冬のサイダー

 午後八時を過ぎたころ、男は歩きながら小さくため息をついた。吐く息が白い。先ほど赤信号で止まったとき、スマホの画面を覗いたを思い出す。やはり返信は来ていなかった。

 

 仕事帰りに通るこの道は、ファミリーレストランやスーパーなどが立ち並び、夜になっても人通りは少なくない。周りには自分と同じようなコート姿の男性が歩いていたり、手袋をつけて自転車を漕いでいる制服姿の学生もいた。だから、声をかけられたときは自分に向けられたものではないと思っていた。


 「あの、すみません、聞こえてますか」


 男は肩を軽く叩かれてようやく自分に向けられたのだと気づく。歩くのを止め、振り向くと、ブラウンのコートを羽織った女が立っていた。


 「実はあなたに紹介したい商品がありまして。よかったらそこの喫茶店でケーキでも食べませんか」


 「キャッチセールスですか?あまり気乗りはしないな。それに、僕は甘いものが好きでないので」


 「あ、そうなのですか。では、道の真ん中では邪魔になるので、端でささっと紹介しちゃいます」


 セールスの話を聞くこと自体避けたかったんだけどな、男はそう感じながらも、特段予定があるわけでもないし、会社では営業職をやっているだけあって、少しだけなら話をきいてやろうと心が傾いた。


 「でですね、紹介したい商品というのが、こちらのサイダーです」


 女はそう言いながら、一本の瓶を取り出した。


 「サイダー?普通の?」


 今時飲み物一本を売り歩くセールスマンもいるのかと男は半ば呆れてしまう。


 「まぁ、味は普通なんですけど、飲み切ると一日だけ透明人間になることができます」


 「へぇ、透明人間にね・・・透明人間?」


 男は思わず聞き返してしまう。そんなことがあるわけない。


 「ええ、周りからは飲んだ人の姿形が見えません。これっていわゆる透明人間ってことなのでしょう?」


 「その説明は間違っちゃいませんが・・・本当ですか?」


 「信じるかどうかはあなた次第ですが」


 透明人間。誰もが一度は妄想したことがあるのではないだろうか、男であればなおさら。


 「だとしたら、すごい」


 男は許されざる期待で胸が高鳴る。


 男の思惑が顔に出ていたのか、女は呆れたようにため息を吐く。


 「どのような目的で透明人間になろうと、それはあなたの自由なんですけど、一つ提案があります。あなたには、彼女さんがいますよね」


 「えっ」男は言葉に詰まる。確かに彼女がいるからだ。


 「そして、あなたは今、その彼女さんに不信感を抱いている」


 男はどきりとした。女はなぜそんなことまで知っているのだろうか。どこかで気づかせる言動でもしていただろうか。男の彼女は最近、急に冷たくなった。ついこの間まではメールのやり取りを頻繁に行っていたのに、今日も彼女からの返信は少ない。デートの誘いをしても、忙しいとの一点張りで中々会ってはくれなかった。現在求職中の彼女が忙しくなる理由が見当たらない。核心はないが、ふとしたときに、彼女が別の誰かと仲良くデートをしたり、メールをしている姿が思い浮かんでしまう。


 「それと透明人間と、何が関係あるんですか」男はつい強い口調になってしまう。


 「一日彼女さんの行動を透明人間になって観察してはいかがですか?そうしたらあなたの考えも多少はまとまるはずです」


 「な、なるほど・・・」


 男は腕組みをし、しばらく考えた。道中をベンチコートで歩いている若い女性がクリスマスケーキの予約はいかがでしょうかと宣伝している声が遠くで聞こえる。思えば2日後はクリスマスだった。できればそれまでに不安感を払拭したい。しかし、もしこの不信感が当たっていれば・・・最悪のクリスマスになることは間違いなかった。


 「クリスマスケーキかぁ。美味しそうだなぁ」待ちぼうけていたのか女はぼそっと独り言ちている。


 「自分らににケーキは無縁だな。自分も彼女も甘いもの、苦手だし」


 「彼女さんもなんですか。珍しい人もいたものですね。で、どうですか?買いますか?」


 「そうですね、じゃあ一本もらおうかな」


 「ありがとうございます!あなたは特別なお客様です。クリスマスも近いってこともありますし、特別に一本100円でご奉仕します」


 「え、100円でいいの?男の夢って案外安いんだね」男はついおどけてしまう。



 

(2日後・・・)




 クリスマス当日も仕事はあった。そして今日の帰路はいつにも増して人通りが多い。レストランやカフェで夕食を楽しむ人が多いせいだろう。そんな道すがら、ばったりと出会ってしまった。二日前、不思議なサイダーを売ったコート姿の女に。


 「偶然ですね。どうですか、サイダー、飲みました?」


 「ええ。飲みました。本当に人に気付かれなくなりましたね。その時点でびっくりです」


 「紛い商品なんて売るわけないでしょうに」女はどこか誇らしげだった。


 「やっぱり、透明人間になって彼女の一日を観察してみようと思いました。朝早くから彼女の家の玄関で待っていたのですが、6時には家を出ていて・・・」


 「彼女さんは一体なにを・・・」


 「結論から言うと、ずっと仕事をしていました。すべて日雇いのアルバイトを。朝はホテルの清掃、昼からは飲食店、夜は工事現場の誘導員をやっていました。帰るころには全身に煤をかぶっていて、作業着も肌も黒くなっていました。それで仕事終わり、お店の人から茶色い封筒をもらっていて。たぶん給料だと思います。で最後の封筒をもらって、中身を確認した彼女は、一言『これであのバッグが買える』と呟いたんです。それは以前デートに行ったとき、自分が一目惚れした物でした。ただ、値段が高くて、そのときは惜しくも断念してたんですけど」


 「素晴らしい彼女さんですね」


 「疑った自分が馬鹿みたいです」


 「そんなことないですよ。ときに疑うことも必要です。ただ、それ以上に信じることはもっと重要なのかもしれませんね」


 「そうですかね」男は照れ笑いをする。


 「ところで、手に持っているのって、ものすごく美味しくて有名なケーキ屋の箱じゃないですか?でもあなたたちカップルは甘いの嫌いなんじゃ?」


 「ええ、僕はあまり好みません。彼女も甘いものが苦手だと言っていました。ただ、透明人間になったとき、彼女が仕事の休憩中に、コンビニで買ったケーキをそれは美味しそうに食べているのをみまして。おそらく僕に合わせてくれていたんじゃないかなと。これからこのケーキを一緒に食べながら過ごします」


 「素敵なクリスマスになりそうですね」


 「ええ、まったく」男の白い息がすっと消えた。

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