第三十幕 機械仕掛けの神(Beg Uigeadail)



「こんな場末の酒場で一人、葡萄酒片手に何を読む?」


 そんな言葉を投げかけられて、ベッグは手元の羊皮紙から声の方へと顔を上げた。

 老人と言ってもいい年頃の、人間の男だった。白いものが混じり始めた頭髪を、香料が混ぜ込まれた油で整え、仕立ての良い灰色のコートを羽織っていた。シャツの袖口は卸したてのように真白で、銀のボタンも革靴も、鏡のように磨き込まれていた。


 十五街区にある酒場『オルケストラ』はその日、満席とまではいかないが賑わっていた。

 王城から最も遠い王都南東部という土地柄もあって、常連客層は皆、酒の加減を知らぬ学生や宵越しの銭を持たぬ板金街の鉄打ち共、そしてそんな連中をカモにしている犬族や猫族の娘達……いずれも上品とは言いがたい連中ばかり。そんな雑多な店内にあってその老人は明らかに浮いていた。最も、客も店主も酒に夢中で、老人の事など気にも留めていない様子だった。


「ピルゼンの旦那……どうしたんだ、こんな夜更けに、こんな喧しい場所に」


 ベッグは老人――ピルゼンの姿を認めると、そう声を掛けテーブルの向かいの席を勧めた。


「ああ、有難う……いやはや参ったよ。いつものように陛下の元を尋ねたら、二号室の鍵が閉まっておってな。酒に有り付けなんだ僕は、泣く泣くこの寒空の下、ここに辿り着いたのよ」

「そりゃ災難で。魔王は今頃ホビット庄だ。水汲みに。……メイルに乗って行きやがった」

「はは、君が不機嫌なのはその為かね。魔王陛下のその水汲みとやらは、大方新しい酒の研究の為だろう? それがあの男の全てなのだから、寛容な心で許し給えよ」


 程なくして、ピルゼンの元に一杯の葡萄酒が運ばれた。そのカップをピルゼンが持ち掲げると、ベッグもそれに倣い己のカップを持ち上げ、二人は一口酒を飲んだ。


「……あぁ、美味い。はは。いやしかし、今宵彼の部屋で、あの甘美なる麦酒を飲もうと算段しとった矢先にこの仕打ち。居合わせたマノン先生も、陛下の不在を残念がっておったよ」

「へ、へぇー……ど、どうでもいいがよ、マノンさんは、そこで諦めて帰ったのかい?」

「ああ。僕も流石にこの夜更けに、若い女性を連れ歩く訳にはいかんからね」

「……確かに」


 不満げなベッグのその様子に、ピルゼンはにやにや笑いを浮かべつつ、彼にこう言った。


「……ベッグ君、実を言うとな、当初僕がマノン先生を陛下の元に遣ったのは、二人が男女の仲になるのを目論んでの事だったのよ」

「な、なにいっ⁉︎」


 ベッグが慌てて席を立った。手元の木製のカップがみしりと音を立てていた。

 ピルゼンはその有様が心底可笑しいといった風に、くつくつ笑って酒を煽った。


「君はまっこと良い反応を返しよるなぁ。まぁそう、慌てなさんな。僕の見た限り、二人が男女の仲になる気配はないよ」

「だ、だがよ、マノンさんはまんざらでもなさそうじゃねえかい」

「そうかも知れんが……それだけで色恋の沙汰が決まれば、この世はかくも面白くないよ」


 ピルゼンはひとまずベッグを席に着かせ、椅子の背にもたれ燭台を見上げた。


「皮肉なものよ。あの男・・・の目はこの世の全てを見通せるのに、実際のところその目には、酒と二人の姫以外、映っておらんのだからね」

「じゃあなんで、そんな魔王にマノンさんを宛てがったんだよ」

「……それで魔王陛下があの研究室に留まってくれたなら、本学は王国に対し千金に値する切り札カードを持つと同義だからだ」

「くっだらねえ」

「くだらないのが人間よ、ベッグ君」


 忌々しげなベッグの物言いに、ピルゼンは静かに笑って言葉を続けた。


「ああも飄々とされておると、僕とて時折忘れそうになる。この世ならざる異界の知識で国を救った『魔王』、そして彼のかたわらを決して離れぬ『氷の姫』……ベッグ君、君の目には、至極平和なこの人の世が、朝凪の海のように見えんかね」

「応とも」

「それはいなだ。凪に見えるは水面だけ。ベッグ君、この国の中枢共はね、内心恐怖でならんのだよ。あの若く聡明な二人の頭脳をもってすれば、この王都の天地をも逆に出来よう。そういう二人が王の手にないこの現状が、内心恐怖でならんのだよ。だから王家は、あの二人が欲しくてならん。それが分かっているからこそ、本学は『魔王』を決して手放さん……」


 そう言ってピルゼンは葡萄酒を煽り喉を湿らせた。

 ベッグはさも不機嫌だと言わんばかりに鼻を鳴らし、つい今しがたまで読んでいた手元の紙束をばさばさと揺らした。


「……つう事は、おれの手元のこいつも、彼奴等きゃつらにゃ恐怖でならねえ訳だ」

「うん? ……そういえば君は、僕が来るまで何か読んでおったな。あの二人に関する文章かね?」

「酒蔵造りの計画書だよ。魔王とお嬢とで書いてた奴。こないだ完成したもんで」


 ベッグから羊皮紙の束を手渡されたピルゼンは、その紙面に書かれた文章を斜め読みした。


「これは……はは、君も大変だな。この国きっての切れ者二人が足並み揃えて書くものは、こんなにも……計画書というより学術書だな。これだけの文章量があって、無駄一つない……」


 ピルゼンはぶつぶつと呟きながら、羊皮紙を一枚、二枚……と捲っていった。向かいの席でベッグが苛立たしげに足を揺すっているにのは気づいてすらいない様子だ。


「ほう、今回の計画では、君たちの名義で新しく商會しょうかいを立ち上げるのだね。そうしてその商會で資材調達、酒造り、販売の全てを行うと……良いね良いね、若者の起業という奴は何時見てもわくわくするよ……ふうむ、こうして見るとやはり独自の大麦畑を保有しとるシャルトリューズ家側のバックボーンは強いな……成る程、麦が豊作の年でも不作の年でも一律の値段で買い取る特約……そうか、琥珀の酒は多少作り過ぎたとしても、樽に詰めれば熟成により在庫価値を高めうるからそうした商法が可能な訳か……なんと! ホビット達が運び込んだ泥炭の代金は、新商會が支払うのではなく、王都シャルトリューズ商会がホビット庄に生活資材を運ぶ事で決済するのか! ……奇抜な発想だが合理的だ。現金輸送に強盗は付きものだが、ホビット庄に現金など送っても使う先がない。なれば、酒代と麦代の差額分は生活資材で現物決済する事で、お互いの労務負担は格段に」

「……いい加減返してくんねえかなあ、旦那」


 ベッグは憮然と言い放った。ピルゼンは苦笑いを浮かべ、大人しく紙束を彼に返した。


「いやはや、その計画書、凄まじいな。正直に言うが、君の手には余るよ。理解しきれまい」

「分かっちゃいるがよ、それで放り投げる訳にはいかねえ。三日後に、お嬢の実家でこの計画の報告会があるからな」

「報告会? ……ああ、成る程」


 ピルゼンは一瞬首を傾げたが、即座にベッグの言わんするところを理解した。


「そういえば、此度こたびのこの酒蔵計画には、シャルトリューズ家も多額の金を拠出するのだったな。では三日後の報告会を以って、かの豪商が君たちに投資をするか否か、その命運が定まる訳だ」


