第二十九幕 仮面の内側(Meyl Grays)



「……だから、この空の赤は、 龍の血なのかも知れねえな」


 背に乗る一人のホビットが不機嫌にそう吐き捨てた。

 それを聞き、ゆっくりと目を開けた視界の一面に、夕焼けに染まる人の都が広がった。


――夢を見ているのだと、直ぐに気が付いた。

 だがそれは、荒唐無稽な夢想の世界では決してない。

 それはかつて、此方が確かに歩んだ筈の、歴とした過去の、その追憶であった。

 

 これはいつの記憶だったろうか……こういう時、人間のように時の流れを測る事が出来たなら、答えを出すのは容易たやすかろうが、生憎と此方はそうしたすべを持たなんだ。

 だが、その時の情景や出来事はしっかりと覚えている。


 此方の背に乗るホビットの名はベッグ・ウーガダール。

 当時の、此方の主人あるじである。


 主人はその頃、まだ若造と言えるような年頃で、ホビットの里に嫌気がさして、此方をいざない旅に出た。人の都を訪れて、そこで鉄を打ち、日銭を稼いで暮らしていた。

 ある冬、主人の元に錬金釜の依頼の話が舞い込んだ。依頼主は周囲に『異界の魔王』と呼ばれていた一人の青年だった。二人は出会い、そこから二つの季節の間、主人は魔王と行動を共にした。二人は、麦から作る酒だのいう嗜好品を作って、それを人の都で売る算段をしていたと記憶している。その時の面子の一人には、後に伝説となる『氷の姫』レゼル・アーク・シャルトリューズもいた。彼女も当時はまだ、成人したばかりの少女であった筈だ。


 そう……だからこの記憶は、その時の春の終り。

 主人が魔王と共に過ごした日々の、最後の数幕のうちの一場面である。

 

 視界の両端には、己らの何倍もの高さに積み上げられた石の家が、崩れもせずに立ち並んでいた。家の間には真っ直ぐな街道が伸びていて、常であれば多くの人間や馬が行き交うそこは、今は、冬の朝の湖のように静まり返っていて、主人の声は発せられるたび、両端の石壁に吸い込まれていった。


「人間は皆、城壁の外だよ。新しい時代の始まりに、誰もも居合わせてぇのさ」


 此方が左右を見渡したのに気付いてか、主人はそう、口を開いた。


「皆で同じもんを見て、皆で同じ話がしてぇ。人間って奴ぁよ、それが値を打つ生き物よ。おれに言わせりゃ間抜けだが、その人の世で、おれは生きてる。これからもそうする積もりだ」


 此方は主人の言葉に頷いた。

 此方の目にもまた、当時、人間は酷く不思議な……滑稽な生物に見えていた。


 心地良い日々が与えられれば、そこを離れ自らを縛りつけようとする。

 生きるに容易ければ、黙考のうちに死に惹かれる。

 未来が見えるから、戻れぬ過去に逃げまとう。


 野生を捨て、地上を制した人間という種に最後に残された本能が、そうした……生き物としておよそ似つかわぬ性質であったというのはなんと皮肉な事だろう。


「……お嬢に悪ぃ事言っちまったよ」


 普段からは想像もつかぬ弱弱しい声で、主人は言った。


「あんなに綺麗な魂を持った娘は他にゃいねえのに。海より深ぇ青の瞳に大粒の涙を浮かべてよ……誰かを怒鳴りつけたのも、生まれて初めてだったろうにな。余程魔王が大切と見える」


 主人は顔を上げ、空一杯を犯す一面の石組みを見遣った。


「『魔王陛下』が帰ってきた。時の潮目が大きく変わる。狂瀾怒濤のこの人の世に、居場所が無くなっちまったのは、……もしかしたら、おれの方かも知れねえな」


 静かに深いその溜息を聴く者は誰もいない。


「王国はいずれ海を越える。胡椒と金を求めて、馬鹿者共が船に乗ろう。腐らねぇ琥珀の酒はそこで新たな居場所を得る。酒造はいずれ国策になるだろう。おれ達が求めた琥珀の酒は、そうしておれ達の手を離れる……全てあいつの受け売りだがよ。……それでも良いんだ。人の都を追い出されても、おれにはお袋と海がある。それを守って死ぬまで生きる。だが……だがよ、あの二人のお姫さんにゃあ、あいつだけがよすがなんだ」


