第二十八幕 ゼラチン
ベッグと知り合ってからというもの、俺を取り巻く時間の流れは急速に加速した。
朝は『魔学上級』の次の講義の準備をし、学生達のレポートに目を通す。昼はレゼルやベッグと一緒に、ウィスキーの開発やブランディング、蒸留所新設の為の会議に勤しむ。夜は相変わらず研究室を訪れるピルゼン教授とマノン先生の為に『魔王バー』を開店する。二人は、俺達が作っている新しい酒に忌憚なき意見を聞かせてくれるので、それに随分助けられている。
蒸留所の新設場所は、俺が最初に提案した通り、ホビット庄内が有力候補となった。
ウィスキーの蒸留は膨大な量の水を消費する為、蒸留所の設立場所は仕込み水を
ホビット達が蒸留所の新設を受け入れなかったときの為に、俺達は他にも候補地を選定する必要があった。土壌や気候を調べるため、各地に視察に行く計画も持ち上がっていた。視察の計画を話す時は、レゼルはいつも目を爛々と輝かせ、積極的に発言した。
そうした日常を終え、皆が帰ったあと、俺は書斎で一人、カランの研究を追った。
次元跳躍の理論の糸口は、ホビット庄で既に掴んでいた。解析のヒントは本棚に全て揃っていた。そう遠くないうちに、俺はかの理論に辿り着ける。失われた構築式も魔法陣も呪文も、彼の残した手順通りに組み立てていけば、再現出来ると確信していた。
来る日も来る日も、俺は夜が来るたびに、一人になるたびに、その解析を続けた。
✳︎✳︎✳︎
ハイボール試飲会の二日後、青の鐘が鳴った頃。
俺は魔術教員棟の研究室で、隣に座るレゼルと共にベッグの報告を聞いていた。
「ブレンデットウィスキー、あんたの言う通り酒造ギルドに持って行ってみたぜ」
「どうだった?」
「……不本意だが、かなりの高評価だった。琥珀の湖の水で半分くらい割って酒精を柔らかくした奴と、あんたが作ったしゅわしゅわする水で割った奴は特に人気だった。
ベッグは忌々しげにそう答えた。個性に乏しいあの酒がギルドの連中に受けたのが相当に気に入らないらしく、彼は不機嫌そうにむぅと唸ったあと、椅子の背に深くもたれ天井を見上げた。余談だが、この部屋の椅子でベッグの座るものだけは、彼が作った特注品のごつい奴だった。人間用の椅子は彼には背が高く、そして横幅が狭すぎるのだった。
「……まあ、そんな顔するなよ、ベッグ。俺たちが思う理想の酒は、仕事がある程度軌道に乗ってから、その時じっくり作ろうぜ」
フォローの積もりでそう言うと、ベッグは椅子の背にもたれたまま、俺をじとりと
「な、なんだよ」
「……まあいいぜ。ところで魔王、今日は猫姫さんは居ねえのかい」
「カリラか? もう昼前だし、そろそろ顔を出すとは思うが……どうした?」
「ああ、あの子に一つ、頼みてぇ事が……」
ベッグがそう言いかけた時、閉じられた扉の外からカリラの声が聞こえてきた。扉を開けてくださいと聞こえたので、俺は席を立ち、そのようにした。
「おかえりカリラ……なんだ? その大荷物」
「ええ、行く先々でちょっと……」
開けた扉の向こうに居たのはカリラ一人だった。両手にずしりと分厚い紙束を抱え、くたびれた顔で苦笑したあと、レゼルとベッグ、二人の先客に笑顔を向けた。
「
カリラの姿を認めるや、ベッグは席を立ちずかずかとカリラの元へやってきた。そして彼女が抱えている紙束を取り上げ机に遣り、実に真剣な眼差しで彼女を見上げてこう言った。
「あんたを待ってたんだ猫姫さん。おれに猫の手を貸してくれ」
✳︎✳︎✳︎
「
「ああ。明らかに食われてる。あと、鳥も来やがる」
緑の鐘が鳴ったので、取り敢えず俺たち四人は昼食にした。手早く作れるものが良かろうという事になり、カリラとレゼルにサンドイッチを作って貰うことになった。俺も手伝おうとしたが、研究室の狭いキッチンに三人並ぶと邪魔だったので追い出された。
「鼠はちいと
そう言ってずずずと音を立てて茶を啜り、ベッグはキッチンで具材のベーコンを切り分けているカリラに水を向けた。
「猫姫さん、どうだい。猫にはそれぞれ縄張りってえのがあるがよ、南の板金街じゃとんと猫を見かけねえ。あすこを縄張りしてる猫は居ねぇのかい」
そうベッグに問われると、カリラは「そうですねえ」と答えながら、包丁の手を止め思案げに天井を見上げた。
「南の板金街はミスティさんの縄張りですが、彼女はあまり縄張り意識が強くありません。そもそもあそこは、昔から猫さん達には不人気なんです。石と鉄の街ですし、ホビットさんもドワーフさんも、野良猫に食べ物をあげる習慣がないので……だから、その話を持ちかけても、果たして『にゃあ』と言ってくださるかどうか……」
俺は耳を疑った。
――この子は、王都中の猫の縄張りを全て把握しているのか? そんな事が可能なのか? そしてまさか、この子は猫に言うことを聞かせる事が出来るのか?