 そう言うとピルゼンは微かに笑い、教え子に諭す教師の顔をしてこう言った。


「ベッグ君、きみは、レゼル嬢の御父上が今どんな事業をしているか、きちんと把握しとるかね」

「当然だ。シャルトリューズ家の商いは数多あるが、いま一番の花形は新大陸との貿易だ。噂では、王国経済はその収益で持ってるっつっても過言じゃねえらしいな」

「正解。では、それほどに儲かる貿易業を、他の豪商や貴族どもがやらぬ理由は?」

「知れた事。単にその航海術と、長旅に耐えうる船を作る金がねえだけだ」

「正解。ふふ、良く勉強しとるじゃあないか」

「全部あんたがこの酒場で教えてくれた事だ。死んでも忘れねえよ」


 ぶっきらぼうに言い放ったベッグのその一言を、ピルゼンは満足げに聞き届け、言葉を継いだ。


「それにしても、シャルトリューズ殿もよくやるものだ。愛娘を屋敷に残し当主自ら船に乗り込み、数ヶ月もの航海を経て新大陸に渡り、言葉も通じぬ者共と交易……帰って早々、聡明な娘と魔王の作った新事業の計画を審議とは……休まる暇もない。老体にはさぞきつかろうに」


 そうしてピルゼンは、嘲笑ともため息とも付かぬ息を漏らして、葡萄酒を一口含み、手元の紙束を見遣った。


「……それにしても、斯様かようしっかりとした書面を携えての報告会とは……いよいよ君達の計画も大詰めと言うわけだ」

「応。だが、揃う面子でただ一人、その計画書を読み解けねえ脳足りんが居る訳で」


 いかにも苦々しいと言わんばかりに、ベッグは大きな手で己の頭をガジガジと掻いた。


「……ひとつ聞くがねベッグ君、シャルトリューズ家からの質疑への応答はすべて魔王陛下が行うのであろう? 君の仕事は酒造りだ。金の絡む難解な仕事は魔王と姫の二人に任せ、君は泰然と構えとれば良かろう。その書を解せずとも、だ」

「……それでも、読む努力はする。横着はやらねえ。あの二人に置いてかれたくねえもんで」


 屹然と羊皮紙を睨み、ベッグは言った。ピルゼンはそれを見届け、「若いねえ」と呟き、葡萄酒の最後の一口分を空にして、側を通り掛かった女給に追加の一杯を頼んだ。


「あの二人が能力の差で君を切るとでも?」

「切らねえだろうよ。魔王もお嬢も他人にとことん甘ぇからな。ただ」


 ベッグは左手の葡萄酒をぐびりと飲み干し、厨房に向かった女給に向かって「おねえちゃん! さっきの旦那の注文、カップじゃなくて瓶で寄越せ!」と叫び、ピルゼンに向き直って右手の紙束をばさばさと揺らした。そして彼は、唸るように低く小さくこう言った。


「こういうもんを見せつけられる度に、色々考えちまうのよ。おれはあいつらとは違う種なんだと。頭の回らねえ生き物なんだと。簡単な仕事しか出来ねえ役立たずなんだと。あの二人の、お荷物なんだと。……それを考えだすと、たてたまらねえで、こうしてここで、訳わからねえ紙束を前にもがいてる」


 ベッグのその独白を、ピルゼンは静かに聞いていた。


 夜更けも佳境に差し掛かり、酒場は一層に喧しく、店内には麦酒と葡萄酒と干し肉の匂いが立ち込めていた。二人の元に新たな酒瓶が運ばれ、ベッグはそれを無言で互いの杯に注いだ。


「……『この世で一番美味い酒』」

「……なんだい? そりゃ。何かの暗号かい?」


 ベッグのその問いに、ピルゼンは寂しそうに笑って、言葉を返した。


「魔王陛下がな、言っておった言葉よ。彼は随分酔っていたので、覚えておらんだろうがね」


 葡萄酒で満たされたカップを取り、飲むでもなく手元で弄びながら、ピルゼンは続けた。


「冬の初めの頃だった。僕はさる要件で陛下の元に赴いたのだが、そこで初めて、彼の作るこの世ならざる異界の美酒の啓蒙を受けた。あの時の衝撃といったら、例えるなら……」

「旦那、話の続きを」

「すまん……かく、その後僕は毎晩陛下の部屋の扉を叩き、彼の酒を無心したのだが、その日々の中で、いつになく彼の酔いが過ぎた夜があった。その時に彼が言った言葉が」

「『この世で一番美味い酒』かい?」

「左様。数々の美酒を生むあの陛下をして『この世で一番美味い』と言わしめる酒……それを作る事が、彼の人生のしるべという事だった。願わくば僕も一口飲んでみたいものだ」

「まさに、貴族の道楽って奴だな。貧乏人のおれにとっちゃ、羨ましい限りだぜ」

「それが、そうでもなさそうだったのだ」


 勿体をつけるように、葡萄酒の香を聞きながら、ピルゼンは話を続けた。


「彼には、その酒を贈りたい誰かが居るようだった。余程大切な人に違いないが、それが誰なのかはついぞ訊けず仕舞いだった」

「あいつの大切な人? そりゃお嬢だろう? もしくは猫姫さんか」

「いいや、二人の姫ではないようだった」


 ピルゼンのその言葉を聞き、ベッグは首を傾げ、ううむと唸った。


「あの二人じゃねえってなると……他に候補が居ねえな。誰だ? あいつの亡き母親か?」

「……分からん。もしかしたらその人は、我々も預かり知らぬ、魔界の住人かもな」

「茶化すなよ」

「茶化してなどおらんよ。例え彼が本当の魔族であっても、僕は一向に驚かん。ただ……」


 ピルゼンはそこで言葉を止め、喧騒に溢れる店内を、集う客達を、ぐるりと見渡した。

 将来の夢を語り合う学生達、若い猫族の娘に鼻の下を伸ばす壮年の男、弦楽器を掻き鳴らし歌う吟遊詩人……そして、彼らに絶えず寄り添う麦酒と葡萄酒を見た。そうしたのち、彼はベッグに向き直った。その目には、己の孫を見るような、慈愛に満ちた光が宿っていた。


「これだけは分かるよ。『この世で一番美味い酒』……それは、決して一人では至れぬ」


 ピルゼンはなみなみに注がれた葡萄酒をぐいと飲み干し、卓の上に数枚の銀貨を置き、そのまま席を立ち、場を辞した。


「魔王陛下の物語には、君が不可欠なのだ。丁度、君の物語に魔王陛下が不可欠なようにね」


✳︎✳︎✳︎


 それから三日後、報告会当日の夜明け前。

 ベッグは自宅――『ウーガダール鍛治店』の硬いベッドの上で目を覚ました。

 布団から抜け出し、冷たい石床に降り立ちゆっくりと身体を伸ばし、食料庫から黒パンと干し魚を取り出し簡単に朝食を済ませ、身支度を整え外に出た。


おそよう・・・・さん、気狂いクレイジーベッグ。板金街はもう昼だぜぇ」


 道をたまたま通りかかった知合いのジムが、ベッグにそう声を掛けてきた。背丈はベッグより少し低く、横幅は同じくらい。厚手の作業着に手袋の出で立ちで、火炉かろにくべる木炭を背負っていて、その顔は煤で真っ黒になっていた。