 主人はそう言って、此方に巻いたくらの端をぎゅっと掴んだ。


「どこに行っちまうんだ、あの馬鹿野郎は」


 その日が何故、強烈な印象を以って此方の記憶の奥底に刻みつけられているのか――



 その日、人族の都で一頭の龍が死んだ。

 それを殺したのは、『異界の魔王』と呼ばれていた一人の青年だった。



――なあ、メイル。

――俺たちが例えどんな結末を迎えようとも、今夜の懺悔はお前さん限りに打ち明けられた俺の秘密として、全てお前さんの心の内に留めておいて欲しいんだ。例え、俺たちが死んで、それから何百年が経とうとも、ね。



 いつか魔王に言われたその一言を、此方は思い出していた。

 その言葉を聞いたのは、この世界にようやく春が訪れた、ひととき前の事である。


✳︎✳︎✳︎


 南の関所を抜け街道をしばらく西に進むと、左右に一面の土畑が開けた。少し前まで、そこには人間の植える穀物の穂で黄金色の海が広がっていたが、それらは冬の来る前にすっかりと刈り取られ、今は黒黒とした土肌を見せるのみだった。畑は次第に春めく風を受け、所々芽吹いていて、葉先は朝露に濡れていた。


「もう冬が終わるな、メイル」


 背に乗る一人の青年――『異界の魔王』カラン・マルクが、此方にそう声を掛けた。

 言葉を返す人間は居ない。此方は返す言葉を持たない。

 ただただ小さく鳴いて答え、西の先へと進むのみ。


✳︎✳︎✳︎


「メイルを貸せだぁ? 魔王てめぇ、そりゃ何の冗談だ」


 此方の主人あるじ、ベッグ・ウーガダールの元に、魔王からそうした申出があったのは、まだ空に星が瞬く朝け方の事であった。人の都の南の馬屋で、此方の毛を繕う最中であった主人は、その魔王の申出に明らかに顔をしかめた。

 馬屋には他に誰も居なかった。魔王は、毎朝主人が此方の毛を繕いに馬屋を訪れる事を知ってここへ訪れたものと見えた。


「そんな怖い顔しないでくれよ……酒の蒸留実験で使う水が切れたんだ。数日中にどうしても琥珀の湖に汲みに行きたい。お前は今週は酒の仕込みで動けないんだろ?」

「湖に行くのは勝手だがよ、別にメイルに乗る必要はねぇだろ。その辺の貸馬使えや」

「下手な馬連れてって、エルフの森で問題起こして難癖付けられたら事だろう」

「最もそうな言い訳付けやがって……あんたはただメイル以外の馬に乗れねえだけだろ」


 主人のその返答にはぐうの音も出なかったようで、魔王はただ苦笑を浮かべた。

 此方の所見では、魔王は確かに馬を苦手としていた。まず乗るすんでで怯えるのがよくなかった。馬もまた怯える人を乗せたくないものだ。彼がどのような生を送ってきたかは知らなんだが、少なくとも魔王は、これまで馬とは無縁の暮らしをしてきたものと見える。

 上手い返しが思いつかなかったのだろう、魔王がちらりと此方を見た。それがどうにも助けを求める目であったので、此方はひとつ彼の心内こころうちを見てみたく思った。また、我が郷里である琥珀の湖に行くというその旅程も、此方にとり願ってもないものであったので、此方は魔王に向けて歩を進めた。


「うぅ、なんだようメイル、魔王の肩を持つってぇのかい。一緒に行っても良いのかい」


 主人は此方のその反応に戸惑っていたが、やがて渋渋此方を繋ぐ紐を解き、魔王を睨んだ。


「メイルに変な事すんなよな」

「変な事とは……」


 主人のその返答は、飼い馬(此方は馬ではないのだが)にではなくつがいを守る為にするそれであった。此方はそれを、心底面白く思った。

 生まれてこのかた五百の冬を数え、そのかんに幾人かの人間や亜人をその背に乗せたが、これほど此方を大切に扱う者は今の主人を置いて他に居なかった。雨が降れど風が吹けど、この年若いホビットは明け方必ず此方のもとを訪れ、毛を繕ってくれるのだ。そうした主人を差し置いて魔王を背に乗せるのは、些か申し訳なく思ったが、此方には、このヒト族の青年が主人の懸念するような無体をするようには見えなんだ。


「しようがねえ。いいぜ、メイルを貸してやる。但し、一旦おれんちに行くぞ。今度持ってく積もりだった仕送りを、お袋に届けてくれ」


 まだ夜も明けきらぬ頃合いだのに、主人の住む板金街は活気に満ち満ちていた。ホビットとドワーフとがあくせく働き、道端には早くも鉄を打つ高い音がそこかしこから響いていた。


