第三十一幕 龍が死んだ午後(Reser arc Chartreuse#2)



 ――いつまで此処にいられるだろう?

 いつまでこうしていられるだろう?

 最近のあたしは、そんなことばかりを考えている。

 …………


✳︎✳︎✳︎


 報告会の、翌日。

 冬のに空一面を覆いつくした雪雲は、春の訪れと共に何処か遠くに旅立ったようで、部屋の窓を開け放つと、視界の先にはずっと向こうまで、淡い水色の空が広がっていた。 

 石塀いしべいの向こうの大通りには、早くも人と馬車とが行き交っていた。その大通りの向こう側に、時間塔じかんとうのそびえる教会が、更にその向こうには、堅牢な王城の佇まいが見て取れた。


 眼下に見える庭先もすっかり春の装いで、植えられていた金雀枝えにしだの木が、黄色い蝶々の子どものような、可愛らしい花を咲かせていた。


 ひと月も経たぬうちに、煉瓦道のはる薔薇ばらが満開になるだろう。

 そうしたら、外の茶室でいつかの秋の日のように、彼を誘ってここで二人で、紅茶を飲めたら良いなと――あたしはそう、思っている。


「……レゼル様、お着替えの準備が整いまして御座います」

「ええ」


 メイドのその言葉を聴き、あたしは彼女たちに手伝われ、ガウンから外行きのドレスに着替えた。着替えの最中、「こんな簡素なドレスで宜しいのですか?」とメイドに訊かれたので、「良いのよ。どんなに着飾ったって、どうせあの人はロクな褒め言葉ひとつ、持っていないんだから」と返したら、なにが面白かったのか、彼女はくすくすと笑うのだった。


 着替えを済ませ、一階の広間に入ると、既に席に着いて紅茶を飲んでいた父が、こちらを見て朗らかに笑った。


「お早う、レゼル」

「ええ……お早う、パパ」 


 既に朝食の準備が整っていた。

 陽の光がよく入る広間の、真っ白なクロスが敷かれたテーブルの上には、焼きたての小麦のパンと、スープと、葡萄のジャムと紅茶が並んでいた。メイドに椅子を引かれ、あたしは父の向かいの席に座り、食事を始めた。


「嬉しいよ、お前がこうして、私と食事を共にしてくれるのが」

「……いきなり、何よ」

「本当はカラン君に言われたのだろう? 私が屋敷に居る間は、私と食事をするようにと」


 あたしはトーストにジャムを塗る手を止めた。

 図星だった。本当は、あたしはすぐにでも上級学校の二号研究室に行って、朝食もカリラ達と一緒に食べたいと考えていたのだが、そうしようとしたら、彼がいつになく頑なな様子で、あたしに諭したのだった。

 ――どんな事情があっても、親父さんが屋敷に居る間は、親父さんと一緒に食事をするように、と。


 あたしのそんな様子を見て、父は静かに笑うだけだった。


「最近のカラン君の様子はどんなだい?」

「どんなも何も……昨日会ったばかりじゃないの」

「あれは仕事のときの顔だろう? 私が聞きたいのは、普段の、自室での、彼の様子だよ」

「うーん……そんな事を言っても、あの人は仕事以外もお酒ばかりよ」


 スープを一匙口に運び終えたあと、あたしは言葉を続けた。


「パパ、この間の貿易で、小さくて白い穀物を持って帰って来てたでしょ?」

「ああ、コメの事だね。展示市で出して見たものの、殆ど見向きもされなかった。落胆していたところを、カラン君がまとめ買いしていった。あの時は助かったよ」

「あの人、あれを今度、新しいお酒の原料にするらしいわ」

「……あんな膨大な仕事量をこなしながら、もうそんな事を考えているのかね? 上級学校での講義も続けながらかね?」


 父は半ば呆れたといった風に、口元をナプキンで拭った。


「ええ。講義中、眠そうにしてる事がたまにあるけど……内容は凄く面白いわ。魔術理論はもちろん、幾何学や経済学の新理論についても教えてくれるの。難し過ぎて理解しきれない所は、講義の後、学生達で自主的にゼミをやって復習して、そうしてやっと、さっき聞いた理論がどれほど凄い内容なのか、皆でびっくりしているわ」


 そう父に言いながら、あたしは先日も行われたゼミの事を思い出していた。

 その日の講義は、酒作りがテーマだった。当初彼は、自前の顕微鏡を使って、酵母の観察やアルコール発酵についての基礎を教える予定だったらしいが、講義の半ばあたりからどうにも雲行きが怪しくなり、最終的に、ウィスキーがいかに美味い酒なのか、樽熟成がもたらす味の変化にどれほどのロマンが詰まっているのか……そういった事を熱っぽく語り、青色の鐘が鳴るのを聞いて我にかえって、少しだけ顔を赤らめて講義室を辞した。


