ろしい速さで追いかけてくる。執拗に。

 そうして、迷い人を食い殺すのだ。女の細腕とは思えぬ怪力で腹を割き、腑を啜るのだと言う。

 


 わたしが出会ったのは、中年に差しかかった女だった。このときにはまだ、村の伝承は知らなかった。ただ、好奇心でふらりと道を逸れたのだ。何かある。民俗学者の勘が働いたのかもしれない。

 女は着古した木綿の着物に、白い頭巾を深く被り、背中には竹籠を背負っていた。中は空だ。時代錯誤な格好だった。しかし老いの翳りは見えるものの、中々の美人だ。華はないが、素朴で親しみの湧く女だった。

 『お困りでしょうか』と女は声をかけてくる。『里へおいでですか。それとも社へお参りでしょうか』と。

 わたしは里への道を訊き、女が教えてくれたとおりに歩いた。しばらくすると元の道が見えてきた。

 礼を言おうと振り向くと、もう女の姿はなかった。



 二度目に出会ったときには、若い女だった。女の鬼が出るという伝承を知り、故意に道を外れた。

 以前と同じように、しばらく歩くと道は分かれる。そこに、所在なさげに女が佇んでいた。地味な色の木綿の着物に、白い頭巾を深く被っている。近づいてみると、以前に出会った中年女と面差しは似ているが、明らかに年齢は若い。母娘かもしれない。

 わたしは女に声をかけた。以前、あなたの母に道を教えてもらったことがある気がすると。女は曖昧に微笑みながら、少し困ったように眉を下げた。控えめながらその表情は艶めかしく、思わず亭主はいるのかと訊いた。女は再び、困ったように笑って小さく首を横に振った。それから『お困りでしょうか』と問いかけてくる。『里へ行かれますか。それとも社へお参りでしょうか』と。

 わたしは肩を竦め、いや、と言いかける。すると女の顔は見る見る曇る。襲いかかってくるかと身構えたが、女は今にも涙雨を降らしそうな憐れな表情を浮かべる。情けないことであるが、わたしは女の涙にたいそう弱い。嫁を娶るならば、涙など流さぬ鉄の女がよいと思っているくらいだ。

 慌てて社への道を乞い、女と別れた。少し歩いてから、振り返る。女はまだ同じところに佇んでいる。わたしが未練げに第三の道に視線をやると、女は白い両手を頭巾に伸ばし、そっとそれを外す。

 女の額には小さくはあるが、白い角が生えている。目元に光るのはすでに涙ではない。獲物を見据える獣の目。

 わたしは女に背を向け、社への道を違わず歩いた。追いかけてくるのではないかと思うと、背筋が酷く強張った。



 恐ろしい思いをしたものの、学者としての好奇心には勝てずに三度目に訪れたときのことだ。出会ったのは、年端もいかない少女だった。小学校一年生くらいに見える。真新しいランドセルが似合いそうなあどけない面差しだが、身につけているのは質素な着物だった。

 以前に出会った中年女にも若い女にも、不自然さは感じた。だが、こんな小さな女の子が山中に一人でいるというのは、非常にけしからんことだと憤りを覚えた。幼子は無条件に庇護されるべき存在である。普段はそんなことは考えもしないにも拘わらず、だ。

 存外、自分も俗世の常識に囚われているのだなと小さく嘆息する。

 彼女はむっつりと不機嫌のわたしに、幼い声で問いかけてくる。『お困りでしょうか』と。少し怯えているように見えるのは、わたしの顔色を窺ってのことだろうか。一つ咳払いをし、わたしは笑顔を作った。怖がる必要はない、と。