「最近、随分賑わってるな」

「応。なんでも、王国軍が、近く装備の一新をするそうだ。その特需に板金街は沸いとる。おれんとこにも剣と鎧の依頼が来とった。酒造りに専念してえから断ったがよ」

「へえ、そりゃ折角の儲け話を……勿体無い事したんじゃないか?」


 冗談めかし魔王がそう答えると、主人はあからさまに顔を顰め、魔王の背をばんと叩いた。


っつ!」

「冗談きっついぜ。俺が今回のヤマにどんだけ賭けてると思ってやがる。おれはお前の事買ってんだ。よろしくお願いしますよぅ、魔王陛下ぁ」


 そうしたひと幕ののち、此方は魔王を背に乗せ板金街を後にした。此方の背には、主人が市場で求めてきた穀物だの干し肉だの葡萄酒だの……彼の母親に宛てた仕送りの品が載せられた。そうした主人の孝行な性質も、此方は好ましく思っていた。


「じゃあ、明日の緑の鐘が鳴る頃には返しに来るよ」

「今回はメイルの意思だ、しゃあねえ。緑の鐘過ぎても返しに来なかったら、こないだマノンさんの乳をじろじろ見てた件を氷の姫にチクるからな」

「マジで止めて」


 そうして此方は一時ひととき、主人と別れる事と相成った。

 南の関所の前、幾つかの商店が居並ぶ小径で、魔王は此方の背を降りた。彼は、周囲の商店をめぐり石鹸だの茶葉だの麻の生地だの……そうした品物を買い求め、それらをさも我が主人が用立てた品であるかのように、仕送り品の詰まった鞄に押し込んだ。


「ベッグにもコリーヴさんにも内緒だぞ、メイル」


 やはり、此方の見立ては間違っていなかったものと見える。


✳︎✳︎✳︎


「なあメイル、お前さん、何サイくらいなの?」


 此方の背に揺れる魔王からそのような問いが投げかけられたのは、太陽が頂点におわす前、エルフの住まう森に入ってしばらく経っての事である。

 "サイ"とはなんだったろうと、此方は考えた。確か、季節の一巡りを表す人間の時間の数え方であった筈だ。人間はとかく生きた時間を気にする生き物である……それは承知していたが、よもや此方にそうした質問を投げ掛ける者が現れようとは、何とも世界は妙である。

 ヒトの都に住む殆どの有象無象が――悲しくもこれには我が主人も含まれるのだが――幻獣である此方をただの馬と思っている節があったが、魔王はどうにも様子が違った。

 それも、これまで会ったヒト族のように、此方を神と崇めるでもなし、悪魔と怯える事もなし、ただただ己の知識の届かぬ何かと認めたその上で、此方に接してくる訳だから、それが面白くないと言えば嘘であった。

 その日の森は澄んでいて、大気の声が良く聞こえた。此方はそれらの声を頼りに、道を外れて森にり、やがて馴染みの樫の巨木の前に出た。樫は此方と同じ時を生きて来た。共に五百の冬を数えた、数少ない同胞であった。

 此方の背の上で、魔王もまた樫を見上げた。

 驚くべきはその後であった。


「うん? この樫の木がどうか……、ああ、こいつと同い年って事か? え、樹齢五百年はあるぞ。えっ、じゃあメイルもそれくらいの年なのか? へぇ~」


 あろう事か、魔王は事もなげに此方と樫の生きた時間を読み解いたのである。此方は思わず振り返り、魔王の姿をしげしげと眺めた。何ともはや、人界の魔王は侮れぬ。


「お婆ちゃんじゃん、メイル」


 少し暴れてやったら、魔王は此方の首元にすがり泣きながら必死で謝ってきた。


✳︎✳︎✳︎


 ホビットの里は閑散としていた。主人の母・コリーヴは他の雄達と共に海仕事に出ている様で、彼女の家はからであった。


「コリーヴさん、居ねぇな……取り敢えず、このまま琥珀の湖に行こうか、メイル」


 此方の背を降り、魔王が言った。彼は先日コリーヴに「あたしが不在の時でも気にせず家に入っておくれよ」と言われていたが、やはり家主の居ぬ間に家に入るのは気が引けたものと見える。此方は応じ、積荷を乗せたまま湖に向かった。


 道中、魔王は鼻歌を歌った。低く静かに紡がれるそれらの拍子も曲調も、此方がこれまで聞いてきた如何いかなる音とも異なった。それでいて遠い昔に聞いた事があるような、不可思議な歌であった。