「猫姫さん、その、ミスティさんってぇのは、どんな猫だい」
「とっても綺麗な長毛の猫さんです。毛は、頭から肩にかけて
「ああ、あの猫かい。偶に南の市場で見るなぁ。あの猫は何が好物なんだい」
「猫さんですから、やっぱりお魚です。彼女は特にグルメさんなので、新鮮な赤身のが……」
「そいつは本題の麦より高く付くんじゃねえのかね、猫姫さん……」
俺は、今まで一切知らなかったカリラの能力に唖然としていた。そうしている内にいつの間にかサンドイッチは出来上がり、カリラの手によって大皿が机に置かれるや否や、ベッグはそのうちの一切れをむんずと掴み口に放り込んだ。そしてむぐむぐと咀嚼して飲み込み、至極真面目にこう言った。
「うめえな、これ……うめえ。なんだこれ、うめえ。何の調味料を使ってんだ、猫姫さん」
✳︎✳︎✳︎
昼食を終えると、早速にカリラは
結局、研究室には俺とレゼルが残された。俺達は顔を見合わせ遣る方無しに茶を飲んだ。
「なあレゼル、カリラは一体何者なんだ?」
「先祖帰りなんでしょうね」
レゼルは事もなげにそう言った。
「多分あの子、祖先に猫族の血が入ってるわ。猫と話しが出来るのは小さい頃からだったから、そうとしか考えられない。まあそれでも、王都中の猫と知り合いなのは異常だけれど」
「ベッグがあの子を『猫姫さん』って呼ぶ理由が、やっと分かったよ……」
茶を飲み終えた俺とレゼルは、特段やる事もなかったので自然と書斎に移動した。俺たちは両者とも活字中毒のきらいがあった。書斎の二人掛けのソファに並んで座って本を読む時間が、結局のところ一番落ち着くのだった。
「ねえ、現金を使わずお金を遣り取りする方法が書かれた論文ってどこだったかしら」
「為替の論文だな、ドア側から二つ目の棚、最上段だ」
「手が届かないわ」
「いま取るから」
「ありがとう」
ご所望の論文をレゼルに手渡した折、俺はふと思い立つ事があり、隣室に向かった。
「そういえば……」
書斎の隣の物置は、以前はカラン・マルクの残したガラクタの山の所為で足の踏み場もない有様だったが、今は俺とカリラの手によって粗方片付けられていて、何かしらの作業が出来るスペースが出来ていた。俺はその空間を使い、ウィスキー酵母の培養や、蒸留酒の熟成の実験を行っていた。
俺はその書斎に入り、壁際に置いていた樽の蓋を開け中身に目を遣り、顔をしかめた。
「あちゃあ、やっぱりか……」
「どうしたの?」
書斎から、レゼルがひょこりと顔を出して、そう訊いてきた。
「いや、実験に使う仕込み水が、随分少なくなっちまったなぁと思ってな。近いうちにまた琥珀の湖に汲みに行かないと」
「あたしも行くわ」
「勘弁してくれ。水汲みに行くだけでお前を王都の外に連れ出したら、今度こそグラン殿に殺される。俺が」
「というか、水くらい、貴方の魔術で幾らでも出せるでしょ」
「ただの水なら幾らでも出せるんだが……」
俺は溜息をついた。
そう、これは大きな誤算だったのだが、魔術で作られた水は酒造りには適さなかったのだ。
どうやら、魔術で作られた水はミネラル分を一切含まない純水らしく、糖を
「それなら、わざわざ琥珀の湖まで行かなくとも『女神の泉』に行けば良いじゃない。少し山を登るけれど、ホビット庄に行くよりは多少近いわよ」
「『女神の泉』? なんだそれ、この近くにあるのか?」
事もなげに言うレゼルに、首を傾げそう問うと、彼女はぽかんと口を開け、数秒の間黙り込んだ。そして言い出しにくいことを口にするような素振りで、彼女はこう訊ね返した。
「質問を質問で返して申し訳ないけど、貴方、この世界に来た時、最初どこにいたかしら?」
「山の中だ。夕暮れ時だった。木が鬱蒼と繁っていて、近くに水の音が聞こえていた」
「その山よ。そして、そこにある水源が『女神の泉』。名前も知らなかったの?」
そう言われ、俺はようやく理解した。