 その後のゼミは意外にも盛り上がり、楽しかった。あたしはベッグにことづけて、彼の工房で作っていた蒸溜したてニューポットと、樽で熟成した琥珀色の酒とを飲み比べ、樽熟成がもたらす味の変化を、クラスの皆と議論したのだ――その時の事を思い返していたところ、向かいの父がくすくすと笑うのが聞こえ、あたしは回想を止め、父に問うた。


「……どうしたの?」

「ああ、いや、すまん。お前がそんなに楽しそうに喋る姿を見るのが嬉しくてな」

「……なによ、それ」

「カラン君には、幾ら御礼を言っても追いつかないって意味さ」


 そう言ってこちらを見る父を面映ゆく思い、あたしは目を伏せて食事を再開した。


 ほんの半年ほど前までのあたしは、あの人がこの世界にやってくるまでのあたしは、こうやって、父と毎日食事をとる事はなかった。

 今になって、あたしは彼の言いたかった事を朧げに理解した。


 きっと、ずっと先の未来、年老いたあたしは、今こうやって父と共に過ごしていた時間や、交わした言葉の欠片を、ゆっくりと拾い集めたり、慈しんだりするのだろう。

 あたしはテーブルの向かいに座る父を見た。

 しばらく見ないうちに、その顔には深い皺が刻み込まれていた。翠緑玉エメラルド色の瞳が優しく細められ、あたしの事を見返していた。


✳︎✳︎✳︎


 朝食の後、水色の鐘が鳴った頃。

 身支度を整え自室を出たあたしは、玄関口へと至る廊下を歩き、いつもそうしているように、ある一枚の絵画の前で立ち止まる。

 黒檀こくたんがくに収まったその絵には、一人の女性が描かれていた。

 肩まで伸びた艶やかな金色の髪と、深い紺碧の瞳と、優しい眼差しが印象的な、若い女性の肖像だった。額の下には『カミーユ・アーク・シャルトリューズ 王国歴483-518』と、そう書かれていた。


「行ってきます、ママ」


 あたしはそう言って、廊下を進み、大階段の下で待っていたグランの元に向かう。

 

「お早う御座います、お嬢様。改めて、昨日はお疲れ様で御座いましたな」

「お早う、グラン。こっちの台詞よ。あの人とケネスとの舌戦、一番気疲れしたのは貴方でしょうに」

「ふふ、お嬢様には敵いませんな……」


 あたしとグランは何時ものように、二人用の馬車に乗り込む。

 エレヴェンス・ギルト王立上級学校に至る、緩やかな石畳の坂を登り、校門をくぐり、馬車を降りる。そうして、魔術教員棟の二号室の扉の前に辿り着く。

 辿り、着いた。

 …………


「入らないのですかな? お嬢様」

「……グラン貴方、わざと言ってるでしょう?」

「はて」


 これまで幾度も出入りした、見慣れた筈の扉の前で、あたしは立ちすくんでいた。

 扉のノッカーを鳴らすのが、億劫でならなかった。

 いま冷静に考えると、昨日の報告会での自分の発言は、本当に失敗だった。


 ――例えこれから先、どうなろうとも、あたしはこの人の歩く道を歩くわ。


 誰がどう聞いても、あれは愛の告白ではないか。

 彼にどんな顔をしてどんな話をすれば良いのか……そんな事をうじうじと考えていた矢先、目の前の扉が、内側からゆっくりと開かれた。


「……っ!」

「お早う、レゼルちゃん。どうしたの? ずっと扉の前に立ってたけれど……」

「お、お早う、カリラ。何でもないわ。ちょっと考え事してただけよ」


 扉を開けてくれたのは、彼ではなくカリラだった。

 その事に、少しもやもやしたものを感じながらも……あたしは安堵し、彼女に促され部屋に入った。グランは苦笑とも溜息ともつかぬものを一つして、馬車へと戻っていった。


「あの人は?」

「まだ眠ってる。昨日、ベッグさんと随分遅くまで飲んでたみたい」

「……そうなんだ」


 打上げの話なんて聞いてないぞ、とあたしは思った。

 あの後二人で行ったのだろう。なぜベッグが呼ばれてあたしが呼ばれていないのだろうか。そう考え、苛立ちを視線に込めて寝室の扉を睨むと、まるでそれに反応したかのように、扉が奥から開かれた。

 その向こうから、寝巻き姿の彼が、寝癖だらけの髪をぽりぽり掻きながら現れた。


「おごー」


 人間の言葉を発していなかった。「ああっ」とカリラが声を上げた。


「の……の、の み す ぎ た」


 開いてない目をしょぼしょぼさせながら、彼は両手を前に差し出し、人間の言葉を発した。


「すまんカリラ、カリラぁ。水く、水くれ……え。おごー、かりらー、あー」

「……お早う」


 あたしがそう挨拶すると、彼の目がようやくちょっとだけ開かれた。

 彼は、ゆっくりと時間を掛けて、目の前に立つ人物をあたしと認識し……その瞬間、目をまん丸に見開き、全身に脂汗を浮かべた。


「ふえぇ……レゼルさん……レゼルさん、が、来てるぅ……」


 マジで? という顔で、彼は台所に立つカリラを見る。

 マジです、という顔で、カリラは彼を見返す。


「た、たいへん、しつれいしましたー……」


 彼はそう言ってすごすごと後ずさり、寝室の扉を閉じた。

 振り返ると、カリラが両手で自分の顔を覆っていた。隠しきれていない耳の端が、林檎の様に真っ赤になっていた。その様子は、息子の恥ずかしい姿を見られた母親のそれだった。