 我が主人が、魔王や二人の姫と行動を共にしていた百程の日の巡りの中で、此方はそうして幾つかの鼻歌を彼から聞いたが、それらが他の誰かの前で披露される事はついぞなかった。きまって此方の他に誰も居ぬときのみ、囁くように歌うのだった。

 それらの歌は、ある種の寂しさを此方の耳に運んできた。魔王がなぜそれらの歌を歌うのか、そしてなぜ、それらの歌が他の誰にも届かないのか……結局、その理由を此方は今も知らず仕舞いである。


 もしかしたら、と此方は思う。

 それらの歌は、主人がいつか話してくれた、魔王が幾重にも隠し持つ『世界の秘密』の一つであったのではないかと……


✳︎✳︎✳︎


「あらあら、カランさん来てたのね。メイルちゃんも、お帰んなさい」


 水を汲み終え浜辺に戻り、しばらく潮騒を聞いていると、北の磯の向こうから主人の母・コリーヴがこちらに向かってやってきた。漁獲の網を手にした彼女は此方と魔王に直ぐに気がつき、いつもの調子で手を振った。


「コリーヴさん、今日こんにちは。すみませんが、今日一晩泊めて貰っていいですか」

「他人行儀は止めとくれよ、さあ、入った入った」


 コリーヴは魔王を伴い家に入った。魔王は早速積荷を下ろし、主人の鞄を取り出した。


「コリーヴさん、これ、ベッグからの差し入れです」

「はいはい、いつも運んで貰って有難うねえ」

「いえいえ。俺が用立てた訳ではありませんで……御礼はベッグにちゃんと伝えておきます」


 それを聞くと、コリーヴは積荷を解く手をぴたりと止め、魔王に向かってくすくす笑った。


「さっきの御礼はあんたにだよ、カランさん。ふふ、あの子から『魔王は世で一番の切れ者だよ』って聞いてたけれど、あんた、嘘はまるっきり下手だねぇ」


 首を傾げる魔王をよそに、コリーヴは主人の鞄の中身を手際よく取り出した。そうして、石鹸、茶葉、麻の生地……初めから全ての答えを知っていたかのように、主人から預かったコリーヴへの仕送りと、そこに後から魔王が足した品物とを完璧に選り分けて見せた。それが魔王にはどうにも面映おもはゆかった様で、彼は具合ぐつが悪そうに顔を背けた。


「あの子はこんな気の効いた物、贈りはしないよ。カランさん、ありがとうねえ。本当に、ありがとうねえ」


 コリーヴは魔王の様子を居に介さず、じっと魔王の方を見据え礼を言った。


「あたし、あの子が人間の都に旅立った時、心配で心配で仕方なかったのよ。でも、こうして、あんたや、カリラちゃんやレゼルちゃんみたいな、優しい友達が一緒に居てくれるのが分かって、やっと、心の底からほっとしたんだよ。ね、カランさん、良かったらずっと、あの子の友達でいておくれよ。そしてここには、自分の家だと思っていつでも帰っておいでよ」


✳︎✳︎✳︎


 浜辺にひとり佇む魔王の姿を見つけたのは、その日の夜更けの事である。

 集落の誰も彼もが寝静まり、世界は潮騒と星明かりだけであった。

 火も持たず波間に立つ魔王のその後ろ姿に、何やらただならぬものを感じ、此方はそこに足を向け、そっと様子を伺った。


「ん? ……ああメイルか、起きてたのか」


 魔王は此方に振り返った。その顔に張り付いていた憔悴は、我が主人や二人の姫には決して見せぬ類の表情であった。

 絶え間なく続く潮騒は岸壁に跳ね、そこかしこに反響していた。


「……ベッグがお前さんを大切にする理由が、今ならよく分かるよ。メイル」


 此方に優しく微笑み、魔王はそう言った。

 そうして彼は、水平線も朧な視界の先を睨む様に見つめ、言葉を継いだ。


「久々にな、家族の事を思い出そうとしたんだ。まだ生きている筈の、母さんの事を」


 此方は魔王のその言葉を上手く理解出来なかった。人界の魔王カラン・マルクの母は、彼が少年の時分に死んでいると聞いていた。なれば、今その魔王が言う母君とは一体……


「思い、出せないんだ。大事な事を、何一つ」


 呟くように、魔王は言った。


「名前、年齢、住所、生年月日……そうした情報は幾らでも思い出せるのに、どんな顔で、どんな声で、どんな言葉を交わしただとか……十八年間一緒に暮らした筈の母親の記憶が、何一つ、思い出せないんだ」