俺は確かにその場所を知っていた。異世界二日目の朝は、その泉から流れる川で水を汲み、顔を洗った。俺のこの世界での始まりの場所。そして『異界の魔王』カラン・マルクの、この世界での終わりの場所。
「あの山の泉か……正直、今まで名前も知らなかった。あの時は、自分が何者かも分からず、一杯一杯だったからな……。あの山の水はそんなに有名だったのか」
俺が頷くと、レゼルはどこか憂いを帯びた表情で、物置を辞し書斎に向かった。俺も水の樽の蓋を閉め、彼女に付いて行った。
レゼルは書斎のソファにぽふりと腰掛け、机に置かれたカランの論文を取り、読み始めた。
「あの山の泉にはね、水の女神が住んでいると伝えられているの」
広げた紙面に目を向けたまま、レゼルはそう、口を開いた。無機質な声音だった。
「訪れた者の願いを叶えるんですって。その人の一番大切な『物語』を対価に、ね」
✳︎✳︎✳︎
結局、夕刻になると、迎えに来たグラン氏に付き添われ、レゼルは帰って行った。
それから一時するとカリラが戻ってきた。彼女は早速夕食の支度をしようとしたが、昼に食べたサンドイッチで研究室の食料を使い切ってしまっていたので、折角だから、偶には外で食べようと、俺は彼女にもちかけた。俺とカリラは二人で校門を出て、市場に向かい、手頃な屋台の席に座り、店の主人に銀貨を一枚差し出した。
「カリラ、例の猫さんはどうだったんだ?」
「ミスティさんですね。市場の干し肉と、週に一度の新鮮なお魚で猫手を打ってくれました。あとは鼠の獲れ高によって、別途歩合をあげる事になっています」
俺はひとまずカリラの話を全て信じる事にした。彼女が俺に嘘をつくとも思えなかった。
「分かった。ミスティさんはウチの社員として登録しとく。餌代も別途経費で処理しよう」
「猫さんを使用人にして、餌代を経費ですか……酒造ギルドは認めてくれるでしょうか」
「麦を食われた実例がある。それを土台に交渉するよ」
「『魔王の叡智』ってやつですね、ふふ」
じきに日は暮れようとしていた。市場の店店は次第に閉店の準備を始めていて、買い物帰りの女たちが野菜や干し肉を胸に抱え家路を急いでいた。遠くの屋根の煙突から、幾筋もの白い煙が立ち上っていて、沈みかけの夕陽がそれらを茜色に染めていた。屋台の厨房から、香辛料のいい香りが漂ってきた。
「そういえばカリラ、今日、部屋に来たとき抱えてたあの紙束、なんだったんだ?」
「ああ、あれですか……ふふ、『魔王ゼミ』のレポートです」
「『魔王ゼミ』? ……なんだ、それ」
苦笑するカリラにそう尋ねた頃、テーブルに料理が運ばれてきた。
失敗した、と思った。
運ばれてきたその料理を、俺は今まで知らなかった。いや、前世で北欧を旅していた頃に似たようなものを見た事はあったが、食べた事はなかった。
それは羊の臓物のミンチに玉葱と麦と香辛料を混ぜ、胃袋の皮に詰めて茹でたものだった。香辛料の所為か羊の胃袋は毒々しい緑色をしていて、それがナイフで切り開かれる様ははっきり言ってホラーだった。しかも、切り開かれた胃袋の中身もまた、緑色に染まった臓物のミンチであるため、やはり目に優しいとは言い難い品物だった。カリラは平気そうだった。
「先生、どうされました? お腹でも痛いんですか?」
「ああん、ううん」
首を傾げるカリラにしどろもどろに返事しながら、俺はぎゅっと目を閉じて臓物を食べた。存外味は悪くなかったが、飲みこんでもまだ、羊の血管の硬い食感が口の中にいつまでも残った。もう二度と、この王都内ではカリラの手料理以外を食うまいぞと思った。
「そ、それで、『魔王ゼミ』とはなんですか、カリラさん」
「はい。先生の『魔学上級』の受講生達が最近始めた、自主的なゼミです。講義後に、あの小講義室に残って、先生の講義内容について感想や考察を言い合ったりしています。都合が付けば、ピルゼン教授にもご参加頂いています」