 寝室に至る扉越しから、「あ゛ー、あ゛ー」と、のたうちまわるような声が聞こえていた。


「ごめんねレゼルちゃん、先生、実は、飲みすぎるとああなっちゃって……いつもじゃ、ないんだけど」


 あたしは嘆息して、今やすっかり定位置となった自分の椅子に腰掛けた。

 …………


 その後、復活して身支度を整えた彼が寝室から出てきて、仕事の事をあれこれ打ち合わせていると、窓の外から緑の鐘が鳴るのが聞こえた。随分と長い間、話し込んでいたのだと気付いた。


 あたしは席を立ち、台所で昼食の支度を始めたカリラの隣に立つ。

 手を洗い、竈門に乾いたまきをくべ、五徳の上に鍋を置く。

 冬の間にベッグが拵えた銅の大鍋には、塩を入れた水が張られ、それが沸騰した頃に、魔王謹製だと彼が言う、小麦の麺が入れられる。


 麺をかき混ぜるあたしの隣で、カリラは手早くソースの準備をする。良く研がれたナイフで具材を手早く刻み込み、鉄鍋を火にかけ油を引く。干し肉を入れ、油に旨味を吸わせた後で、玉葱やきのこを刻んだものを炒める。潰したトマトを鍋に入れ、銅鍋から掬った茹で汁と共にじっくりと煮詰める。茹で上がった麺が、ソースと絡められたあと、かしの大皿にたっぷりと盛られる。


 テーブルの書類は片付けられていて、お揃いの小皿とフォークが三組並べられている。

 そのうちの一組が自分のために用意されているのだと思うたび、あたしは言葉で尽くせないほど、満たされた気持ちになる。


 食後、洗い物を終え、あたしと彼は書斎に移る。

 外は変わらず良い天気で、雲雀ひばりの鳴く声が聞こえている。


 ソファに腰掛け本を読むあたしのすぐ隣で、彼が書き物の仕事をしている。右手に持ったかりの羽根ペンを、藍色のインクが入った硝子がらす瓶に浸す。ペンを持ち上げ、余分な水滴をゆっくりと落とした後、その先を真新しい羊皮紙に向ける。ペン先が紙のおもてを掻く音が、狭い書斎に響いている。


 あたしは本を閉じて、ソファにもたれて天井を見上げる。

 石組みの部屋の中を、埃を含んだ光がちらちらと舞っている。

 目を閉じて、瓶から漂うインクの匂いをゆっくりと吸い込んで、あたしは思う。


 ――ごめんなさい、ベッグ。

 あたし、本当は、貴方の酒蔵の計画なんて、どうでも良いのかもしれない。

 あたしはただ、こうやって、彼の隣に座る口実が欲しかっただけなのかも知れない――


 彼が紙面を捲る音、隣のかすかな息遣い、台所に立つカリラの小さな足音、オーブンから漂い始めた、クッキーの甘い匂い。

 あたしはいつまでも、目を閉じていた。


 ――いつまで此処にいられるだろう?

 いつまでこうしていられるだろう?


 次第に暖かさを増してゆく、穏やかな春の午後。

 この世で最も優しいこの場所の、陽の当たる暖かいソファの上で。

 最近のあたしは、そんなことばかりを考えている――


✳︎✳︎✳︎


 その、二週間後。

 王国は、王家及び十数の公爵家・伯爵家の連盟で、新大陸貿易を目的とする勅許ちょっきょ会社を設立する事を発表した。

 それに伴う法改正で、新大陸との貿易には、国王の許認可が必要となった。

 これまで新大陸との貿易を一手に担っていたシャルトリューズ家も申請を出したが、それが受け入れられる事はなく、事実上、シャルトリューズ家は新大陸との貿易権を剥奪され、王国経済の中心部から追い出され、歴史の表舞台から、姿を消した。

 …………


✳︎✳︎✳︎


 龍が死んだ日のことは、今でも、昨日の事のように思い出せる。

 ギルド王国歴524年、狼の月、第三週目の太陽の日。

 その日は朝から、絹糸のような雨が音もなく降っていた。

 あたしは、彼とベッグと三人で、蒸留所新設にかかる計画の最終調整をしていた。


「……以上、ウィスキーを蒸留するポットスチルは、当面二基稼働とする。但し、ポットスチルの原料となる銅の今の相場は、当初の想定よりずっと安い。そこで、今回立ち上げた新商會しょうかいで銅を多めに仕入れておいて、予備のスチルをもう一基、準備したい。ベッグ、どうだ?」