 魔王はこちらに背を向けたまま、夜と海の混じり合う黒いとばりに対峙した。その佇まいには、普段、主人や二人の姫に見せる飄々とした雰囲気はなく、絞り出す声は掠れて聞き取り辛かった。


「俺が十五の時までは、俺逹は普通の家族だった。俺もちゃんと学校に行って、飯も皆で食べて、週末に一緒に出掛けて……そういう、どこにでもいる、普通の家族だった」


 魔王は言った。


薫璃かおりが……妹が川で溺死してから、家族の記憶が一切無いんだ。当然と言えば当然なんだ。俺はそれきり自分の部屋に引き篭って、両親と碌に言葉も交わさなかったから」

「…………」

「高卒の資格を取って、大学に進学して家を出た。バイトして学費と生活費を稼いで、それで八年間頑張った。えらく長い大学生活だったけど、ちゃんとした処に就職も決まった。俺は、それまでの自分に決別出来た積もりでいた。だから、春になったら、一度家に帰ろうと思っていた。帰って、父と母と薫璃に謝って、『俺はもう大丈夫だよ』って報告して、それで……」


 背中に隠れて見えぬ表情の向こうから、魔王は此方にしか届かぬ声で言葉を続けた。


「……次元を超えて元の世界に帰る方法が分かったんだ。家族に謝るチャンスが再び巡ってきたんだ。それなのに、どうして俺は、全く見知らぬ異世界で、他人の母親に親孝行の真似事をしているんだろう。それを良しとする自分の浅ましさに、反吐が出る」

「…………」

「夢みたいだ。悪夢のようだ。考えても、みなかった。考えてみればそりゃそうだ。次元を渡る力だ。望む異世界に至る力だ。でもまさか、ここまで、揺さぶられるなんて、思いもしなかった。カラン・マルクの気持ちが、今なら痛いほど分かる。この俺の運命に、辿る物語の中に、この、未来の先に……」


 魔王はそれを言ったきり、膝から砂浜に崩れ落ちた。両手で顔を覆った。


「薫璃にもう一度会える手立てが、残されているなんて……」



 虫の鳴くような弱弱しい声で、魔王はそう言った。

 此方はただじっと息をひそめ、魔王の独白を聞いていた。


 類い稀な魔術の才能、深い知性、柔らかな物腰、飄々とした態度……そうした仮面にひた隠しにされていた、必死に何かに耐えている、哀れで孤独な一人の男。

 そこで初めて、此方は朧げに理解した。

 この世界でたった二人だけ……

 二人の姫が見ていたのは、仮面の内側、こちら側の彼だったのだ……。



「不思議だよ。ずっと一人だと思っていた前世より、いつも誰かが居てくれるこの異世界・・・の方が、余程孤独に感じるなんて。元の世界を知っている人間が、この世界には誰も居ない……その事実が、この世界で時を重ねるごと、重くのし掛かってくる。皆が帰った夜、一人で研究室の暖炉の前にいると、少しずつ身体が動かなくなって、呼吸が乱れて、脂汗が出て……ふと急に、どうしようもなく、薫璃に会いたくなる」


――異世界。


「いつか必ず、別れの時が来るんだ。どんなに大切に思った時間も、いつか必ず終わりが来るんだ。十五の時に思い知った積もりでいたけれど、本当は何一つ、分かっちゃいなかった。だからこそ俺は、カラン・マルクを許せない。だからこそ俺は、この世界に……」


――そうではないか? 彼が女神の湖によって遣わされた異なる世界の人間ならば。

――彼はいずれ、次元の向こうに……


「……迷っている時間はない。仮面はもう溶けている」


 魔王はすっくと立ち上がり、振り返って此方を見定めた。


「メイル、お前さんにひとつ、頼みがあるんだ。ベッグにも内緒の、秘密の頼みだ」


 魔王はその頼みとやらを此方に打ち明けた。

 此方は頷きそれに応じた。


「……すまんな。恩にきる」


 魔王は漸く微笑んだ。そして、諦念と優しさの入り混じった表情で、最後にこう言った。


「なあ、メイル。今夜の俺の無様な姿を、どうか覚えておいてくれ。こういう馬鹿がいた事を、どうか覚えておいてくれ。そして……俺たちが例えどんな結末を迎えようとも、今夜の懺悔はお前さん限りに打ち明けられた俺の秘密として、全てお前さんの心の内に留めておいて欲しいんだ。例え、俺たちが死んで、それから何百年が経とうとも、ね」


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