「陽のねえ昼があったもんかよ。ジム、その煤まみれの顔洗ったらどうだ」

「今のこの板金街で、そんな綺麗な顔してんのはお前だけよ、ベッグ」


 ベッグが顔をしかめたのを見て、ジムはがははと笑ってベッグの背中をばしばし叩き(ちなみに彼の手のひらも、顔と同様煤だらけだった)。通りを南に歩き出した。


「あの別嬪な馬の手入れに行くんだろ? 俺もそっちの方だ。行こうぜ」

「応」


 ジムの言う通り、板金街は既に昼の活気を見せていた。

 未だ陽の出ぬ夜空には、幾つもの星が静かに瞬いていたが、ベッグの自宅が面している板金街の大通りにはそこかしこの燭台に火がともり、近所迷惑など省みぬホビットやドワーフ、人間共が鉄を打つ硬質な音が街中に響いていた。炉から出る炎の熱気で、額にじわりと汗が滲んだ。

 ふと、ベッグは後ろを振り返り、自宅の扉の前を見た。

 つい数ヶ月前まで、そこには『ウーガダール鍛治店』を示す重厚な鉄看板が掲げられていたが、今その看板は取り払われ、ベッグの寝屋のベッドの脇で、薄く埃を被っていた。炉にくべられる筈だった燃料も、全て琥珀の酒の蒸留に使っていた。


「感傷かい、ベッグ」

「いいや。確認ってやつよ。おれは酒造りに生きてみせる。自分の選択は後悔しねえ」


 ベッグのそのきっぱりとした物言いに、ジムはさも面白くなさそうに首を振った。

 

「勿体ねえ、勿体ねえ。ベッグ知ってるか? 今ギルドに来てる武具の注文の八割が、王国軍からのものなんだぜ? 王国は今、シャルトリューズ家の貿易でかなり潤ってるから金払いも良い。お前の腕なら直ぐに大儲けだ。その千載一遇のチャンスを、酒狂いの魔王なんぞに関わっちまった所為でお釈迦にするなんざ、正気の沙汰じゃねえぜ」

「王国軍は軍備の一新をしてるだけなんだろう? それらが兵隊共に十分に行き渡れば、もう鉄打ちに用はねえだろうさ」

「それでも、人間の貴族なんて身分違いな輩と一緒に酒を作るよりは利口だぜ」


 それきり会話は途切れ、程なくして二人はジムの工房まで辿り着いた。


「んじゃな、ベッグ。あの別嬪な馬に宜しくな」

「応」

「酒の話、失敗したら俺んとこに来いや。お前とお袋さん養うくらいなら出来っからよ」

「……気持ちだけ貰っとくぜ。ありがとよ」


 ベッグはジムと別れた後、大通りをまた少し南に歩き、大きな宿の角を右に曲がった先にある共同厩舎に辿り着いた。愛馬のメイルはベッグに気付くや、彼の元に寄ってきた。


「お早うさん、メイル」


 ベッグは慣れた手つきで、彼女に餌を与え、その後メイルのブラッシングを始めた。厩舎の脇に置かれている木製の脚立に登り、前掛けから幾つかのブラシを取り出し、彼女の毛の流れに沿って、頭からしっぽにかけて、丁寧にくしけずっていった。


「ギルト王国歴524年、龍の月、第三週目の水の日。人間どもはよメイル、傲慢にも、今日というこの日に、そういう名前を付けてるんだぜ」


 メイルの毛を繕いながら、ベッグは呟くように言うのだった。


「数十年後のおれは、今日という日をどういう風に思い出すかね。生涯最良の日か、はたまた生涯最悪の日か……いずれにせよ、生涯忘れられねぇ日になるこたぁ、間違いねえわな」


 メイルはそれを、ただただ静かに聞いていた。

 王都に差し込み始めた真っ赤な朝日が、厩舎の空気を次第に暖かくしていった。


✳︎✳︎✳︎


「二人とも、準備は良いかしら?」

「ああ」

「う、うい」

「ベッグ、貴方、大丈夫?」

「……うい」

「……気負うなよベッグ。大丈夫だ。交渉は俺とレゼルでうまくやる」


 良く晴れた穏やかな午後、シャルトリューズ家の報告会は予定通り行われようとしていた。

 ベッグはかつてない緊張に見舞われていた。荒ぶる頭と心を撫でつけようと、大きく鼻から息を吸いこんでみたものの、王都一の豪商・シャルトリューズ家の屋敷の空気は、普段彼が嗅ぎ慣れている板金街の鉄臭いものとは全く異なっていて、結局のところ、彼の緊張はいささかも静まる事はないのだった。


 気負うなという方が無理だ、とベッグは思った。

 これまでの数ヶ月、彼と魔王が持ち得る時間の全てをかけて打ち込んできた酒蔵作りの計画、その成否はこれから始まる報告会に委ねられていると言っても過言ではなかった。シャルトリューズ家からの投資が受けられるか否か……それはベッグの人生に直結した。

 だが、そんな彼の心情は何処吹く風、魔王はいつもの飄々とした様子でレゼルに問うた。


「ところでレゼル、今日の報告会の直接の相手は親父さんか? それともグラン殿か?」

「二人も同席して話を聞くけれど……計画に関わる具体的な質問なんかは、宰相のケネスが行うわ」


 ベッグはレゼルの言うケネスなる人物と会った事は無かったが、一方の魔王は彼女の返答を聞き俄かに顔をしかめた。


「ケネスだと? ……ケネスってあの、レゼルを見たら目をトロンとさせる銀髪のイケメンだろ? よく見るなとは思ってたけど、あいつ宰相だったの?」

「そうよ」

「うへえ、マジかよ……俺、あいつ苦手なんだよなあ」


 そう言った魔王の心底嫌そうな様子を、ベッグは存外に思った。


「ふうん、珍しいじゃあねえか、あんたがそんな風に、特定の奴を嫌がるなんて……余程腹に据えかねる事でもあったかい」

「そういう訳じゃないけどさ……俺、奴にこれでもかって程敵視されてるから、やり辛いわ」

「なんだ、嫌われてるのはあんたの方かい……ははあ、見えたぜ。あんた、そのケネスって奴に無理やり酒を飲ませたろう」

「そんなブンケイみたいな真似しねえよ……」


 至極真面目な顔でそう言いのけたベッグを睨み、魔王は溜息をついた。


「……好かれるわきゃねえだろう。長らく恋い慕っていただろう麗しのお嬢様レゼルの旦那の座に、俺みたいなポッと出の魔王がすぽっと収まっちまったんだから」

「フスッ」

「こら笑うなレゼル」


 魔王にそう咎められると、レゼルが振り向きこれ見よがしに溜息をつき、不満げにこう返す。


「……あのねえ、笑われたくないのなら、貴方も道化師ピエロにばかりなっていないで、偶にはびしっと格好良いところ見せてよ」


 そうしてむうと頬を膨らませ、少しだけ顔を赤らめ、魔王の袖口を掴み彼を見上げる。


「……貴方、あたしの婚約者、なんだからね」

「お、おう」


 そうして二人は、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに視線を逸らす。

 ――やり辛え。

 ベッグは二人に聞こえるように舌打ちした。

 ここ最近に至り、魔王とレゼルはよくこういう、男女特有の甘やかな雰囲気を出すようになった。ベッグは二人の事が嫌いではなかったし、仕事仲間として公私ともに上手くやっていけるとも思っていたが、こういう空気・・・・・・だけは勘弁して欲しいものだった。