「問題ねえ。月がふた巡りする頃にゃあ出来ようが……そもそもの話だがよ、魔王。銅の相場ってぇのは、特段今が低い訳じゃあねえぜ。まだ下がるかもしれねえ。今買う必要があんのか?」

「……銅は今後、相場が急騰する可能性がある。その局面が数年後か、数十年後かは分からないが……ともかく、今が銅の最安値である事は、間違いないと思う。だから仕入れたい」

「あいよ。あんたが言うんだから、間違いあるまい。お嬢もそれで……お嬢?」


 そこで、ベッグと彼があたしの方を見た。それはしっかり把握出来ていた。


「……レゼル、大丈夫か?」彼は言った。

「ええ、大丈夫……大丈夫よ」


 そう答えると、しばしの静寂が、魔術教員棟の二号室を覆った。

 改めて考えると、きっとその時、あたしは酷い顔をしていたのだろう。


「……やはり、今日は休みにしよう、レゼル。屋敷まで送っていくよ」


 彼がそう言い、席を立ち掛けたところだった。

 けたたましい音を立てて、二号室の扉が開かれた。


「!」


 あたしと、彼と、ベッグ……その時二号室に居た全員が、開かれた扉を見た。

 果たして、扉を開けたのはピルゼン教授だった。いつになく緊迫した様子で、球のような汗を浮かべ、肩で息をしていた。

 すかさず、彼が教授のもとに駆け寄った。


「教授! どうしたんですか、そんな血相を変えて……」

「はぁ、はぁ、はぁ……」


 ピルゼン教授は己に構わず、息を整えると、きっ、と彼を睨むように見上げた。


「大変だ。魔王陛下、至急来てくれ。北の方角に龍が出た。今、こちらに向かって来ている」

「は……えぇ?」


 ピルゼン教授のその言葉に、あたしとベッグは、間抜けな声を返してしまった。

 龍が来た――そのあまりに突拍子もない、現実味のない言葉に、全員が面食らった。

 彼だけが、教授のその言葉を聞き、別の反応を示した。


「北っ……⁉︎」


 彼は教授の両肩を掴み、叫ぶようにこう言った。


「サウンドフィールズはっ⁉︎ サウンドフィールズは無事か!?」

 

 普段ならば決して見せぬその剣幕に、今度は教授が狼狽する番だった。


「あ、いや……サウンドフィールズどころか、龍はまだ王国内にも入っていない。だが、監視塔から望遠出来るところまで来ているんだ。次の鐘が鳴る頃にはかなり近くまで来てしまう。緊急事態なのだ。至急来てくれんか」