俺は意外に思った。あの自由気ままが服を着て歩いているようなピルゼン教授に、そんな職務意識があったなど露ほども思っていなかった。
「そのゼミって、カリラも参加してるのか?」
「私は殆ど強制参加です。先生と六年間一緒にいた訳だから、誰よりも先生の研究内容に詳しい筈だって……そんな事は決してないんですけど、ね」
カリラはそう言って困ったように笑って、臓物を匙で掬って食べた。平気そうだった。
「先生の講義の人気は凄いものです。皆、それはもう熱心に聞いてるんですよ」
カリラはそれを、我が事のように嬉しそうに語った。
「特に人気だったのは、先々週の講義『美味しいケーキの作り方』でした」
「魔学の講義であれは流石に生徒達に怒られるかと思ったんだが……人気だったなら何より」
「 『魔学上級』は聴講生の半分が女の子ですから、皆興味深々でした。あの時のゼミは楽しかったんですよ。皆で手分けして材料集めて、学校の食堂の厨房を借りて、年末際の時に先生が焼いてくださったケーキを、もう一度焼いてみたんです。先生みたいには、なかなか上手く行かなかったですけれど」
「へええ」
「ゼミにはピルゼン教授も参加されていました。『このケーキな、魔王陛下が直々に焼いたものを、僕は食べたぞ!』と仰って、皆からブーイングを受けてました」
「あらぁ……」
テーブルの向かいに座るカリラは、何か相当に楽しい事でもあったらしく、始終にこにこしていた。羊の臓物は正直口に合わなかったが、彼女の笑顔を曇らせたくない一心で、俺は料理を頑張って平らげた。
「最近、色んな人から言われます。魔王陛下をどうにかゼミにお呼び立て出来ないかって」
「うーん……顔を出したいのは山々だけど、流石に今は無理だな。蒸留場新設の案件がひと段落付いた後に、また考えるよ。皆にも、そう伝えておいてくれ」
毎週届く学生たちのレポートは、講義を重ねる毎に厚みを増していた。三十人全員の分を重ねると、もう、一日や二日で読める分量ではなくなっていた。学生達がそれだけ真面目に講義に取り組んでくれている何よりの証拠なのだから、俺もそれを無下には出来なかった。
「先生……最近働きすぎですよ。今日も、もうお疲れなんじゃないですか」
「いや、大丈夫。カリラの話をもっと聞かせて」
「私の方は、いつも通りです。さっきお話した以上に、面白い話なんてありませんよ」
慌ただしくも充実した日々は矢のように過ぎていった。
こうして二人で夕食をとり、他愛ない会話をするのも、ずいぶん久しぶりに思えた。
夕刻、カリラと毎日買い物に出掛けていた頃が、遠い過去の出来事に感じられた。
「先生、髪の毛、随分伸びちゃいましたね」
カリラにそう言われ、俺は指先で自身の前髪を一房摘んだ。髪は彼女の指摘通り、気付かぬうちに結構伸びていた。
「近いうちに、切っちゃいましょうか」
「うん……じゃあ、頼んで良いかな」
「はい」
食事を終えた俺たちは会話をそれまでにして、屋台を出て学校に戻った。俺はカリラを女子寮に送り届け、部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。意識はすぐに薄れていった。
✳︎✳︎✳︎
その日は、朝から空を一面の雲が覆っていた。
風はなく、正午を過ぎると外の空気は春の初めのように暖かくなった。裏庭の土は明け方に降った雨に濡れていて、書斎の窓を開くと、俺とカリラの元に雨の匂いを運んできた。
「じゃあ、始めますね」
「うん。よろしく」
そう言うと、カリラは後ろから手を回し、椅子に座る俺の首元にケープを巻いた。巻き込まれた髪を優しく外に掻き出す度、程近い彼女の身体から桃のような甘い香りがした。
「苦しくないですか?」
「大丈夫だよ」
それを聞くと、カリラの右手が俺の髪に触れた。左手に握る
鋏は十分に手入れがされていた。刃先はしゃきりという小気味好い音を立てて、一房の髪を俺の身体から解き放った。カリラは手馴れた仕草で、そうして俺の髪を切っていった。