 それにしても、人間のつがいというのは妙なものだとベッグは思った。

 魔王と氷の姫、二人の間柄はシャルトリューズ家と王家によって仕組まれたものに相違ない。しかも魔王は半年程前にそれ迄の記憶の一切を失ったという話である。

 もし仮に、自分がそういう立場に置かれたとして、自分は果たして、周囲に勝手に充てがわれた女を愛する事が出来るのだろうか……思考の片隅でそんな事を思ったが、それはベッグの想像の埒外であったし、何より今、自分にそんな余裕はないと、彼はそれ以上考えるのを止めた。


「……それにしても、ケネスってかなり若いよな。まだ二十歳くらいだろう? それでシャルトリューズ家の宰相って凄くないか? もしかしてあいつ、分家の血縁者か何かか?」


 魔王のその問いに、レゼルは居住まいを正し、微苦笑を浮かべこう返した。


「血縁というか……ケネスは、グランの義息よ。孤児院でグランに引き取られて、物心つく前から、この家の財務一切を担う跡取りとして英才教育を受けて来たわ」

「初めて知った。グラン殿には義息が居たのか。じゃあ、奥さんや実子は……」

「……グランは生涯独身よ」


 それ以上は何も言わず、レゼルは応接室のドアを開けた。

 世界さえも隔てそうな重厚なドアの向こう側、シャルトリューズ家の会議室には、宰相のケネス、執事のグラン、そして当主――レゼルの父親が、既に席に着き、ベッグたち三人の着座を待っていた。


✳︎✳︎✳︎


「新種の酒の製造にかかる事業計画書は全て拝読致しました」


 確かに、魔王をして『いけめん』と言わしめる美男子だなと、ベッグは思った。

 シャルトリューズ家の若き宰相、ケネス・タリスカーは、彫りの深い顔立ちに銀色の髪をなびかせ、皺一つない高級なドレスシャツに身を包み、当主の隣席で、明らかに不機嫌そうな顔で魔王を睨みつけていた。隣席のシャルトリューズ氏は、そんな彼の様子を苦笑混じりで見遣っていた。


「仕事柄、様々な計画書や専門書を読んできた積りではおりましたが、ただ一つの事業計画書にシャルトリューズ家の財務担当を総動員したのはこれが初めてでした。大麦・水・泥炭……ウィスキーなる新たなる酒の原料の調達手段、製造工程、最終的な販売経路や、年次毎の収支計画と……およそ知りたかった全ての情報が何ら不足なく記されていましたが、何分当方の読解力不足から、何度読んでも理解出来ない点が幾つかありまして、まずはそこをお伺いしたい」

「ああ」魔王が答えた。

「一点目に、新会社の社屋と別に王国西部の穀倉道路上に拠点を作る計画ですが……」


 計画書の紙面を捲りつつ、ケネスは静かに舌戦の火蓋を切った。

 …………

 ケネスの質問は十数点に及んだ。酒造にかかる発酵・蒸留・熟成における詳細の説明、衛生上の問題、原価の試算法、資金決済の手段、原料の安定的な確保について……窓外の陽が黄色から橙に変わり、さらに赤に変わろうかという頃合いで、ようやっと、ケネスと魔王の応酬――ベッグには及びもつかぬ――が幕を閉じた。


「……質問は以上。陛下、大変に解りやすい説明を有難うございました」

「不明な点は?」


 苦渋の表情を浮かべるケネスに対し、静かに魔王はそう言い放った。ベッグは舌を巻いた。

 長時間に渡る二人の遣り取りは、徹頭徹尾ベッグには理解出来る類のものではなかったが、二人の様子を見るに、どうやら魔王とレゼルが作った事業計画に粗らしい粗はなかったようである。その証拠に、シャルトリューズの当主も、レゼルの執事のグランも、その間殆ど発言をしなかった。


「……いえ、特には。本件にかかる資金及び各種資材については、計画書の通り早急に手配致します。ただその前に、この件についてもう一つ、魔王陛下にお伝えせねばならぬ重要な話がございます」

「それは?」

「酒蔵新設にかかる初期費用の話です。計画書では、シャルトリューズ家から八割、魔王陛下の個人資産から二割を拠出しますが……」

「ああ」

「……実は」


 言葉を一旦区切り、息を整えてからケネスは続けた。


「本件に対し、王室から内内に、大口の資金拠出の打診が来ています」

「……は、はあ?」


 ケネスのその、いきなりの申し出に、ベッグは思わず素っ頓狂な声をあげた。


「……資金拠出? 王室が直々に、この計画にか?」

しかり。陛下のお察しの通り、極めての異例で御座います」


 ほうけて何も言えぬベッグを置いて、静かに、魔王とケネスは言葉を交わした。


「えらく突然の話じゃないか」

「ところがそうでもないのです、魔王陛下……貴殿は先日のレゼルお嬢様の誕生日式典にいて、氷の葡萄酒を披露なさいましたな」

「ああ」

「あの折の葡萄酒が来賓から相当な好評を博しておりまして、王室に献上した内の一本を、国王陛下が直々にお飲みになり、お気に召したようなのです。そうした背景もあり、国王陛下は今回の貴殿等の計画に大変に関心を持っておいでとの事。それも、王都特産の麦を用いた酒造りとあらば、本件に国の金を投じることは些かも問題ではない、と」

「だ、だがよ、宰相の旦那」慌ててベッグは話に割り込んだ。

「そんな事言ってもよ、今回の計画、別に金が足りてねえって訳じゃねえんだろ?」

「規模ですよ、ベッグ様」その問いを待っていたのだと言わんばかり、ケネスは即座にそう返した。

「王家からの投資を得られれば、今回の計画、規模を数倍に大きく出来るのです。そうなれば、当然に成功した時の儲けも大きくなる」

「……規模を大きくしても儲かる保証はどこにもない」魔王は言った。

「ですが、商圏をもっと広く見れば如何でしょう?」


 その指摘さえも想定の範囲内であったらしく、ケネスは得意げに言葉を続けた。


「貴殿ならお分かりでしょう? 琥珀の酒ウィスキーは海を渡るのです」

「……まさか、大陸間貿易か?」

しかり」


 ケネスはにやりと笑った。そこで漸く、ベッグにも話の全貌が見えてきた。


「……新大陸! そ、そうか、おれ達が作った酒を、シャルトリューズ家の船に乗せて新大陸に持って行って、そこで売るんだな!」

「仰る通りです、ベッグ様。当家は先日の航海にて、新大陸への進出の糸口を掴み、実際に莫大な利益を出しております。ご承知の通り、大陸間の貿易は数ヶ月の時間を要しますゆえ、腐らない琥珀の酒ウィスキーは王国からの輸出品としてこの上ないのです。ゆえに」