 それを聞くと、彼は明らかに安堵して、長く息を吐いた。


「……なぜ俺が。王都の防衛は王国軍の管轄でしょう。少なくとも俺の出番じゃない」

「百年も戦争をしとらんこの国の軍なぞ信用出来るか。魔術ギルドの連中も、龍と聞いて大騒ぎするだけだ。頼む陛下、君がらんと生きた心地がせんよ」

「…………」


 彼はしばらく黙考もくこうし、やがておもむろに立ち上がった。


「先にサウンドフィールズに行きます。その後すぐに監視塔に向かいますので、教授はそちらで支度を願います」

「あ、ああ……すまんな」


 それだけの遣り取りを終えると、彼は上着を羽織り、開いたままになっていた扉の方に歩き、外に出ようとしたところで一度立ち止まり、あたしに声を掛けた。


「レゼル、先に監視塔に行って、王国軍と合流してくれ」

「……いいえ。ここに居るわ。龍は貴方がいれば十分でしょうし、貴方でどうしようもないのなら、あたしが居合わせても仕方ないわよ」

「だがここだと危険だ。近くに一人でも多く護衛が居た方が良い」

「生憎だけど、王立軍にあたしの護衛は務まらないわ。魔術ありの戦闘なら、あたしの方が強いもの」

「……レゼル」

「不安なら、今ここで貴方と手合わせして、証明してあげましょうか?」


 ――あたしは何故、こんな可愛げのない事を言っているのだろう。


「……分かりましたよ、お嬢様」


 彼はそう言って溜息をついた。


「じゃあ教えてくれ、レゼル。そもそも龍は、人を襲うのか?」

「わざわざ雲の下を飛んで北からこちらに来てる訳だから、この王都を襲う可能性が大でしょうね」

「狙いは?」

「恐らくだけど……新王城の地下にある魔晶石ね。それ以外に理由がない」

「分かった。最後に一つ。そもそも……龍は、人間の手で殺す事が出来るのか?」

「……王立図書館の二百年前の文献に、雷に打たれて死んだ飛龍の記述があるわ」

「そうか、助かった」


 それだけを言うと、彼は足早に二号室を去った。教授もそれに続き、部屋を辞した。

 二号室はしんと静まりかえった。扉の向こうで、校内はにわかに騒がしくなった。


「なあ、お嬢」

「何よ」

「サウンドフィールズって、何だい?」

「王都の北の四十六街区にある孤児院の名前よ。正式には、サウンドフィールズ孤児院」

「なんで魔王が孤児院なんて気にすんだよ。しかもあんなおっかねぇ目ぇして、龍を見るより真っ先によ」


 はぐらかそうかとも思ったが、こちらを見るベッグの目がいつになく真剣だったので、あたしは正直に答える事にした。


「サウンドフィールズはカリラが育った孤児院よ。今日、あの子がそこに手伝いに行ってるわ」

「……つまり、あいつは猫姫さんを迎えに行ったって事か?」


 それを聞くとベッグは、舌打ちを一つして、苛立たしげに席を立った。


「ちょっとベッグ、どこに行くのよ」

「ちいと魔王を止めてくる。猫姫さんは俺が代わりに」

「やめてっ!」


 自分で思っていたよりも大きな声が出た事に、他ならぬ自分が驚いてしまった。

 ベッグがこちらを睨んだ。初めて見る、本気で怒っている目だった。


「あいつが今、一緒に居てやるべきは、猫姫さんじゃなくてあんただろうが!」

「そうだとしても、今カリラに手を差し伸べられるのはあの人だけよ。ベッグ、例え貴方でもその役割は任せられない。あたしがそれを許さない」


 ただならぬベッグの様子に気圧されながらも、あたしはそう答えた、

 二人しか居なくなった研究室が、しばらくの間静まり返った。


「あんな、お嬢」

「……なによ」

「あんたが魔王との結婚を延ばしてる理由、今なんとなく分かったけれどよ……あきらめな」

「…………」

「あんた、王太子との縁談蹴ってるんだろ。その所為であんたの家は新大陸との貿易権を剥奪されたんだろ。そのくせ、あんたは魔王との結婚の話も詰めきれてねえ……それって、猫姫さんが居るからなんだろ?」

「……っ!」


 ベッグはどかりと椅子に座り込み、何も言えなくなったあたしを睨みつけた。

 つい先程まで絹糸のようだった雨が、次第に強さを増して、窓や扉を叩いていた。まだこれから、強まりそうな気配を漂わせていた。


「お嬢、おれぁよ、人間てえのはつくづく妙なもんだと思ってたぜ」ベックは言った。

上流階級あんたたちは特にそうだ。物心つく前から自分のつがいが決まってて、自分がどうしたいかなんて二の次で……そんな人間どもで成り立ってるこの王都が、おれには、波打ち際の砂の城みたいに見えた。気持ち悪くって仕方がなかった」


 諭すような口調で、俯くあたしから少しも目を逸らさず、彼は言葉を続けた。


「でも、あんた達は違った。あんたは魔王のことを好いてたし、魔王もあんたの気持ちを受け入れていた。なにより、あの報告会の夜、おれは奴から、あんたに対する覚悟のほどを聞いたんだ……おれはあんた達に、幸せになって欲しいと思った。だが、あんたが魔王との結婚を先延ばしにしてる理由が、猫姫さんにあるんなら……悪い事ぁ言わねえ。諦めな」


 ベッグは一度窓外に目を遣って、またあたしの目をじっと見て、言葉を続けた。


「あんた達が三人で暮らす未来はねえ」


「……ベッグ、貴方に、そんなこと言われる筋合いはないわ」

「今おれが言ってやらなきゃ、一体誰が言うんだい」


 雨と風は尚も強くなっていた。


「報告会の夜、あんたの元々の婚約者がこの国の王太子だったと聞いて、おれぁ耳を疑った。ありえねえ話だよ。王家との縁談蹴るなんてよ。それがまかり通ったのは、魔王とシャルトリューズが怖くて怖くて仕方がなかったからだ」

「…………」

「だが、猫姫さんは違う。あのは孤児だ。英雄カラン・マルク伯爵との間柄は……例えそれがめかけであっても相当カドが立つ筈だ。これ以上一緒に居れば、今度はあの娘に危険が及ぶ。あんたと魔王は、それだけ貴族共の恨みを買ってる」

「……よ」

「それでなくとも、此度こたびの酒の一件で、魔王は再び脚光を浴びてる。もし今日、奴が龍の撃退に一役買えば……可哀想だがよ、そん時、舞台に猫姫さんの居場所は無くなる。あんた達三人のお飯事ままごとは、これで終いだ」

「……分かってるわよ」

「お嬢、あんたが悪い訳じゃねえが、早めに魔王との縁談詰めな。急がねえと、もうそれすらも難しくな――」


「――分かってるわよぉっ!」


 あたしは、自分のその声を聞いた。

 悲鳴の様な声だった。


 ――泣くな、レゼル。

 泣けば惨めになるだけだ。

 シャルトリューズの女として、それだけは許されない――

 

「……分かってるわよ。全て貴方の言う通りよ、ベッグ」


 自分の身体から、こんなに弱弱しい声が出るなんて、知らなかった。


 世界を壊しそうな程の嵐が、窓をけたたましく叩いていた。

 身じろぎしたあたしの後ろで、椅子の背もたれが僅かに軋んだ。

 握りしめた手が、膝の上で真っ白になっていた。


「……都合の良い未来を諦める事が出来なかったのよ。ずっと、このお飯事ままごとが続けばいいと思ったのよ」

「お嬢……」

「仕方、ないじゃない。……初めての時間だったんだもの。涙が出るほど、優しい時間だったんだもの。仕方ないじゃない。『あともう少しだけ、この時間を噛み締めていたい』と……そう思っても、良いじゃない」