「やっぱり、上手いもんだね」
リズミカルに響く鋏の音を聞きながらそう言うと、カリラは苦笑しつつ答えを返した。
「それはそうです。私は今やっているように、六年間、先生の髪を切って来ましたもの。慣れないほうが変ですよ」
「記憶を無くす前の俺は、理髪店に行ったりしなかったのかな」
「……はい。その頃の先生は、私とレゼルちゃん以外の方とは、決してお会いになりませんでしたから」
「そうだったんだ……」
カリラのその言葉を聞き、俺は、会った事もない、この身体の本来の持ち主……カラン・マルクという名の一人の青年について、考えを巡らせた。
親を殺され、それでも人を信じ、努力を重ね、人を救い、救った人に裏切られ、妬まれ、恨まれ……そうした末に、人というものの一切を信じられなくなった、哀れで孤独な魔王陛下。
だが、そんな彼でも、自分を慕う心根の優しい二人の少女だけは、最後の最後まで手放す事が出来なかった。
だから思う。カリラとレゼル、二人の存在は、彼にとって最後の希望の様なものではなかっただろうか、と……。
――訪れた者の願いを叶えるんですって。その人の一番大切な『物語』を対価に、ね。
「カリラとレゼルは、信頼されてたんだね」
そう言うと、髪を切るカリラの手がぴたりと止まった。
「……信頼されるのは、嬉しいです。信頼されるだけなのは、残酷です。……私が言えた立場ではないですけれど」
呟くようにそう言って、カリラは再び手を動かし始めた。
穏やかに静かに、午後は過ぎていった。
レゼルにもベッグにも、今日は一日休みにしたいと伝えていた。部屋の鍵は閉めたままで、ノッカーも鳴らなかった。
開け放した窓の向こうには、殺風景な裏庭と雑木林が見えていた。空を覆う一面の灰色の雲の所為で、目に見える景色はいずれも彩度を欠き、どこか白々しかった。
少しだけ湿気を帯びた空気の対流が、時折、校舎を歩く学生達のざわめきを運んできた。
普段レゼルと使っている机もソファも、今だけは端に
俺とカリラの間に言葉はなく、二人の呼吸の切れ目を縫うように、鋏の音だけが断続的に響いていた。
この学び舎の千人の学生達も、数十名の教師達も、王都に住む三十万の人々も、誰も……魔王とカリラの、この密やかな時間の存在を知らない。それを、ひどく不思議に思った。
やがて、鋏の音は終わった。
カリラは、すっかり切り揃えられた俺の髪を、何度も手櫛で優しく梳いた。
「終わりましたよ、先生」
「……うん」
そう答えたが、俺は席を立たず、そのままずっと窓の外を見ていた。
カリラはそれを咎めなかった。俺の後ろに立ったまま、ことり、と鋏を机に置いて、右手で俺の頭に触れた。そして先程までと同じ
後ろを振り返らなくとも、彼女が穏やかに微笑んでいるのが分かった。
雨雲を透過した鈍色の光だけが、この午後の書斎を知っている。
窓枠に蜘蛛の巣が張っている。糸は古く、ほつれている。家主の姿はない。
書棚には、かつての大魔術師が記した六年間の寂寞が、静かな眠りについている。
ざわめきはもう届かない。耳元のすぐ後ろで、カリラの心音だけが聞こえている。
ふと、思った。
今ここで、時を止める魔法を使うのはどうだろうか、と。
出来もしない、この世に存在しない、想像すらつかないその魔法に、果たしてカリラは掛かってくれるだろうか。
打ち立てたはずの野望も、講義を待つ三十人の生徒達も、レゼルと交錯する己の物語も……過ぎ行く全ての事柄が、運命が、関係性が、曖昧なままゼラチンのように優しく
次第に歩調を早めてゆく時代のうねりから取り残され、人々の喧騒は遥か窓の外にある。
あまねく
ずっと、永遠に。
そういう魔法は、そういう結末は、どうだろうか、と……
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