 ケネスは自信満々に、魔王とレゼルの拵えた羊皮紙の紙束をばさりと揺らした。


「本件は極めて公共性の高い事業として、王家を始め方々ほうぼうの貴族家から相当なる期待が寄せられているのです」

「しかし」魔王が言った。

「商圏を新大陸にまで拡大しても、琥珀の酒ウィスキーが売れるかどうかは話が別だ」

「……本気でそう思っていなさるなら、貴殿はあまりにも我々を舐めておられる」


 ケネスは嘲笑しながら魔王を見つめ、言葉を続けた。


「我がシャルトリューズ家と王家とが手を組むのですよ? 十年を待たずして、この国で最も飲まれる酒は琥珀の酒ウィスキーになる。それは確定事項です・・・・・・・・・

「…………」

「更に、王家は向こう五年間、製造される酒の八割を王家側で買い取るとまで言っています。つまり、琥珀の酒ウィスキーが市場に馴染むまでの間、我々は一切の赤字と不良在庫を抱えずに済む。今回王室が投げかけているのは、そういう提案なのです……まあ、その原資となる金の大部分が、我がシャルトリューズ家からの税収である点は、些か腑に落ちぬのですがね」

 

 ケネスは一呼吸置き、改めて正面の魔王を睨む様に見定めた。


「……その気になれば、王家から望むだけの資金を引き出せますが、如何なさいます」


 ベッグは息を飲み、その降ってわいたような話に戦慄に近い興奮を覚えた。

 その話が本当ならば、王家からの出資金で大型の蒸留釜を何機も作って、日々莫大な金を稼ぎ出す事が出来るはずだった。数千数万の使用人を指揮し、望むままに求める酒を作り、貴族のように豊かな暮らしを得る事も、夢物語ではなかった。


 ベッグは、ほんの数年前、着の身着のままで初めてこの人間の都にやってきた頃を思い出した。

 最初は、人間の字も殆ど読めず、ギルドなる集団組織がある事すらも知らなかったから、つてもコネもないベッグにまともな仕事が回って来る筈もなく、彼は乞食のような暮らしを送っていた。たった数枚の銅貨を後生大事に懐に入れ、空腹を抑えて厩のメイルに食べ物を与えていた。

 ようやっと周囲の信用を獲得し、まともな生活が出来るようになると、ベッグは金の許す限り、己の母親に仕送りをした。物心つくまえに大時化おおしけで父親を失ったベッグにとって、母親だけが唯一の、守るべきよすがだった。鍛冶屋としての少ない稼ぎは、そうして全て消えて行った。


 もし、ケネスの言う王室の申出を魔王が受ければ、もう母親は、男達に混じって過酷な海仕事をしなくてもいい。命からがら働かずとも、生きて行くに十分な金を得る事が出来る。なれば、母親をこの人間の都に呼んで、うまい食事をさせて、家を与えて、楽をさせてやれる……

 ……だから。


「……悪いがその話は断ってくれ。この計画は規模このまま、俺とシャルトリューズ家の金だけでやりたい」


 魔王のその返答に、ケネスではなくベッグが激昂したのは、無理からぬ話だった。


「何故だ魔王っ! 宰相の旦那の申し出、願ってもねえじゃねえか!」


 ばん、とけたたましく机を叩き、ベッグは魔王を睨んだ。


「ベッグ様の仰る通りですよ魔王陛下。よもや王家の打診を蹴るとは……再考願いたい」


 腕を組み沈黙を守る魔王に、ケネスは溜息をつき首を横に振った。


「魔王陛下、貴殿は事の重大さを、なにより、王都に巣食う貴族達の狡猾さを何らお分かりになってない。今回の新事業ですが、必ず数年以内に後追いが参入しましょう」

「そりゃあ、琥珀の酒ウィスキーが売れると分かれば、真似する奴らが出て来るのは当然だな」

「そうした連中が出てくればどうなります」

琥珀の酒ウィスキーの文化が一層盛り上がる。結構な事じゃないか」


 ケネスはその魔王の返答に、小さく舌打ちをして言葉を荒げた。


「甘い! 今回貴殿がむざむざ捨てようとしているこの大資本が、その後発こうはつ共に投下されればどうなるか、聡明な貴殿にならお分かりでしょう!」

「……大規模工場が作られれば、少量生産の俺達は相当な価格競争を強いられるだろうな」

市場しじょうから淘汰される、の間違いでしょう」


 茜色に染まりゆく会議室の空気はぴんと張り詰め、静まり返っていた。ケネスが己の目尻を引き絞り、ゆっくりと口を開く音さえ、聞こえそうな程だった。

 

「……ベッグ様が気の毒ですなぁ、魔王陛下。一生遊んで暮らしても使いきれぬ金を持った貴殿には、酒造りに専念するため鍛冶屋の看板を下ろした生真面目なお仲間の心持ちなど理解できますまい」

「……っ!」


 ケネスのその辛辣な一言には、魔王ではなくベッグが驚いた。

 ――この若い宰相はそんな所まで調べた上で、この場に望んでいたのか。


「一応、伺いましょう。今回の王家の提案、貴殿が断る理由はなんなのです?」

「三点。まず一点目に、王家の投資を受けずとも、事業が十分に成立する金があるという事だ。二点目、生産した琥珀の酒ウィスキーを五年間買い上げるという王家の提案、それは王家に必要十分な資金があればという話だろう。六年前の死神病の蔓延で王国経済は一度破綻している筈。今の王家にそれ程の資本体力があるとは思えん。三点目に、そもそも琥珀の酒ウィスキーというのは嗜好品だ。国策のために受給操作を行うなんて馬鹿げている」


 ぷっ、と、ケネスは笑った。


「……まず一点目、先程説明した通り、王家資本が我々に入らねば、それは後追いの連中に入る可能性が大。そうなれば我々が規模の面から後塵を拝し、商戦は負け戦となる事必至。二点目、ご心配なさらずとも、王国経済はほぼ十分に回復しており、これから尚拡大していきます。我がシャルトリューズ家の新大陸貿易によって、ね。そして三点目ですが……それは理由とは言えませんな。単なる駄々でございましょう。魔王陛下……貴殿は、そんなにも自分の世界を他人に犯されたくないのですか?」

「…………」


 ベッグには、すぐ傍の二人の遣り取りが、舞台上の出来事のように見えていた。

 王家を巻き込んだ市場しじょうの独占。新大陸への進出。一生分の金を一瞬で稼ぎ出すチャンス。財閥と貴族の重責。理路整然とした言葉達でなす術なく殴打されている魔王の横顔……それらはどれも、ベッグの頭では処理しきれぬものばかりだった。彼にはただ、黙って話の行く末を見守るより他になかった。


「……気付いておりますか? 魔王陛下。この計画は貴殿が普段なさっているお遊びではないのですよ? 多くの人々の生活と将来を巻き込んだ一大事業なのですよ? ええ確かに、今回の話に王家が加われば、筆頭資本は王家になりましょう。酒蔵で生産されるものは多分に王家の意向を汲まねばならぬ故、出来上がる酒は貴殿が欲したものとは異なるかも知れぬ。……だが、それだけでしょう・・・・・・・・? 貴殿が望むような上質な酒は、これまで通り余暇の道楽でなされば宜しい。お分かりですかな? 貴殿の先ほどの決断が、余りに稚拙だという事が。もしそれが分からぬというのなら、」


 ケネスはすうっと息を吸い、屹然とこう言い放った。


「貴殿にこのシャルトリューズ家を任せる事など出来ない。

 貴殿は、お嬢様の愛にあたいしない」

「…………」


 その時ベッグは、レゼルが叫ぶかと思った。

 ケネスのその一言は、彼女を激昂させるに違いないと思った。

 ベッグは半ば無意識的にレゼルの方へと視線を向けた。そこで信じられないものを見た。


 ――え?