 そう言って、あたしは窓の外を見た。



 世界が、一瞬、白一色に塗りつぶされた。

 一拍遅れて、凄まじい轟音が王都を襲った。

 音圧で、窓のガラスがみしりと鳴った。



 それからひと時の無音を経て、遠くから喝采の声が鳴り響いた。


「……な、何だ? さっきのでけえ音は」

「落雷よ。あの人の魔術だわ」

「……魔術、あれが……一人の人間の成せる事なのか? じゃあ、まさか、龍は」

「死んだでしょうね、雷の直撃を受けて」


 ベッグは信じられぬとばかりに、両手で顔を拭った。


「魔王陛下が帰ってきたわ」あたしは言った。


「これで、もう誰も、彼を……龍殺しの英雄となったカラン・マルクを、放っておくことはできなくなった。王家はあらゆる手段を用いて、あの人に取り入ろうとするでしょう。そうなれば、あたし達の手は、もうあの人には届かない……見捨てられた商人の娘と、孤児の手では、もう」

「魔王はあんた達を見捨てねぇ」

「……あの人の意思は関係ないわ。龍を殺す力を持っていても、多勢には敵わない。それが人の世というものよ」

「それでも、あいつはあんた達を見捨てねぇ。あんたは、あいつを信じねえのか?」

「信じるも何もないわよ。……だって」


 あたしは再び、一面の灰色を映す窓を見た。


「だって、本当は、最初から分かっていたんだもの。

 あの人の心が、あたしにも、カリラのもとにも無い事を」


 雷の強い光を見た所為か、静かな部屋は、先程までより少しだけ、薄暗く思えた。


「……ガラスが割れるのが今日だとは思わなかったわ」


 あたしがそう独りごちると、ベッグもまた、窓の外の灰色に目を向けた。


「二百年振りの龍、か……全く最悪のタイミングで来ちまったもんだな」

「ベッグは知らないかしら? 人間の物語ではね、多くの場合、龍は殺される為だけに登場するのよ。殺されて、一人の英雄を産む、それだけの為に」

「……そりゃ何とも、人間様にたいそう都合の良いこって」


 ベッグはそう言ったきり席を立ち、部屋を後にした。


 扉が閉じられた後、あたしは一人、椅子にもたれて目を閉じた。

 雨と風の足音が、次第に遠のいていくのが分かった。監視塔から鳴り響く歓声は、いつまでも止まなかった。テーブルに置かれたランプの火が揺らいでいた。

 雨が止むまで、あたしはそうして目を閉じていた。

 …………


✳︎✳︎✳︎


「昼前の雨が嘘と思う程の快晴ですな」


 あたしの隣を歩くグランが、空を見上げてそう言った。

 見上げると、王都の空は血のように赤く染まっていた。竜殺しの騒ぎのためか、上級学校から貴族街へと伸びる大通りには、人っ子一人居なかった。

 どこか遠くから黒歌鳥くろうたどりの鳴き声が聞こえていた。まだ若い子なのか、歌はあまり上手くなかった。


「あの人の魔術の影響よ。雨雲は全て、あの龍を殺すいかづちと雨に変わったわ」

「なんと……いやはや、魔術師というのは恐ろしいものですな」

「この大通りに誰一人として居ないのは、なんだか、とても不思議ね」

「皆、龍の死体を見に行きましたよ。伝説の証人になりたいのでしょう」

「彼は?」

「……、魔王陛下は、龍を撃退し、ピルゼンに諸々指示を出したあと、カリラ殿に付き添われて自室に戻られたようです。魔力を使い切ってしまわれたのでしょう、相当お疲れの様子だった、と聞きました」


 大通りには、あたしとグランの足音だけが響いていた。

 ふと……カリラは今頃、どうしているだろうと、あたしは思った。

 だがそれは、考えるまでもない事だった。

 きっとカリラは、彼の研究室にいる。後々王城で質問責めに遭うだろう彼の為に、食事を作り、ベッドを整え、暖炉に薪をくべ、部屋を暖かくして、疲弊し倒れたあの人の傍に居る。