 それでも訝しげな表情は崩さずに、彼女は『里へおいでですか。それとも社へお参りでしょうか』と。

 逡巡の末にわたしは『目指すのは里でも社でもない』と答えた。第三の選択肢の先に何があるのか、それを知るためにきたのだ。

 何があるのか、何故行く手を阻むのか。問いかけてみたが答えはない。

 少女は怨めしげにわたしを睨んだあと、そっと頭を覆っていた布を外した。額には小さな角が木漏れ日を受けて白々と輝く。

 思わず嘆息した。それが、とても美しかったからだ。まるで貝殻のような静かで清く、しかしぬくもりを感じる白だ。

 見とれていると、少女が飛びかかってきた。小さな牙が腕に食い込む。シャツに血が滲んだ。鋭い痛みに、思わず力一杯振り払った。すると小さな身体は容易に持ち上がる。勢いあまって木の根元に彼女を叩きつけてしまった。血だらけの口をぽかんと開けて、こちらを見ている。

 少女は悲しげに眉を下げて、唇を嚙む。しかし堪えきれなかったのか、大粒の涙を零した。泣きじゃくる小さな鬼の子に、わたしは狼狽えるばかりであった。

 自分のしたことが非常に大人げなかったような気になり、わたしは鬼の子に乱暴を詫びて、里への道を訊ねた。すると小さく頷いて、丁寧に道を教えてくれた。だが、彼女の涙はついに止まることはなかった。



 学者の探究心というのは罪深くときに愚かなもので、わたしはまた、古道の脇道を歩いていた。次に会うのはどのような鬼だろうかと。すでに第三の道の先への興味は薄らいでいた。根っから、わたしは鬼を偏愛しているのである。

 しばらく歩くと、あの分かれ道に出た。女の姿はない。

 しかし、わたしには予感があった。いる、と。必ず〝彼女〟はいるのだと。

 辺りを見渡し、姿を探した。だが人影はない。そこまでは予測はしていた。再び、視線を下げて捜索をする。

 茂みの中を探ると、それはいた。人の形をしてはいる。だが、本当ならまだ母親の胎内にいるであろう姿。月齢は十月には満たないだろうか。皺だらけで肌は赤く、おでこにはほんのちいさな突起が一対あった。まだ肉が被っていて、あの清廉とした白は見えない。

 近づくとそれは蠢き、手足を動かす。歯のない口をぱくぱくとさせて、何か発しようとしている。だが、何も聞こえない。

 わたしは用意してきたおくるみで赤子を包む。そして腕に抱いてみた。頼りない重みとぬくもりを感じる。あやすように揺らしてやると、グッと握っていた手を僅かに開いて、唇をほんの少し緩めた。

 一瞬、このまま連れ帰りたいという衝動に駆られた。宝角の家ならば、この子を育てられるのではないかと。

 しかしわたしの考えを悟ったかのように、赤子は憤り始める。すまなかった。そう囁いて、わたしは赤子を地面に下ろす。そして、鞄から小さなナイフを取り出した。指先にそれをあてがい、引く。赤い筋からぷつりと血の珠が膨らむ。零さぬようにゆっくりと、赤子の口元に運んだ。僅かに開いた口に血は流れ込む。指を入れると、唇を窄めてちゅっちゅと吸い始めた。彼女の口の中は生暖かく、血を吸い取られながら、わたしは恍惚と目を閉じた。

 満たされたのか、すやすやと眠り始めた赤子の額をそっと撫で、わたしは踵を返した。

 今ならば、彼女が守る道の先に行くことができるだろう。そこは鬼の棲み処か、迷家か。それとも宝が眠るのか。

 だが、これほど小さな守人の目を盗み先に進むのは、あまりに卑怯な気がしたのだ。



 その後、何度もこの地を訪れた。もしかしたら、再び成長した姿で迷い人を待ち構えているのではないかと。或いは、老婆の姿となっているかもしれない。

 しかし、どれだけ探しても、あの分かれ道に行き着くことはできなかった。似た風景に出会うことはできたものの、それは、里と社、二つの道しかなかった。そして、分岐点には真新しい案内板が設置されていた。

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