 レゼルは怒っても泣いてもいなかった。

 ただ静かに、笑っていた。

 彼女の隣に座る魔王が、そこでゆっくりと口を開いた。


「そう言って俺を説得しろと、王室の知的指導者ブレーン共に言われたのか?」

「……っ!」


 魔王がその一言を呟くように言った瞬間、ケネスは顔を強張らせた。彼だけでなく、シャルトリューズの当主と執事のグランも、同様だった。魔王が何か決定的な一言を放ったのは、間違いない様子だった。


「……どういうこと?」


 レゼルは魔王にそう聞いた。


「……板金街に鉄の匂いがし始めたって事さ」


 魔王のその、呟くような返答を聞いた瞬間、ケネスの顔がさっと青ざめた。

 レゼルは口元に手を当てしばし黙考した後、


「ああ、そういう事……」


 そう言って鼻を鳴らし、鷹揚に椅子の背にもたれ、グラスの水を飲んだ。

 ――なんだ? 一体何が起こっている?

 混乱するベッグを他所に、魔王はケネスを見定め、言葉を放った。


「王国政府がなぜこの計画にこうまで肩入れしたがるのかは、大体想像がつくが、その思惑に乗ってやる積もりはない」

「……お、思惑? 何の事か、私には」


 ケネスは額に脂汗を浮かべ、苦し紛れにそう言った。ベッグの与り知らぬ所で、何か重大な出来事が露見し……そして、どうやら事の趨勢が決したように見えた。


「シャルトリューズ家が王家に尚もおもねるのなら、残念だがこの計画書は破棄だ。蒸留所の件は規模を縮小し俺の独資で行う」

「そ、それは王家を敵に回しうると分かっておいでの発言ですか」


 それを聞いた瞬間、魔王が正面のケネスを睨みつけたまま薄く笑うのを、ベッグは見た。そして――


「……俺は魔族だ。人間共の由無よしなし事は他所よそでやれ」


「――そこまでだ、二人とも」


 シャルトリューズ氏のその一言に、魔王とケネスは言葉を止め、声の主人の方に顔を向けた。

 皆が見守る中、シャルトリューズ氏はゆっくりと、視線の先を二人から己の娘・レゼルに向け、彼女にこう問うた。


「レゼル、お前はどう考える? 何を、選ぶ?」


 張り詰められたその言葉の意味を、ベッグは量りかねたが、レゼルは真っ直ぐに己の父を見返して、凛とした美しい声でこう返した。


「その答えはね、パパ。実はここに座る前から決めていたの」


 そして、隣に座る魔王を一瞥して、こう言葉を続けたのだ。


「例えこれから先、どうなろうとも、あたしはこの人の歩く道を歩くわ」

「そうか……そうか」


 シャルトリューズ氏は娘の言葉を聞き届けると、頭を俯け目を閉じた。

 宵闇が迫る会議室の静謐の中、異様に長く感じられる程、彼はそうして何かを考え続けていた。やがて、


「ケネス」

「……はい旦那様」

「お前には悪いが、今回は魔王陛下の意見を聞こう。計画の資本は、当家と陛下とで拠出する。他の資本は入れぬ」

「なっ! 旦那様、しかし……そうなれば我々は」

「……正直に言うとな、ケネス。私も、最近になってようやっと、魔王陛下のお考えが分かるようになって来たのだよ」


 ぽつりぽつりと、降り始めの雨のように心許こころもとなげに、シャルトリューズ氏は言った。この一時で何十年も年をとったかのように、痩せ細った声だった。


「こうして、経済の中枢にあぐらをかいておるとな、ふとした瞬間に忘れそうになる。私たちが太陽と水と土とによって生かされてきたという、その事実を」

「……!」


 息を飲むケネスを置いて、シャルトリューズ氏は今度は魔王に言葉を投げかけた。


「魔王陛下」

「はい」

「ケネスはまだ若い。世界を知らぬ。君の考えには至れぬ。そこは分かってやって欲しい」

「申し訳ありません」

「……すまんな」


 そう言うと、シャルトリューズ氏は大きく手を打ち、至極明るい調子でこう言った。


「さあ、食事にしようじゃないか。皆で仲良くしよう。魔王陛下には近い将来、レゼルの夫として当家を担って貰う事になるのだから。すなわち……私たちは家族になるのだから。仲良く、しよう」


✳︎✳︎✳︎


「陛下、今日は色々すまなんだな」

「こちらこそ、ケネスさんにあれこれと申し上げてしまい……」

「構わんよ。他人行儀はもうやめよう。君とケネスは、これから何十年も一緒にやっていく間柄になるのだから」


 会食の後。黒の鐘が鳴って間も無くの、夜の中頃。

 ベッグと魔王はシャルトリューズ家の玄関にて、シャルトリューズ氏の見送りを受けていた。他の者は払われていて、豪奢な燭台に燃える煌々とした炎は、今は三人の影のみを、庭の方へと細く長く引き延ばしていた。


「魔王陛下、……いや、カラン君」

「はい」

「娘を、頼む」


 シャルトリューズ氏は、そう言って魔王の手を取り、きつく握った。


「シャルトリューズ様……」

「そんな他人行儀な呼び方は止めてくれ。私は君の父だ。そして君は、私の息子だ」


 シャルトリューズ氏は、その手を取ったまま、切実な眼差しで魔王の目を見た。


「全て、君に任せる。娘を……レゼルを、どうかよろしく頼む」


 シャルトリューズ氏はそう言った。


「カラン君。レゼルは……あの娘は、賢く、気高く、優しく、……脆い。この国のいただきではとても生きていけぬ。だから全て、君に託す。どうか娘を、末長く宜しく頼む。頼むよ。何卒、何卒……」


 そこで初めて、ベッグはシャルトリューズ氏の手を見た。

 燭台の炎に照らされた彼の手は、節くれ立ってゴツゴツとしていた。潮風に揉まれたその肌は至る所に赤切れが出来ていて、爪先は醜く潰れていた。とても王国きっての財閥の当主のものには見えなかった。


 ――それにしても、シャルトリューズ殿もよくやるものだ。愛娘を屋敷に残し当主自ら船に乗り込み、数ヶ月もの航海を経て新大陸に渡り、言葉も通じぬ者共と交易……帰って早々、聡明な娘と魔王の作った新事業の計画を審議とは……休まる暇もない。老体にはさぞきつかろうに。


 ベッグは、三日前に聞いたばかりのピルゼンの言葉を思い出した。

 つい今し方まで雲の上の存在に思っていたシャルトリューズ氏は、今、たった二十数歳の若造に頭を下げて、必死に娘を託していた。ベッグはその様子を、半ば呆然と眺めていた。


 ギルト王国歴524年、龍の月、第三週目の水の日。

 彼らにとって、今日というこの日は、一体どういう意味を持っていたのだろう?