 カリラ・サウンドは……あたしのたった一人の親友は、そういう子だ。


 ――何故、今、彼の隣に居るのがカリラなのだろう。

 ――何故、今、あたしは彼の隣に居ないのだろう。


「お嬢様、どうなさいました」


 いつの間にか、グランはあたしのずっと先を歩いていた。

 そこで始めて、自分が歩みを止めている事に気が付いた。


「グラン……ごめんなさい」

「何を謝ることがありましょう、お嬢様」

「ごめんなさい。ごめん、なさい」


 あたしは只々ただただうつむいて、うわ言のようにその言葉を繰り返した。

 視界には、雨に濡れた石畳と、自分の靴先だけが見えていた。


「シャルトリューズ家が新大陸との貿易権を剥奪された時、あたしは……あたしは、心の奥底で喜んでしまった」

「…………」

「あたしは、あの人とカリラと、三人で居る時間が好きだった。この時間が永遠に続けば良いのにと……そう思っていたわ」


 ――記憶をすべて失った、哀れで孤独な魔王陛下。

 もし仮に、王国が彼の有用性を見誤れば。

 もし仮に、王国がシャルトリューズ家を見捨てれば。


 その、なし崩しの未来の先に、あたしと彼が、人々から忘れ去られ、やがてカリラと三人で穏やかに暮らせるのではないか――そう、あたしは密かに願っていた。


 そんな浅はかな願いの所為で、父はあたしと王家との縁談を蹴り、シャルトリューズ家は王家を敵に回し、目が眩む程の莫大な損失を背負い……結果として、父とグランがこれまで積み上げてきた五十年という努力の成果を、めちゃくちゃにした。

 そして今まさに、数千人の船乗りとその家族達が、路頭に迷っている。


 抱えきれない罪悪感が、胃の腑の底まで染み込んでいた。

 足はもう、一歩も動かなかった。使用人によってよく磨かれたあたしの皮靴の底が、雨で濡れた石畳に張り付いていた。いつも馬車に乗って行き来していた屋敷への道が、今は、世界の果てへ行くよりも長い道のりに思えた。


「……お嬢様、少し、私の話をしても宜しいですかな」


 グランの声が、こちらを向いた。

 あたしは口を閉ざし、俯いたまま、彼の次の言葉を待った。


「私には、好きな方がおりました」

「…………」

「私はずっと、その方だけを、お慕い申し上げておりました。……今も、まだ」


 ――カミーユ・ブローラ。


「その方が、他の男性と結ばれる日の朝、私はね、その方の自室に呼び出された……そして、その方に、こう言われたのです。『グラン、貴方は、』」



 ――グラン、貴方は、

 私たちのことを、本当に祝福してくれる?

 …………



「……それで、グラン、貴方は、その言葉に……なんと返したの?」

「お祝いの言葉を申し上げました。それは・・・嘘偽りなき、真心からの言葉でした」

「…………」


 一羽の鳥が空を横切った。

 あたしにはその影だけが見えていた。


「二十五年前の事です。丁度こういう、雨の上がった美しい晴れ間だった。今でも鮮明に思い出す事が出来る。それが私の、最も大切で、最も痛く、最も愛おしい記憶」


 穏やかに、孫に語って聞かせるように、グランは言った。

 赤い西陽が水溜りの上を跳ねていた。街全体に、雨の匂いが漂っていた。


「気がつけば、私はもうこんなにも年を取っておりました。かつて友だった者が幾人も死にました。そんな今頃になって、私は、その朝の事をよく思い出すのです」

「…………」

「その時の己の言葉を後悔している訳ではありません。ただ……もし一言、あの日、あの時……あの方に想いの丈を伝えていれば、あるいは、この感傷が生涯に渡る事はなかったのではないかと……今になって、折に触れ、そう思うのです」


「……届かない言葉なんて、無意味だわ」あたしは言った。


 ――本当は、最初から分かっていたんだもの。

 あの人の心が、あたしにも、カリラのもとにも無い事を。


「致し方ありますまい。あの方の別の次元の・・・・・想い人は、既にかくり世の存在……とうに死んでいるのですから」


 ――え?

 頬を思いきり殴りつけられたような衝撃が、俯いた頭をぐらつかせた。

 別の次元と――グランは確かに、そう言った。


「……あの人が、貴方にそんな話を?」

「聞かずとも分かります。他の誰に分からなくとも、私に分からない筈がない」


 事も無げに、グランは言った。


「半年前、あの方が記憶喪失と仰った時、すぐに嘘だと気がつきました。名前も知らぬあのお方と、それ以前のカラン・マルク伯爵とでは、あまりにもが違った。お嬢様やカリラ殿に対する、真摯な覚悟が感じられた。普段は何を言われても飄々としておられるのに、貴女様がたの事となると途端に怒りを露わにした。私はそれを、心底嬉しく思った。カラン・マルク伯爵ではない、あのお方になら、お嬢様を任せて良いと……そう思えた」

「…………」

「彼が死者に焦がれているのは、目を見れば直ぐに分かった。もう二度と会えない方に惹かれる気持ちは、私には痛い程に良く分かった」


 グランの言葉達が、思考のフィルタを素通りして、あたしの中に入っていった。

 感じる全ての物事が、奇妙な浮遊感を伴って、現実との輪郭をぼやけさせた。


「だが、彼は私のような愚者ではない。あのお方ならば、きっとお嬢様を大切にしてくださる。過去ではなく、今を見てくださる。死者ではなく、今隣に居る誰かを……貴女の事を、いつかきっと、真っ直ぐに見てくださる。だから」

「…………」

「だから、お嬢様、貴女は御自身の思った通りになさい。一緒に居たいと思う方と、共に歩んでいきなさい。その為になら……私達はどうなっても構わないから」


 グランの微笑みが、少しだけ滲んで見えた。


 ギルド王国歴524年、狼の月、第三週目の太陽の日。

 二十五年後のあたしは、今日という日をどういう風に思い出すだろう。

 龍が王都を襲った日。あの人が龍を殺して、再びこの国の英雄となった日。ベッグと喧嘩した日。グランの過去を聞いた日。激しい雨が降った日、夕焼けが酷く赤かった日――


「――お嬢様!」


 聞き慣れた足音が、こちらに走ってくるのが聞こえた。


 次の瞬間、自分の身体から力が抜け、膝から崩れ落ち、地面に叩きつけられる……そのすんでのところで、あたしはグランに抱き止められていた。

 仕立ての良い黒の外套コートから、ほんの僅かに、彼が時折吸っている煙草の香りがした。


「私は……怖い」


 一粒の暖かい雨が、首筋に落ちたのを感じ、あたしは空を見上げた。


「そう遠くない未来、貴女あなたを置いて、この世を去らねばならぬ事が」


 見上げた視界の先に、ぞくりとするほど高い空が広がっていた。

 血のように赤いその空は、いただきに至るにつれて、宵闇の黒へと染まっていった。


 また、一粒の雨が落ちた。


「いずれこの手が、こうやってうずくまる貴女の、この小さな背に、届かなくなる事が」


 見上げた空には、欠片かけらの雲さえ見えなかった。


 また、一粒の雨が落ちた。


「こうやって、貴女を抱きしめて、涙を拭う役割を、他所よそに託さねばならぬ事が」


 あたしをかたく抱きしめたまま、グランは言った。しわがれた手は震えていた。

 骨ばった指が背中に食い込んで、痛いほどだったのを、よく覚えている。


「私がこの命を終えるとき、お嬢様は幾つになっているでしょうか。お嬢様の隣には誰が立っているのでしょうか。お嬢様はちゃんと笑えて、幸せでいらっしゃるでしょうか……私は、カミーユ様との約束を、ちゃんと果たせているのでしょうか」


 グランが宰相の座を降りて、あたしの執事の座に就いたのは、六年前、あたしが十歳の頃だった。母――カミーユが死神病に罹患して亡くなって、そう間も無くの事だった。


「……人間の生とはなんと儚いことでしょう。古代人が巨石を以って自らの墓を作り上げたのも、貴族が絵や壁画に己の肖像を描かせるのも、愛した誰かとの子を成すのも……全て全て、自分の生きた証を、のちの誰かに覚えていて欲しい……その欲求にほかならない」


 それから六年間、彼は、亡き母に代わりあたしの面倒を見てくれていた。


「若かりし頃、私はそうした価値観を馬鹿にしていた。生の値打ちは自分の中にしかないもので、血を分けた子どもなど不要だ、と。でもね、今は違うのです。年を取り、自分の命の終わりが見えてきた今、とかく願う事は……」


 震える声。

 異界のように赤い空。

 また、一粒の雨が――


「他の何を差し置いても、お嬢様には、生涯を終えるその時まで、笑顔でいて欲しい」


 ――あたしは、グランの背中に両腕を回した。

 思いのほか、小さい背中だった。


「ねえ、グラン」

「……なんでしょう、お嬢様」

「あたしがあと二十五年早く、貴方と出会えていれば良かったのにね」


 いっときの静寂が、あたしとグランの間に降りた。


「……それは、私にとって余りにも、余りにも……勿体無い、お言葉です」


 グランはそれだけを呟いて、よりきつく、よりかたく、あたしの身体を抱きしめた。


 また一羽の鳥が、空を横切った。

 彼の腕の中で、あたしはそれを、ぼんやりと眺めていた。

 …………


✳︎✳︎✳︎


「それではお嬢様、私はこれにて失礼致します。お嬢様のこれからの物語に、幸あらん事を」


 屋敷に帰り着いた後。

 グランはあたしの部屋の前で深々と頭を下げ、あたしの前から立ち去った。

 その背中が角の向こうに消えるまで、あたしは彼の事を、ずっと見ていた。


 部屋に入り、扉を閉じた。

 窓の向こう側に広がる空は、その色を赤から紫に変えようとしていた。

 石塀いしべいの向こうの大通りにも、その向こう側の時間塔じかんとうにも、人の影は見えなかった。


「…………」


 あたしはサイドテーブルに置かれていた、一つのグラスを手に取った。

 水晶のように滑らかなその表面を、折れそうな程にか細い脚を、じっと眺めた。


 世界は少しずつかげりゆき、グラスから輝きを奪っていった。

 あたしはグラスを両腕で包み、胸元に抱き、窓に背を向けて目を閉じた。

 夜の帳が降り切ったあとも、あたしはしばらく、そうしていた。


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魔王とカリラ nyone @nyone

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