 舞台上の・・・・彼らにとって、今日というこの日は、一体……


✳︎✳︎✳︎


「この葡萄酒、割とイケるな」

「……そうだろうとも。王都の飲み屋は全部回ったが、酒は此処のが一番だぜ」

「そういえば、お前には酒場荒らしの異名があったなぁ。忘れてたよ」


 後刻、王都十五街区の酒場『オルケストラ』にて、魔王とベッグはテーブルを囲んで酒を飲んでいた。店は三日前と同じように賑わっていて、木皮こはだの剥げたカウンターの向こう側では店主が忙しそうに酒やつまみを運び出していた。


「……なぁベッグ、機嫌なおしてくれよ。さっきの件は悪かったって」

「悪かったって……なんのことだよ」


 ベッグがそう問うと、魔王は心底すまなそうな様子で両手を合わせた。


「お前をほっぽり出して、勝手にケネスの投資話を断っちまった事だよ。惜しかったろう? ……大金持ちにはなれないかも知れないけれどさ、俺も頑張るから。ちゃんとお前とコリーヴさんが暮らしていけるだけの金は稼ぐさ。そこは信じて……」

「あまりおれを舐めるな、魔王」

「……え?」

「謝るのはおれの方なんだろ、少なくともおれは、そう考えてるぜ」


 ベッグがそう返すと、魔王はぴたりと動きを止めた。


「この酒場に着くまで、足りねえ頭で考えてた。どうしてあんたが、王家の打診を蹴ったのか。どうしてケネスが、あんたの言葉にあそこまで狼狽えたのか。そんで、どうしてシャルトリューズの大旦那が、ああまでしてあんたに頭を下げて、お嬢の事を頼んだのか」


 酒場に新たな客が入った。店主がにこやかに迎え入れ、急々と酒の支度を始めた。


「三日前の朝、あんたにメイルを貸したとき、一緒に板金街を歩いたな」

「ああ。随分賑わってたな」

「今、板金街は王国軍の特需で潤ってる。軍が装備の一新をするからだそうだ。考えてみりゃ妙な話だ。なにせ、この王国は百年前に大陸統一を成し遂げて以来、戦争をした歴史がねえ。他国に攻め込まれるなんて話も聞かねえ。なのになぜ、王国がここで軍備に金を投じたか……ついぞ今まで、おれはその事にすら頭が回っていなかった。板金街に暮らしておきながら恥ずかしい限りだぜ」

「…………」

「つまり、する・・って事だよな。戦争をよ。シャルトリューズ家の商船……王国軍をそれに乗せて、そうして未開の新大陸で、武力にモノ言わせて、向こうの奴らから目ぼしい資材を掻っ攫うって算段なんだろ。シャルトリューズ家は、多分いま、水面下でそういう打診を受けている。ほかでもない王国から、だ」


 魔王は押し黙り、ベッグの言葉を聞いていた。その目には笑みの欠片も無かった。


「『板金街に鉄の匂いがし始めた』あんたがさっき言った言葉だ。それでお嬢は合点がいった風だった。今回の王家の話と、板金街……何がどう結びつくのか、さっきは全然分からなかったが、今なら分かるぜ。王国は新大陸を武力支配しようとしている。そこにおれらが作る酒がどういう役割を果たすのか……少なくとも、今から支配しようとしている奴らに売りつけるなんて真似はしねぇわな」


 また、数人の客が酒場に客が入ってきた。ベッグの殺伐とした雰囲気を他所に、店のそこかしこから笑い声が聞こえた。


「さっきの王家の金、あんたがそれを受け入れれば、琥珀の酒ウィスキーは商材じゃなく、戦地へ赴く兵隊共への酒保として使われる事になったんだろう。つまり」


 ベッグはそこで言葉を止め、喧騒に溢れる店内を、集う客達を、ぐるりと見渡した。連日のように集っては馬鹿話を繰り広げる鉄打ち、農夫、行商人……そして、彼らに絶えず寄り添う麦酒と葡萄酒を見た。


「おれ達が作るのは、ああいう笑顔を作る酒じゃなく、血を洗い流す為の酒になるってこった……しかも、おれらの酒の風味付けには泥炭が使われている。泥炭はホビット庄でしか採れねえ。そうなれば……」

「……そうだ。王国軍の矛先が次に向く先は、お前の故郷……ホビット庄だった」


 だん! と、ベッグはその太い腕を店の机に叩きつけた。店は一瞬水を打ったようにしんとなったが、ざわめきはすぐにどこそこの席から湧き出て、しばらくすれば元の賑わいを取り戻した。

 魔王は何も答えなかった。それが、ベッグの推測が概ね当たっていた事を示していた。


 ベッグは苦虫を噛み潰したような顔で、目の前の葡萄酒を睨んだ。

 人間の世界とは、魔王とレゼルの生きる世界とはこのようなものだったのかと、ベッグは空恐ろしく思った。


「正直に言うぜ。さっきおれは、あんたがケネスに論破されるのを待っていた。論破されたあんたが、なし崩しに王家の金を受け入れりゃあ、おれは大金持ちになれると思った。お袋に楽さしてやれると思った。……あんたを疑った。すまなかった」

「あの場面を見たら、誰だって俺が間違っているように見えるさ」

「いいや。お嬢は違った」


 頭を下げたまま、ベッグは言った。


「あんたがお嬢の愛に値しねえと……ケネスの野郎がそう言った時、あの、笑ったんだぜ。そうして、あんたがケネスの図星を突いて慌てさせたときも、当然だって顔してた。お嬢は最後の最後まで、あんたの事を欠片も疑ってなかった」


 それを聞くと、魔王は苦笑しながら葡萄酒を飲み、「頭上げてくれよ」とベッグに優しく声を掛けた。二人は再び、互いの杯に酒を注いだ。


「なあ、魔王、それでも分からなかった事が、一つあるんだがよ」

「さっきの、レゼルの親父さんの様子か?」


 肯定も否定もせず、ベッグは椅子にもたれ、葡萄酒を片手に天井を見上げ、つい先程の、シャルトリューズ氏の切実な様子を思い浮かべた。

 ――だから全て、君に託す。どうか娘を、末長く宜しく頼む。頼むよ。何卒、何卒……


「一つ、教えてくれ」

「……ああ」

「あんたとお嬢が婚約したのは、確か五年前だったな?」

「ああ。死神病の蔓延を食い止めた後だ。そして、俺たちの関係は、正確に言うと婚約じゃない。ただの家庭教師と教え子だ。婚姻について正式な書面は交わされていない」

「じゃあ、よ」


 ぐいと、ベッグは葡萄酒を飲み干し、魔王の目を見据えてこう問うた。


「あんたがその座に収まるまで、お嬢の許嫁は誰だったんだ?」


 魔王は答えず、しばらく黙り込んでいた。

 一言も発さずに黙り込む二人の様子は、騒がしい店内にあって明らかに異質だったが、誰もそれを咎める事なく、時間だけが過ぎていった。

 やがて魔王は口を開いた。


「国王陛下の長男……つまり、この国の王位継承者。王太子おうたいしだ」

「っ……!」


 ベッグは、やっと先刻のシャルトリューズ氏の心内が見えた気がした。

 王家がシャルトリューズ家に投げた此度の提案、それは、レゼルの元婚約者が王太子であるならば、意味が大きく異なってくる。


 ――ベッグ君、この国の中枢共はね、内心恐怖でならんのだよ。あの若く聡明な二人の頭脳をもってすれば、この王都の天地をも逆に出来よう。そういう二人が王の手にないこの現状が、内心恐怖でならんのだよ。だから王家は、あの二人が欲しくてならん。それが分かっているからこそ、本学は『魔王』を決して手放さん……


 ベッグは漸く事の次第を把握して、同時に畏怖した。

 つまり……シャルトリューズ家と王家にとって、今日の報告会は、酒蔵造りに金を出す出さないなんて小さな世界の話ではなかったのだ。両家の、そしてレゼルの未来を、ともすれば王国の歴史をも左右する一幕だったのだ。


 王家が真に欲していたのは、琥珀の酒ではなく、シャルトリューズ家そのものだった。魔王が先の提案を飲めば、王家は酒蔵造りと新大陸との貿易の二大事業を皮切りに、シャルトリューズ家をその手に取り込む積もりだったのだ。そして、その政略的な流れの中で、法的な力を持たぬ魔王とレゼルの間柄は無下にされ、レゼルは王妃として、この国のいただきに祭り上げられる……そういう筋書きだったのだ。


 だが、計画は破綻した。

 シャルトリューズの当主は、己の娘の結婚相手に、王太子ではなく魔王を取った。自分の娘がこの国の王妃になる、その未来を捨てた。それは王家を敵に回す事に他ならない。


 そこまでを考えて、ベッグは息を飲んだ。

 先程見た、シャルトリューズ氏の異様なまでの切実さの意味を、彼は漸く理解した。


「……おれには偶に、あんたが本当の魔族なんじゃねえかと思うときがあるよ」

「俺は、俺さ。妙な運命に巻き込まれただけの、ただの一介の酒好きだ」

「……それだけじゃねえよ、あんたは、さ」


 夜更けも佳境に差し掛かり、酒場は一層に喧しく、店内には麦酒と葡萄酒と干し肉の匂いが立ち込めていた。魔王が手元の葡萄酒を一口飲んだ。その顔には、珍しくも、明らかな疲弊の色が見て取れた。

 ベッグは上着のポケットから、一枚の金貨を取り出した。

 いつか魔王から受け取った、蒸留釜の代金だった。美しく輝く表面には、まだ魔王と出会う前――周囲から『氷の姫』と呼ばれていた頃の、笑わないレゼルの横顔が掘られていた。横顔は凛と前を見つめ、酒場のランプの灯りをきらきらと跳ね返していた。ベッグが金貨をどう傾けようとも、どう擦ろうとも、その横顔が笑う事はなかった。


「なあ、魔王」


 手元の金貨を眺めながら、ベッグは言った。


「もし、あの娘が再び、時代に絡め取られちまったら、あの笑顔が氷漬けにされちまったら、……あんた一体、どうするんだい?」


 それを聞くと、魔王は幽かに笑って、再び葡萄酒に口を付けた。


「……そうなれば、破れかぶれだ。俺は最後の切り札カードを切るよ」


 疲れた顔には朱が差していた。彼にしては珍しく、飲みすぎたものと見えた。



「……あの子を魔界に連れ帰る。この物語は、それで全てお終いだ」



 ぽつりと、魔王の口から溢れでたその言葉は、テーブルの上を転げ落ちて、酒場の喧騒の中に一瞬の内に揮発した。

 魔界という、酷く奇妙な言葉の輪郭だけが、強烈な印象をもってベッグの耳に灼きついていた。


「なあ、魔王。最後にもう一つだけ、教えてくれよ」

「……ああ」

「あんたにとって、お嬢ってどういう存在なんだ?」

「その答えは、まだ俺自身、見付けられずにいるんだ。ただ一つ言えるのは……」


 彼はゆっくりと首を傾け、どこかを――ここではないどこかを――焦点の定まらぬ目で見ていた。その声は掠れていて、すぐ近くに居たベッグにさえ、聞き取れぬ程だった。


「……あの子に対するこの感情が愛でないなら、俺にはもう、人間というものが分からない」


✳︎✳︎✳︎


「なあベッグ、本当にお前の奢りで良かったのか?」

「良いぜ。こないだ過分な金貨を貰っちまったからなぁ。あんたの嫁の顔が描かれてるあれよ」

「……聞くんじゃなかったよ」


 人通りもなくなった深夜の大通り。

 支払いを済ませたベッグと魔王は、そんな短い言葉を交わし、二人だけの打上げを締めくくった。

 ベッグは、上級学校の方へふらふらと歩いてゆく魔王の背中をしばし眺めていたが、その背が角の向こう側に消えようとしたそのとき、


「……魔王!」


 彼の背中を、大声で呼び止めた。

 魔王の足がぴたりと止まり、ベッグの方に振り向いた。


「魔王、あんたはさ……いざとなったら、お嬢を守りなよ」


 ベッグは、声が震えるのを押し止めながら、魔王に向かってそう言った。

 上着のポケットに突っ込んだままの右手には、一枚の金貨が握り締められていた。


「……ベッグ、お前」

「お嬢を連れて、魔界に帰りなよ。あんただけは、最後まであの子の味方で居てやれよ。おれの事なら気にすんな! あんたとお嬢が居なくなっても、酒造りが出来なくなっちまっても、おれはなんとかやって見せるよ! だからっ」


 自分でも、なぜそんな事を言っているのか分からなかった。

 慣れぬ出来事の連続で、頭も心も正常に機能していなかった。それでも、その言葉だけは、自分がいまここで、彼に言わなければならない――そう思ったのだった。


「……そんな顔するなよ! ベッグ!」


 ベッグは魔王の顔を見た。優しい笑みが浮かぶその顔に先刻までの疲れはなく、月夜に掲げられた右手の拳には、若々しい力が漲っていた。


「俺はまだ諦めない! いつかきっと『この世で一番美味い酒』を作ってみせる! この世界で、俺とお前とで、きっとだ!」

「ああ……ああっ!」


 ベッグもまた、金貨を握った拳を上げて、万感の思いを魔王に返した。

 その時の彼の一言で、ベッグがどれ程救われたのか――きっと魔王には知るよしもない。そしてベッグもまた、魔王のその言葉にどんな思いが込められていたのか、知る事はないだろう。


 ベッグは角灯ランタンを手に、大通りを板金街の自宅に向けて歩き始めた。

 春の夜はこんなにも暖かなものだったろうかと、彼は思った。

 悲喜交々あれど、大一番は終わった。これからいよいよ、本格的な酒蔵造りが始まるのだと思うと、嬉しさと緊張に身体が震えた。


 ――だが、おれはもう一人じゃない。魔王とお嬢が居る。きっとおれ達なら、なんだってやれる。

 ベッグはそう、かたく信じ、軽い足取りで家路を急いだ。


✳︎✳︎✳︎


 事件が起こったのは、そういう、慌ただしくも優しい日々の只中だった。

 その事件は、夏の初めの嵐のように、それまでの日常を、過ぎ行く全ての事柄を、運命を、関係性を――決定的に壊し尽くして、そうして瞬く間に立ち去っていった。


 ――王都に龍が飛来している。

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